空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

武器よさらば 【エッセイ】

2023-05-06 14:05:47 | 文化




この間のショートショートは舞台がイタリアが多かったですね。
若い頃、ヨーロッパ旅行に行ったことはありますが、出発点はローマでしたね。
バチカンは見る芸術品が圧倒的に多いだけでなく、ミケランジェロを始めとする深みのあるものが多く、時差ボケで二日間で見るには無理があったようです。
ホテルの一室を二人で借りたのですが、列車を取材に来た記者の方と一緒になり、大変良い方だったので、夜、二人で散歩しました。
二人とも外国の夜は慣れていないので、一緒が良かったのでしょう。バーで一緒にアルコールを入れ、ローマを楽しみましたけれど、何と言っても、短い時間でしたからね。
次のフローレンスとヴェニスへの旅が楽しみでした。しかし、それからは一人旅ですから、英語に自信があるわけでないし、イタリア語はまるで知らないのですから、大変です。若さで乗り切るしかありませんでした。

乗った列車が満員電車で、真中へんに立って吊革につかまっていたのですが、小用に行きたくなりましてね。周囲の人に聞いたのですよ、この電車にトイレがあるのかと、勿論イタリア語が出来ませんので、何か言ったと思いますよ。どうもあるらしいということで、移動を開始したのですが、この移動が大変で、それよりも、小さな駅に止まったので、飛び降りてしまいました。
トランクとミノルタのカメラと三脚持って、田舎の広広した駅の構内に飛ぶようにして行き、用をすますと、地獄から天国に行った人のようなうきうきした気分で、駅の前のカフェーの椅子に座り、コーヒーを飲み、写真を撮っていたら、十名ぐらいの若者が集まってきましてね、一人初老の人がまじっていましたけれど、私のカメラに興味を持つのです。
身振り手振りの会話はしましたけれど、日本のカメラの素晴らしさに感心し、譲ってくれるとありがたいといわれたようですけれど、これは旅に必要だと言って断りました。そのあとは、フローレンス行きの電車に飛び乗ったという印象でした。
フローレンスでも、ヴェニスでも、これと似たいくつかのエピソードを交えながら、芸術品を楽しんんだわけですが、そのあとはスイスへいきました。電車では、北イタリアの風景が見えました。
【 映画「武器よさらば」にも、北イタリアの描写があったと思います。】
美しい景色を車窓から楽しんだと思います。なにしろ、若い頃の旅なので、記憶も遠いものとなっていますので、細かいことは忘れてしまいました。
列車の中では、若い夫婦に声をかけられ、旦那は英語が駄目なので、奥さんと長いこと、話したことを覚えています。【今は英語はすっかり忘れてしまいましたけれど、】
それから、スイスに入り、フランスのグルノーブル、リヨンと行ったわけですけど、ヘミングウエイの「武器よさらば」の最後は船で湖をボートで、イタリアからスイスに逃げる所が大変な冒険で、素晴らしい描写でしたね。映画も良かったと思いますよ。以前、掲載した感想文で、恐縮ですけど、
下に書いておきました。

【小説の魅力はなんと言っても文章である。北イタリアの風景の緻密な描写は素晴らしい。だから、主人公の中尉フレディック・ヘンリーとイギリス人キャサリン・バークレイの恋愛はその風景の中に綺麗におさまってしまう。
そこへ行くと、映画は二人の話がクローズアップされているせいか、何かメロドラマ風になってしまっている。
ロミオとジュリエットは素晴らしいが、メロドラマ風というのは、小説のようなしっかりした反戦映画を期待している私を少しがっかりさせる。それでも、映画では、中盤のドイツ軍に攻撃されたイタリア軍の敗退と民衆が逃げる様子は沢山の人間が戦争の悲劇にまきまれていく様子が映像化されていて、迫力がある。

さて、「武器よさらば」は、反戦の文学である。第一次大戦を扱っている。「西部戦線異状なし」ではドイツ側から描いた戦争の悲劇であるが、「武器よさらば」はイタリア側から見た戦争である。最初はイタリアとオーストリアの戦いの描写がある。

イタリア軍に占領された戦場の町が美しかったというのは、私は不思議に思うのだが、ヘミングウェイの筆によると、町も、主人公の住む家も綺麗ということである。背後には川が流れている。背後の山々はまだ敵の手中にある。オーストリア軍は戦争が終わったあとには、またこの町に帰ってくる気持ちがあるらしい。そのために、彼らはこの町を本格的に大砲で破壊することを避けているようだった。

こういう合間に、ヘンリーは病院の看護師の女に手を出し、キスまでしてしまう。もっとも、こう平凡に書いたのでは、文豪の素晴らしさは消えてしまうので、そんなことがあったというにとどめる。この場面は出会いから、キャサリンが美人ということで、ヘンリーは楽しんでいるだけで、戦争の合間の一幅の休憩という感じで、この恋愛の最初の幕が開けられようとしている。

そして、前線に行く。
ところが、ヘンリーは前線に出てしばらくして直ぐに、迫撃砲で足に大けがをしてしまう。
そして、ヘンリー中尉は、前線からミラノにある病院に送り返される。ここで、ヘンリーと看護師キャサリンは再会し、あれほど彼女と恋に陥るまいと思っていたし、ほかの女性との恋も望んでいなかったのに、彼は、キャサリンを恋してしまい、ミラノの病院の一室のベットに横たわることになってしまうのだ。手術は成功だった。
新聞によると、戦争はまだまだ続きそうな状況である。西部戦線では、まだどちらの側も相手を叩いていない。最初はみんな直ぐ終わると思っていた戦争。

たった四年間で、若者が二百万人死ぬ戦争とは最初、誰も考えていなかったが、結果としてそうなっていく様子が小説にも映画にも描写されている。愚かな戦争である。知恵を誇る人間の歴史にこのような戦争があったとは、不可解と思わざるを得ない。この愚かさを小説も映画も見事に描写している。

やがて、前線に戻るヘンリー中尉。
「さようなら」
ヘンリーは雨の中に踏み出すと、馬車が走りだした。馬車、いいね。これは町がまだ自然の色を残したロマンチシズムにあふれた面影を感じさせる。そこへ行くと、今はどうでしょうか。高速道路が風景をぶちこわしていたり、京都のように寺や美しい庭園の多い所でも、主要な道の多くでこのロマンチシズムは消えてしまっている。残念なことである。


それはともかく、二人の別れである。キャサリンが身を乗り出し、その顔を灯火が照らす。彼女は微笑して、手をふる。
こうして、ヘンリーは再び、前線に戻るのだが、すさまじい戦闘のあと、退却がはじまった。ドイツ軍とオーストリア軍が北方の戦線を突破し、山岳地帯の渓谷を下って、進撃しているらしい。ドイツ軍は中尉の言葉を借りると、ぞっとするほど強いようだ。

この退却も大変なものだ。しまいに、乗っている車の車輪は空転するばかりで、前に進めなくなる。「命令だ。小枝を切ってこい」と軍曹に命令するヘンリー中尉。しかし、軍曹二人は逃げていく。ヘンリーは拳銃を引き抜き、口数の多かったほうの軍曹に狙いを定めて、引き金を引いた。

この場面は映画にはない。私の好きな主人公、ヘンリー中尉は命令に違反したということで、一人の兵士を射殺しているのだ。戦争とはそういうものなのだろう。恐ろしいことだ。

夜明け前に、ヘンリー中尉の一行は川の岸辺に着き、増水している川沿いに進んで、あらゆる車両や人馬が渡っている橋までたどり着く。
そこで奇妙で恐ろしい事件に遭遇する。
みんな年齢が若く、救国のヒーローを気どっている憲兵が待ち構えているのだ。第二軍は川の対岸で再編成され、その一環として、彼らは原隊を離脱した少佐以上の階級の将校たちを銃殺しているのだ。彼らは同時にイタリア軍の軍服を着たドイツ軍のゲリラたちを即決裁判で処分している。

映画では、一応、年配の大佐を始め、裁判官らしい年令の将校が裁判席に座り、ヘンリーの親友の軍医リナルディ少佐に銃殺の判決を下し、ヘンリーもイタリア語になまりがあるということで、疑われる。危機一髪で、ヘンリーは即決裁判の場所をけちらし、逃げ、川に飛び込むのである。小説では、川に飛び込み、銃弾を避けるために、川の中をもぐっていく描写を細かく描いている。
この場面は小説でも映画でも、ヘンリーにとってまさに危機一髪、銃を持った何人もの憲兵がいる中を逃げるには、余程の運動能力と体力と運がなければ無理だろうと思われる。ともかく、ヘンリーは逃げ切る。

やがて、列車にたどりつく。飛び乗り、貨車の床に、ヘンリーは野砲と並んで横たわる。早朝、まだほの暗いミラノの駅に汽車がゆっくりと侵入したとき、彼は飛び降りた。線路を渡り、コーヒーを飲みにカフェーに入ってみる。

その後、彼は馬車に乗り込んで、友人シモンズの住所を御者に伝えた。シモンズは、このミラノで声楽を学んでいる男だった。彼の家を訪問すると、ヘンリーは友人として大歓迎を受け、こう言われた。

「君が欲しい服があれば みんなあげるよ。だから、服は買う必要がない。君の服装を見れば、立派な男だと思うように、いくらでも服装を整えてあげるよ」
さすが、芸術家である。それにいい友達だね。今の日本はどうだろう。絆が叫ばれているのは良いことだが、絆がなくなっていく裏返しのような感じもする。こういう人間関係を日本に復活させたいものだと私は切に思う。それはともかく、声楽家はイタリア軍の監視のある町で、脱走兵ということで、追われるヘンリーを友人として助けるのだ。

それから、戦争ぎらいになったヘンリーは、ホテルで、事実上の妻である恋人キャサリンと会う。その後、彼女と一緒に、嵐の中、湖をボートで漕いで、スイスに逃げるのだ。距離は三十キロ以上はある。キャサリンはおなかに、赤ちゃんがいるのに、むしろ彼女の強い意志のもとに、逃げる。
風を顔に受けながら、暗闇の中を漕いでいく。彼は一晩中 漕ぎつづけた。


このようにして、スイス領に入る。これで赤ちゃんを無事に産めば、この物語はハピーエンドになる筈だったが、ラストは私の期待に反して、おかしなことになってしまう。スイスは二人を歓迎してくれ、その点では申し分なかった筈なのに。

このラストシーンは書かないで、興味を持った読者がご自分で確認した方が良いと思うので、あえて書かない。人生は不条理なものだ。それだけ言っておきたいと私は思う。

何故、「武器よさらば」に感動するのか。戦争の悲惨さの中で、愛があるからではないか。この娑婆世界は仏教の教える所によると、無明におおわれ、真理に目覚めていない衆生が多く住んでいる。つまり忍土である。その中で、一条の光を見た時に、人は感動する。

その光とは「愛」である。恋愛の愛はエロスで、欲望の延長線にあるから無明におおわれているのだが、まれに、一瞬の間、そこにキリストの愛のような光がさすことがあるのではないかと私は考える。それは肉親の愛でも、猫と人間の間の愛でも同じことである。
そういう愛を神であると思うこともできるのではないか。
何故なら、そこに不生不滅のいのちの発見があるからである。仏教的に言えば、無明の娑婆世界に浄土の発見がある。
人生はこの娑婆世界で、この不生不滅のいのちの発見をすることに意味があるのではないかと、ふと思うことがある。】




【コメント】
詩を書くのも、小説を書くのも、絵を描くのも創作という点では 同じです。
  公園で、絵を描いている人の邪魔をする人はいません。
しかし、私の場合、小説を書いているだけなのに、中傷する人がいるのに困ることがあります。人を困らすには中傷以外にも、嫌がらせというのがあります。
おそらく、憲法九条を守るを看板にしているからでしょうね。
民主主義の基本を知らない人が結構います。【私は学生の時、一流の法哲学の講義を聞くことがよくありましたので、よく分かります】
ボランチア活動、助け合う精神、SDGsの精神など、良い動きをする人も増加する一方、ジェラシーで、得意の「出る杭は打たれる」という合唱に加わって、その人が困るのを見て、喜ぶ卑しい価値観が少しずつ広がっているような気がします。SNSのいじめなどもそうでしょう。
どうでしょう。皆さん。道元や空海そして親鸞を勉強してみませんか。そうすれば、世界情勢を武力だけで、解決しようなんていうのは 愚かであることが分かります。
話し合いです。文化の交流も必要です。そのために、憲法九条が必要なのではないでしょうか。
国を守るために、武力を強くするという人の意見も分かりますし、尊重します。
でも、それで軍拡という風にいくとすると、始めたら、第一次大戦のように、最初は小さな武力衝突で、すぐ終わると思っていたのが、西部戦線だけで、二百万の若者が死に、戦争をやめられなくなり、大戦へと発展していったことを我々人類は学習したのに、又大きな戦争を始めてしまうということになりませんか。
ウクライナ戦争でも、はたして人類は歴史を学習したのかと疑問になります。
悲劇的で、やめられない戦争をしないための話し合いの方法を政治家だけでなく、皆が考えることが大切なのではないでしょうか。   
そのためにも、憲法九条は必要なのではないでしょうか。

