函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

標茶霊園に眠る釧路集治監死亡者-釧路集治監を訪ねる旅 4

2009-07-06 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連

標茶霊園には、三つの釧路集治監関係のお墓・碑があり、そちらを説明を受けながら回り、お花を手向けお参りしてきました。




明治32年に建立された『合葬者の墓』
釧路集治監開庁以降明治18年から29年までに亡くなった393名の人々が合葬されている。


両側のいちいの木は、建立されたころに植えられたのでしょうね。




『標茶集治監死亡者之碑』
後年に開かれた釧路刑務所の菱山辰男所長が中心となり、関係者の協力を得て、釧路集治監で死亡した505名の霊を祀ったものである。
この碑の題字は犬養健法務大臣の揮毫によるものであり、裏の碑文は札幌矯正管区、佐藤備六郎管区長が書いたものである。
昭和28年11月建立


碑文
本道開拓の初め明治18年9月拓殖行刑を計って道東原野に釧路集治監の開設をみる。規模2000名を収容し、経営の難、死地に活を求めるが如し。率いる典獄の教化真に熱烈、全員篤く宗教に頼り克己精励世に垂範するもの甚だ多く、爾来十六年、道路を通じ河川を治し鉱業を興し功業顕著なるものがあったが、可惜命を北境に献じ家郷再帰を見るに至らぬ者妙ならず。同34年9月、当地合葬者の数五百五名に達し憐憫堪え難きものがある。今や幾星霜を閲みし、世人動もすれば忘却の感あり。依って有志並びに釧路刑務所長滋に相諮り、先人の慰霊顕彰のため之建。
札幌矯正管区長 佐藤備六郎 撰
釧路刑務所長 菱山辰男書


碑文を書き写していると、建立をめざした人たちの囚人たちへの思いが伝わってきて、思わず涙が出そうになりました。
アトサヌプリ硫黄山で『鉱業を興し』多くの囚人たちが失明したり、死亡したりしたそうです。本当に尊い犠牲の上に今の北海道があるし、それ以上にそれら尊い犠牲の上に現在の『人権』というものがあるのだと思います。


集治監書記として働いていて明治30年に亡くなった方のお墓。
青森県弘前市出身の方で、たいへん有能な方だったそうだ。




※こちらの記事も、博物館網走監獄の今野学芸員さんの資料、『釧路集治監を語る会』の三栖先生の資料を参考にしています。

釧路集治監跡-釧路集治監を訪ねる旅 3

2009-07-04 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連



北海道標茶高等学校。
この場所に釧路集治監がおかれていた。
明治18年に開設され、明治34年9月に廃監になっている。
16年間という短い開設だったが、『愛の典獄』と呼ばれた大井上典獄(所長)のもとで当時めずらしかった教誨事業を始めるなど行刑史(刑務所行政の歴史)に残る集治監だったという。
その敷地面積は2500万坪、囚人たちは硫黄山の硫黄採掘や周辺の道路整備など北海道の開拓史の基盤づくりに、活躍した。
大井上典獄は、硫黄山での囚人たちの失明、病死が相次いだため、囚人の外役作業中止を上司に直訴し、硫黄山での作業は、明治27年に廃止となった。
そのため、囚人の労力をどこで使うか検討された結果として、周辺道路の整備が終わった後に、釧路集治監を廃監し、当時釧路の分監だった網走分監に囚人・職員・家族が移り、網走監獄の歴史が始まった。
釧路集治監には、16年間で最大2300人余の囚人と320余名の職員がいた。


現地に唯一残る釧路集治監時代の「文庫」。
現在は標茶高校の「記念館」として使われている建物。


釘などを使わず組み込みで建てられていて、近代化産業遺産に指定されている。








釧路集治監の監署(本監)が、昭和45年に標茶町発祥の地塘路湖畔に移設されたために、この碑が建立された。釧路分監となっているのは、後半組織改革があり、北海道集治監の分監となっていた時期があるため。


