16
この町への平和の使者を派遣する準備の作業を進めている間に、松尾優紀はアリサ夫人から、会わないかと声をかけられた。アリサの父の寺の修行で、時々会っていただけに、改めて外でというのは珍しかった。映像詩の制作作業でも色々アドバイスをもらった。それだけに、密会めいた会い方に何か普段とは違うことで話したいことがあるに違いないという感じを持った。
山岡市の駅前ビルの喫茶室で松尾はアリサと会った。尾野絵市は松尾の育った町でもあるし、奈尾市はアリサの住んでいる所である。近接したその二つを避けて、Zスカルーラのあるこの場所が会う場所に選ばれたのはやはり意味があることなのだろうかと、松尾優紀は考えた
松尾とアリサ夫人の話題はいつも映像詩と文学と禅の話だった。平和への映像詩は平和産業の一部であり、仕事であり、アリサの一番関心を持つ分野でもある。
アリサは色々な方面から、松尾を指導・応援してくれた。それに答える形で、彼は小遣いの多くを本代に使い、その知識を彼女の前で披露することもあった。
「全く、温暖化と核兵器の脅威は現代文明の癌細胞ですな。放っておけば、どんどん増殖するばかり。温暖化の歯止め、反核運動や反公害運動はもっと盛り上がってもらいたいものです。」
彼女が微笑すると、勇気づけられたような心理になり、彼は次のように言うのだった。
「 秩序ある物質は、無秩序なものに必ず変化していくというわけです。その中で生命というのは秩序をつくる。この働きの中で生命は汚物を、機械は廃棄物を、原発は放射性廃棄物を、文明は消耗したエネルギーを、それぞれ周囲に吐き出していくという処理をやっているわけです。この処理を無視すると今日のような公害間題が顕在化してくるというわけです。
原発は放射性廃棄物が問題になるわけです。」。
良い映像詩もつくられ、ユーチューブに載せられ、かなりの人が見にくるようになった。それでも、こういう考えに反対する勢力や無関心派も根強いと思われた。温暖化阻止とか、核兵器廃棄の話は話があまりに巨大なので、これを世界に広げるには平和産業の力を借りても、まだまだ力量不足だった。
この日は松尾は宇宙人の話をしたいと思っていたが、アリサがそういう話を信用しないだろうと思っていた。
だからこそ、工夫して喋べらねばならないと考えていた。
二人とも詩を書いたが、その頃、松尾優紀はヴェニスが温暖化で水浸しになることをモデルにした町をテーマとして、小説を書いていて、その話をアリサに話していた。結局、その物語は完成することなく、松尾が社会に出てからは、忙しさの合間を縫って、少しずつ書いていた。そのためか、堀川の妻になったアリサに会うと、自然に自分の書いたヴェニスの詩句を思い出すのだった。
温暖化の悲劇がヴェニスの町を襲うという
水没しそうなヴェニスの町
水がからからになったヴェニス
どちらも、冬に起きるという
ああ、思い出のヴェニスはゴンドラが行きかい
古いビルの窓には真紅の花が飾られ
運河の水と青空は歴史ある迷宮のシンボル
ゴンドラは生活の足でも、楽しさはピアノソナタの音色のようだ
夢がある。希望がある。
町ではエネルギー問題があるようだけれど、
それでも昔ながらの今の生活
人々は中世のような服を着て
夏はビールを飲み
普段はコーヒーを飲む
どこにでもある生活だが、楽園に来たように何か楽しい
ゆったりした動きがあるからだ
スピードではない、自然を楽しむ歴史の建物があるからだ
ああ、ヴェニスよ、幾千の詩人が
ここを訪れ、真に生きる人達を見たことか
ああ、今そのヴェニスが危機にあるとは。
満月が照らす運河と歴史のビルはさながら美の蜃気楼
一切は色即是空、空即是色
この物語を作っている最中にも、ヴェニスには行きたいと思っていた。冬の名物、高潮で町が水浸しになる所があるという話は聞いていた。それでも、観光客が少ないということで、冬に行こうかとも思ったことがある。ところが、温暖化のせいで、冬の名物というよりは災害というレベルにまで、水が町中に浸透し、歩くのに長靴が必要ということになっているらしいと聞いて驚いた。
今までのアリサとの映像詩の共同作業の点からいっても、話題は似たようなものになるだろうと、予想していた。
それから、ここでアリサに会った時、思いがけない姿が彼の心に浮かぶのだった。高校時代の中野静子だ。