くどいですが、日本の武力を強くして、日本を守るというのも自然な日本人の気持ちだと理解します。特に北朝鮮の状態があのような状態で、それがテレビを通じてお茶の間に入ってくるのですから。
ここで、国論が二分されますけど、互いに非難しあうのは意味がないことです。皆、心配なのです。平和を願う気持ちは同じです。
国会で、充分議論して結論を出すべきです。そのためにも、ネットなどでも一般の市民が声を上げるべきです。
脱原発の時も、そうでしたけれど、互いが互いの意見をもう少し聞き、尊重していれば、大地震のあとの福島の原発事故はもう少し、小さいものに出来たのではないかと、想像します。

これからは、SDGsに「核兵器を廃棄しよう」を加えることも大切だと思います。
私の小説「森に風鈴は鳴る」は平和産業をつくるがテーマになっていて、民間企業がそんな政治的なことに口出しするなんて、非常識と思った方がおられたら、SDGsの内容が温暖化阻止とか貧困阻止とか今までの企業の常識とは違うことを言っておりますよね。
もう利潤追求だけでは、企業そのものもやっていけない時代が来たのです。
私が学生時代に学んだ法哲学の理念では、公害反対運動の中からだと思いますが、企業の社会的責任ということが言われるようになったことを覚えています。
水俣病なんかが一番有名ですね。会社の工場が水銀を海に流したために、多くの人が被害にあったのです。私の長編小説では、IC工場のトリクロロエチレンが地下水を汚すということが問題になっていた時に小説を書いたので、地下水で有名な所を見学に行って現地の人の声を聴いたこともあります。そのあとに、脱原発を書くようになったのです。
こうしたことは地球温暖化などを含めて、国連で問題になり、その延長線上にSDGsの取り組みが始まり、今や日本のマスコミにも登場するようになって来ているわけですから、SDGsの延長線上に「核兵器をなくそう」を入れるのは自然の成り行きです。
ただ、今、ロシアとウクライナが戦争をやっていますね。これを早く停戦に持ち込まないと、この「核兵器をなくそう」のテーマは現実的ではないですね。まず、停戦。それから、軍縮というのが世界の声になる必要があると思うのですが、そしてSDGsに「核兵器をなくそう」を入れようということでしょうか。

それから、日本は中国ともっと話し会い、文化交流を進めないと、いけないと思いますね。
道元や空海を勉強すれば、あるいは漢詩や平安文学を見れば、中国と文化土壌が同じではありませんか。その中国と、武力で対峙するというのはおかしな話です。

マルクス主義というのは学生時代に哲学をかじった人ならば、分かると思いますが、【私の学生時代には、マルクスを勉強しないのは、大学生とは言えないという人が周囲にいたぐらい、マルクスの影響力があった時代です、今はソ連の崩壊で、まるで違ってきているようですが 】  人類の理想国家を夢見た思想を集めて、つくられたものなんだと思います。だから、世界中に影響したのではないでしょうか。ただその通りに、つまり哲学通りに人間は動かないというのが分かってきましたが。
【極端な例では、ソ連の例のように、看板と中身がまるで違ったということがあるから、そう楽観視してはいけませんが、】
中国が軍拡をして、我々日本人が不安なのですから、もう徹底して話し合うしかないと思います。中国が戦争をして、人類危うしの方向にもっていく筈がないと信じたいです。

あるとすれば、日本を含めた西側諸国の接触の仕方にも問題があるという反省が必要なのではないでしょうか。
憲法九条を持ち、文化外交で、話し合いが始終、なされる必要が中国にはあると思います。
互いの不信感を取り去る必要があるのです。
まさに、今やこういう風に良い方向に前を進めないと、人類危うしだと思います


【久里山不識】
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