学校の門から道路を見る。
『釧路集治監を語る会』の三栖先生によると、道の両側の桜は集治監当時に植えられたものだそうだ。
門を出てすぐの左手の家のある場所が典獄(所長)の官舎があった場所。


釧路集治監の16年の後、陸軍の軍馬補給所となり、その後高等学校となった標茶高校。近代的な校舎と校門は、その歴史を表現しているという。

※この記事も博物館網走監獄の今野学芸員さんの解説・資料から引用しています。

瀬文平橋-釧路集治監を訪ねる旅 2

2009-07-01 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連


釧路川にかかる瀬文平橋(せもんびらばし)。
明治18年に開設された釧路集治監の囚人たちの最初の仕事が、硫黄山から標茶までの間の道路の整備と、この場所の橋をかけることだったそうだ。
それにより、硫黄山で採掘した硫黄を駄馬で橋まで運び、ここから船で釧路へ向け運ぶようになったとのこと。





橋の標茶よりのこのひらけたあたりに、積み替え所があったとのこと。
※博物館網走監獄の今野学芸員さんの解説を参考にしています。


釧路川には、他にも、五十石、二十五石という橋がかけられているが、それはそれぞれその大きさの船が入れる限界の場所ということを意味しているそうだ。

硫黄山の悲劇-釧路集治監を訪ねる旅 1

2009-06-29 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連

川湯、屈斜路湖の近くにある硫黄山。アイヌ語ではアトサヌプリ(裸山)と呼ばれる。
そのどうどうと白煙を吐く様子や硫黄の強いにおい、荒々しい山の風景など、私もお気に入りの場所で、何度も行っていた。


その山に、釧路集治監に関係する場所があるというのだ。


観光客は、整備された駐車場の奥からまっすぐ白煙を吐いている山腹へ向かうのだが、駐車場の右手の散策路に入り、すぐ山に向かった場所に、釧路集治監の外役所があったのだという。


明治22年に安田財閥が採掘経営に乗り出し、囚徒の使役の契約が結ばれた。


携わった囚人は約300人と言われ、硫黄の採掘作業により、多くの者が失明したり死亡したりしたという。
そのため、当時の典獄(監獄の所長さん)大井上という方が、所管の上司にかけあい、硫黄山での外役作業を契約期間満了を待たずに中止させたという。


外役所跡には柱と思われる木や土台に使っていたと思われるレンガが多く散乱していた。




ビンのかけらと思われるガラスもあった。


こんな有名な観光地が、こんな悲しい場所でもあることなど、案内してもらえずには知れないこと。
今日も、外役所の100メートルくらい離れた場所を、多くの観光客が歩いていることだろう。

楽しく、重く、真剣に-監獄友の会ツアー

2009-06-28 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連

久しぶりに、大好きな博物館網走監獄へ。
実は、今年は『博物館網走監獄友の会』に入会したのだ~~。


今日は、その友の会の『釧路集治監を訪ねる旅』に参加。
朝、出発しようとしたらパンクしていて、パンク修理剤で応急処置をして出てきた。その自転車には夕方まで待っていてもらい、ツアーへ。


ツアーのバス車中では、博物館網走監獄の学芸員今野さんの詳しく丁寧な説明を聞きながら囚人たちが釧路から網走まで三泊四日で歩いてきた道をたどって移動。
釧路集治監跡では、「釧路集治監を語る会」の三栖先生のお話、標茶郷土館の学芸員さんの説明を聞くことができた。


こんなに詳しい多くの資料もいただき、一日、監獄・”囚人”に想いをはせることができて、しあわせで充実した一日だった。
釧路集治監から網走分監、囚人道路、知れば知るほどいろいろな歴史が詰まっていて、さらに知りたくなる。
こんな時間をくださった博物館網走監獄のみなさんに感謝です。