会社では、静子を見るたびに、島村アリサ夫人を思い出すのが、この日はアリサに会って静子の顔が幻のように、思い浮かぶ。何故だろうか。分からぬままに、アリサの夫である弁護士の堀川光信を思い出すのだった。結婚しているのだから、堀川アリサ夫人と呼ぶべきなのだが、優紀の心の中にそれに反発する心が動き、心の中では、旧姓の島村を使っていた。
そしてふとしたことから、静子とアリサが又いとこであり、遠い親戚関係にあったことを知り、何かうなずくものを松尾は感ずるのだった。
最初に彼女の口から出たのは、夫の堀川善介が原子力発電所の件で美川に二度目の出張に出ているということだ。
奈尾市に地下水汚染の問題があり、さらにはルミカーム工業を誘致するという問題があるのに、美川に行くのは原発に何か問題が起きているということをキャッチしたからだろう。その原発の噂の真偽を確認するのは、堀川自身の脱原発の心情からも確認したいことで、工場誘致を断るためにも、奈尾市の誘致派を説得する上でも必要なことだと考えての出張だったのだろう。
ルミカーム工業は平和産業の親会社であり、松尾にとっては彼を引き立ててくれた船岡工場長が今は重役となっている会社である。
ただ、会社の上層部では、色々な葛藤があり、原発に手を出そうという勢力が大きくなって、船岡を困らしているということは耳にしていた。
その日の彼女は紫のスーツを着込み、胸に赤い花模様の入ったスカーフをしめて入ってきた。そして満面に微笑を浮かべ挨拶をした。
しばらく気候のことや近況の様子などについてとりとめのない話が続いた。
その中で、中野静子の話には花が開いたという趣があった。
「ええ、それにしても、あなたと中野静子さんが又いとことは驚きました」
「そう、遠い親戚ですから、普段は会ったことはありません。彼女のお父さまが会社を発展させている頃、あたしは父に連れられて彼女のお父さまにお会いしたことがあります。静子さんはまだ小さく子供でしたね。
彼女はヴァイオリンを練習していましたよ。中々上手なので、驚きました。
その時の中野静子の印象を話し、その後の父親の会社の倒産劇は厳しく、そのことが大学を中退し、今は平和産業に通っているいきさつだと話した。
今まで笑いで包まれていたアリサは急に顔を引き締めて話題をがらりと変えた。
「隣の山岡市にあるZスカル―ラの地下水汚染が奈尾市の井戸まできているっていう話、知っています?」とアリサ夫人は言った。
Zスカル―ラというのは ルミカーム工業と並ぶこのあたり一帯の大手の会社であり、原発を持っていることでも有名である。
「はい、ちらりと聞きました」
「重傷患者が何人か出てしまいましてね。堀川がZスカル―ラの原発がある美川湾に調査に行ったことはご存知かしら」
「ええ、それもちらりと聞いています。調査に行きましたか。それは大変ですね」
「弁護士として、原発稼働に直接抗議する運動に意欲的なんです。あの原発はあちらの県にありますから、ただの弁護士の方が動きやすいということで、奈尾市長選の誘いを断ったいきさつがあるのです。。
でも、隣の山岡市のIT工場から出たトリクロロエチレンによる地下水汚染が私どもの町、奈尾市にまで侵入してきた責任を感じるとよく言うようになりました。いずれ、地下水研究所をつくり、地下水汚染対策に専念したいとも言っておりますわ。同時に脱原発運動に大きくかかわりたい、これは急ぐ話だというのです」
「堀川さんは驚いたのでしょう。山岡市の汚染がまさか地下水を通って奈尾市には来ないだろうと思っていた。」
松尾優紀はアリサ夫人の目をまっすぐに見た。思えば、この夫人には思春期の頃から、好意を持っていた。初恋だと思っていた。
松尾優紀は宇宙人の話を持ち出すのに、以前から書いていたウネチア物語というSF的発想法で書かれた小説の概略を彼女に言ったことを思い出した。内容も彼女にほめられたこともある。平和産業の近くに宇宙人が現われた話をストレートに出しても、彼女は肯定しないという直感があった。そこで、このウネチア物語を出すことで、現実に起きている宇宙人の深刻な話をしてみようと考えていた。
今は平和産業の仕事が忙しいので、途中で放りっぱなしにしてあるが、時たま原稿を見ることがある。アイデアが浮かぶと、原稿の横に赤のボールペンで書いておく。
「ウネチア物語を書いていると、最近おきた宇宙人のことが真実味を帯びてきます」
「宇宙人?」とアリサは目を丸くした。
松尾はそう言って、注意深く、彼女の反応をみまもった。彼女は一瞬、目を大きくみひらいて、その静ひつな瞳に一種の驚きの表情を浮かべた。それが彼には妙におかしかった。
【つづく】
