【第四章 創造性をのばせ “遊びを親が与えるな”】
最近、子供のためのオモチャが、さまざまに粋を凝らし、数多く作り出され、親も半分見栄で、それを争って子供に買い与えるが、オモチャの複雑な機能を考えれば考えれるほど、子どもたちの遊戯の本能にマッチしないものが多いのに驚かされる。
だから、子どもはすぐにその遊びを軽蔑してほうり出す。どんな精巧なオモチャ、たとえば本物の電話まがいのインターホーンだとか、トランシーバーだとかよりも、なんとなくカッコのいい一本の棒のほうが、子どもにとって、どれだけ遊戯の創造力を刺激し、彼らが単純なその素材をもとに、巧緻をきわめた複雑な遊びを考え出すかを親は知るべきである。
子どもは、どんな状況にあっても、子どもなりの遊びを考え出し、決して退屈はしない。先進国の大都会にあっても、未開の僻地にあっても、子どもたちは遊びにこと欠くことはない。
昔は子どもを遊ばすために、ほとんどものを与えなかった。それゆえ、子どもたちは、無から有を生じるように、さまざまな彼ら自身の遊びを考え出した。いったい、この世の中に、子どもほど、無から有を生じることに卓越したものがあるだろうか。おとなが与えるオモチャ、おとなが教える遊びは、子どもたちの創造力、行動力の奔放さに、ちょうどゴルフのフェアウエイに狭くOBのクイを打つようなものでしかない。
たとえば石ケリにしろ、カクレンボにしろ、あるいはアヤトリにしろ、世界各国共通のもっとも素朴で、じつは変化に富んだ遊びを、最初にいったい子ども以外のだれが考えただろうか。その中には、おとなが持ち込むことのできぬスリルがあり、期待があり、不安がある。
最近つぎつぎにつくり出される手のこんだオモチャを見ると、それが子どものためよりも、むしろ子どもより創造力の劣るおとなのためのものでしかないという気がしてならない。
子どもたちの遊びに、親が唯一与えるべきものは、ただ、時間と空間だけである。
1969年11月15日初版発行 ㈱光文社 ¥580
このカッパブックスを読んで息子を眺めていましたね(笑)。確か石原慎太郎さん、自分の子供に対してはスパルタ教育じゃーなかったと言っていたんじゃーなかったのかな?(笑)。弟の裕次郎氏の青年時代には投げ飛ばしたりしてどやしつけていたようだったらしいが・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます