『短編小説 さくら散る庭 前編』 (プレビュー版)
(1)
例えば、今まで見慣れた町並み。つい昨日まで確かにそこに存在していた何か。それが、いつの間にか突然に「消えた」経験が、あなたには、あるだろうか。
昨日までそこにあったはずのお店が気がつけば空き地になり、先月には確かに見かけたはずの公園が何故かどこにもない。
そんな出来事がもしあったとしたら、勘違いや見間違いでなくそれらは確かに「消えた」のだ。僕がこれから話すのは、そういった話だ。
(2)
僕は、どこにでもいるサラリーマンだ。駅から自転車で二十分のワンルームのアパートに独り暮らしをして、不満を言えばきりはないが、まあなんとか人並みに暮らしている。
四月になり、少し寒さが和らいでいた。仄かな暖かさを感じながら、せめてもう少し駅の近くに引っ越したいと思いつつ、今日も僕は自転車のペダルを漕いで家路についていた。
このあたりは昔からある住宅街で、築四十年はあろうかという家が立ち並んでいる。そうした家々の中に、突然、薄い桜色の影を見つけ、僕は思わず自転車を止めた。
小ささな、桜の木がそこにあった。ブロック塀に囲まれた狭い庭の中に縮こまるようにして、その桜は、薄桃色の花弁を鮮やかに輝かせていた。何故、今までこの桜に気が付かなかったのか。僕はしばし、その光景に目を奪われていた。
「どうです。なかなかのものでしょう」
ふと気が付くと、隣に背広姿の初老の男が立っていた。
「私の高校卒業祝いに父が植えたものですから、樹齢四十年ってところです。花をつけるまではずいぶん苦労しました」
長い話になりそうだと、少し及び腰になった僕に気付かず、その初老の男は話し続けた。
「それにしても儚いものですなぁ、桜の花は。あっという間に散ってしまう。まるで人の一生のようですなぁ」
「そうですね」
仕方なく相槌を打つ。男の顔は暗くてよく見えないが、どうやら酔っ払っているわけではないらしい。
「君にはわからないでしょう。だが、いずれ、私と同じように思える時がくるでしょう」
男はそう言って頷くと、一方的に話を終え、玄関へと歩き出した。
僕はなんだか狐につままれたような気分になり、呆然と彼の背中を見送った。
その初老の男のたよりなげな背中には、薄桃色の花弁が数枚ひらひらとこぼれ落ちていた。
(続く)
※同小説「さくら散る庭」の続きは、下記のサイト「erased memories」で掲載致しております。
篠原コウ 小説作品掲載サイト 「erased memories」