この町への平和の使者を派遣する準備の作業を進めている間に、松尾優紀はアリサ夫人から、会わないかと声をかけられた。アリサの父の寺の修行で、時々会っていただけに、改めて外でというのは珍しかった。映像詩の制作作業でも色々アドバイスをもらった。それだけに、密会めいた会い方に何か普段とは違うことで話したいことがあるに違いないという感じを持った。
山岡市の駅前ビルの喫茶室で松尾はアリサと会った。尾野絵市は松尾の育った町でもあるし、奈尾市はアリサの住んでいる所である。近接したその二つを避けて、Zスカルーラのあるこの場所が会う場所に選ばれたのはやはり意味があることなのだろうかと、松尾優紀は考えた
松尾とアリサ夫人の話題はいつも映像詩と文学と禅の話だった。平和への映像詩は平和産業の一部であり、仕事であり、アリサの一番関心を持つ分野でもある。
アリサは色々な方面から、松尾を指導・応援してくれた。それに答える形で、彼は小遣いの多くを本代に使い、その知識を彼女の前で披露することもあった。
「全く、温暖化と核兵器の脅威は現代文明の癌細胞ですな。放っておけば、どんどん増殖するばかり。温暖化の歯止め、反核運動や反公害運動はもっと盛り上がってもらいたいものです。」
彼女が微笑すると、勇気づけられたような心理になり、彼は次のように言うのだった。
「 秩序ある物質は、無秩序なものに必ず変化していくというわけです。その中で生命というのは秩序をつくる。この働きの中で生命は汚物を、機械は廃棄物を、原発は放射性廃棄物を、文明は消耗したエネルギーを、それぞれ周囲に吐き出していくという処理をやっているわけです。この処理を無視すると今日のような公害間題が顕在化してくるというわけです。
原発は放射性廃棄物が問題になるわけです。」。
良い映像詩もつくられ、ユーチューブに載せられ、かなりの人が見にくるようになった。それでも、こういう考えに反対する勢力や無関心派も根強いと思われた。温暖化阻止とか、核兵器廃棄の話は話があまりに巨大なので、これを世界に広げるには平和産業の力を借りても、まだまだ力量不足だった。
この日は松尾は宇宙人の話をしたいと思っていたが、アリサがそういう話を信用しないだろうと思っていた。
だからこそ、工夫して喋べらねばならないと考えていた。
二人とも詩を書いたが、その頃、松尾優紀はヴェニスが温暖化で水浸しになることをモデルにした町をテーマとして、小説を書いていて、その話をアリサに話していた。結局、その物語は完成することなく、松尾が社会に出てからは、忙しさの合間を縫って、少しずつ書いていた。そのためか、堀川の妻になったアリサに会うと、自然に自分の書いたヴェニスの詩句を思い出すのだった。
温暖化の悲劇がヴェニスの町を襲うという
水没しそうなヴェニスの町
水がからからになったヴェニス
どちらも、冬に起きるという
ああ、思い出のヴェニスはゴンドラが行きかい
古いビルの窓には真紅の花が飾られ
運河の水と青空は歴史ある迷宮のシンボル
ゴンドラは生活の足でも、楽しさはピアノソナタの音色のようだ
夢がある。希望がある。
町ではエネルギー問題があるようだけれど、
それでも昔ながらの今の生活
人々は中世のような服を着て
夏はビールを飲み
普段はコーヒーを飲む
どこにでもある生活だが、楽園に来たように何か楽しい
ゆったりした動きがあるからだ
スピードではない、自然を楽しむ歴史の建物があるからだ
ああ、ヴェニスよ、幾千の詩人が
ここを訪れ、真に生きる人達を見たことか
ああ、今そのヴェニスが危機にあるとは。
満月が照らす運河と歴史のビルはさながら美の蜃気楼
一切は色即是空、空即是色
この物語を作っている最中にも、ヴェニスには行きたいと思っていた。冬の名物、高潮で町が水浸しになる所があるという話は聞いていた。それでも、観光客が少ないということで、冬に行こうかとも思ったことがある。ところが、温暖化のせいで、冬の名物というよりは災害というレベルにまで、水が町中に浸透し、歩くのに長靴が必要ということになっているらしいと聞いて驚いた。
今までのアリサとの映像詩の共同作業の点からいっても、話題は似たようなものになるだろうと、予想していた。
それから、ここでアリサに会った時、思いがけない姿が彼の心に浮かぶのだった。高校時代の中野静子だ。
会社では、静子を見るたびに、島村アリサ夫人を思い出すのが、この日はアリサに会って静子の顔が幻のように、思い浮かぶ。何故だろうか。分からぬままに、アリサの夫である弁護士の堀川光信を思い出すのだった。結婚しているのだから、堀川アリサ夫人と呼ぶべきなのだが、優紀の心の中にそれに反発する心が動き、心の中では、旧姓の島村を使っていた。
そしてふとしたことから、静子とアリサが又いとこであり、遠い親戚関係にあったことを知り、何かうなずくものを松尾は感ずるのだった。
最初に彼女の口から出たのは、夫の堀川善介が原子力発電所の件で美川に二度目の出張に出ているということだ。
奈尾市に地下水汚染の問題があり、さらにはルミカーム工業を誘致するという問題があるのに、美川に行くのは原発に何か問題が起きているということをキャッチしたからだろう。その原発の噂の真偽を確認するのは、堀川自身の脱原発の心情からも確認したいことで、工場誘致を断るためにも、奈尾市の誘致派を説得する上でも必要なことだと考えての出張だったのだろう。
ルミカーム工業は平和産業の親会社であり、松尾にとっては彼を引き立ててくれた船岡工場長が今は重役となっている会社である。
ただ、会社の上層部では、色々な葛藤があり、原発に手を出そうという勢力が大きくなって、船岡を困らしているということは耳にしていた。
その日の彼女は紫のスーツを着込み、胸に赤い花模様の入ったスカーフをしめて入ってきた。そして満面に微笑を浮かべ挨拶をした。
しばらく気候のことや近況の様子などについてとりとめのない話が続いた。
その中で、中野静子の話には花が開いたという趣があった。
「ええ、それにしても、あなたと中野静子さんが又いとことは驚きました」
「そう、遠い親戚ですから、普段は会ったことはありません。彼女のお父さまが会社を発展させている頃、あたしは父に連れられて彼女のお父さまにお会いしたことがあります。静子さんはまだ小さく子供でしたね。
彼女はヴァイオリンを練習していましたよ。中々上手なので、驚きました。
その時の中野静子の印象を話し、その後の父親の会社の倒産劇は厳しく、そのことが大学を中退し、今は平和産業に通っているいきさつだと話した。
今まで笑いで包まれていたアリサは急に顔を引き締めて話題をがらりと変えた。
「隣の山岡市にあるZスカル―ラの地下水汚染が奈尾市の井戸まできているっていう話、知っています?」とアリサ夫人は言った。
Zスカル―ラというのは ルミカーム工業と並ぶこのあたり一帯の大手の会社であり、原発を持っていることでも有名である。
「はい、ちらりと聞きました」
「重傷患者が何人か出てしまいましてね。堀川がZスカル―ラの原発がある美川湾に調査に行ったことはご存知かしら」
「ええ、それもちらりと聞いています。調査に行きましたか。それは大変ですね」
「弁護士として、原発稼働に直接抗議する運動に意欲的なんです。あの原発はあちらの県にありますから、ただの弁護士の方が動きやすいということで、奈尾市長選の誘いを断ったいきさつがあるのです。。
でも、隣の山岡市のIT工場から出たトリクロロエチレンによる地下水汚染が私どもの町、奈尾市にまで侵入してきた責任を感じるとよく言うようになりました。いずれ、地下水研究所をつくり、地下水汚染対策に専念したいとも言っておりますわ。同時に脱原発運動に大きくかかわりたい、これは急ぐ話だというのです」
「堀川さんは驚いたのでしょう。山岡市の汚染がまさか地下水を通って奈尾市には来ないだろうと思っていた。」
松尾優紀はアリサ夫人の目をまっすぐに見た。思えば、この夫人には思春期の頃から、好意を持っていた。初恋だと思っていた。
松尾優紀は宇宙人の話を持ち出すのに、以前から書いていたウネチア物語というSF的発想法で書かれた小説の概略を彼女に言ったことを思い出した。内容も彼女にほめられたこともある。平和産業の近くに宇宙人が現われた話をストレートに出しても、彼女は肯定しないという直感があった。そこで、このウネチア物語を出すことで、現実に起きている宇宙人の深刻な話をしてみようと考えていた。
今は平和産業の仕事が忙しいので、途中で放りっぱなしにしてあるが、時たま原稿を見ることがある。アイデアが浮かぶと、原稿の横に赤のボールペンで書いておく。
「ウネチア物語を書いていると、最近おきた宇宙人のことが真実味を帯びてきます」
「宇宙人?」とアリサは目を丸くした。
松尾はそう言って、注意深く、彼女の反応をみまもった。彼女は一瞬、目を大きくみひらいて、その静ひつな瞳に一種の驚きの表情を浮かべた。それが彼には妙におかしかった。
【つづく】
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