詳しい内容は、また少しずつアップします。

オホーツク民衆史講座のこと

2009-05-10 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
オホーツク民衆史講座という団体があってその団体の代表をされていた小池喜孝(きこう)さんという方の本を、10代から20代のころに読んで、たいへん衝撃を受けた。
「オホーツク民衆史講座」という名前と「小池さん」というお名前だけをうろ覚えで覚えていたので、図書館で検索してみた。やはりオホーツクの地元だけに十数冊が出てきて、その中の一冊、『常紋トンネル-北辺に斃れたタコ労働者の碑』を読んでいる。

網走監獄博物館に、五翼放射状舎房という建物があるが、それは昭和59年まで実際に使われていた建物だ。
その建物を見た時、”日本には昭和59年まで人権はなかったのだな。”と、思ったが、タコ部屋での出来事は、アウシュビッツの労働同様の過酷さだ。

明治の終わり頃まで過酷な囚人労働が行われ、それらが心ある監獄長の訴えにより禁止されると、皮肉なことに次は本州から金の前払いで連れてきた人たちを小屋に監禁し労働させるというタコ部屋労働が始まった。
つい100年前まで、そうした人たちが危険にさらされ働かされ、ある者は命まで奪われながら築いてくれた鉄路が北海道はなんと多いことなのだろう。
そして、さらに残念なことにはそれらの鉄路の大半が”赤字ローカル線”として”廃線”になっていることだ。
第一幾品川橋梁と同じ尊い犠牲を無駄にする行為を、私たちはどれだけやっているのだろう。

あまりにも残酷で、惨い北海道の開拓の歴史を改めて読み返し、今自分の生活する場所や道路もそうした人たちの血の上にあることを知り、めまいさえ覚えた。

民衆の知恵の象徴から為政者の身勝手さの象徴を見る

2009-05-09 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
 手前のドラム缶は、2009年5月5日紹介の越川温泉の入り口を示すものだ。
中央奥にシルエットが浮かんでいるのが、2009年5月6日に『人間の身勝手さを示す歴史遺産』で紹介した第一幾品川橋梁だ。
 その二つは100メートルほどしか離れていないのだが、なんと人間の対照的な側面を見せてくれているのだろう。

あれ以来、第一幾品川橋梁のことが頭から離れない。

図書館から囚人労働・タコ部屋労働のことを調査した本を借りてきた。

30年以上前に一度読んだものだ。
ずっと忘れていたが、それらにも私は呼ばれてこちらに来たように感じる。

人間の身勝手さを示す歴史遺産、第一幾品川橋梁を見る

2009-05-06 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
この連休に斜里町越川の温泉に行こうと思ったもう一つの理由。
それは越川温泉の近くに『越川橋梁』というタコ部屋労働者の力で作られた橋梁があると聞いたためだった。
若い頃、オホーツク民衆史の本を読んだこと、道南のタコ部屋労働者が働いていた北桧山の線路をYWCAの人たちと見学にでかけたことなどを思い出し、ぜひ訪ねてみたいと思ったのだった。


越川温泉を探し、越川地区から根北峠へ向け自転車をこいでいると、突然目の前に大きなアーチ橋が道の両側に現われた。


それが、第一幾品川橋梁、通称越川橋梁跡だった。


写真の斜里岳と知床連山の一角海別岳(うなべつだけ)の間を通り、斜里から根室へ向けての鉄路を作るために、韓国・朝鮮から強制連行し連れてきた人たちを含むタコ部屋労働者の力で、作られた橋梁だ。


10連のアーチ橋として作られたものだが、道路の拡幅により橋げたの2本が撤去され、今は二つに分断され道路の両側に残されている。


二つに分断され強度が弱くなったのか、一部亀裂が入り橋げたのまわりには落下したコンクリート片が落ちていた。


斜里町で設置してくれている案内板を読んで驚いた。
この橋梁、作られはしたものの、情勢の変化から一度も汽車が通ることなく廃線となり、その後一部が撤去されてしまったという。


家に帰り、インターネットで「第一幾品川橋梁」と検索すると、多くの資料が集まった。それらによると、この橋梁にタコ部屋労働者が投入されていたことは史実として間違いなく、この橋梁の建築中に11名の命が奪われているそうだ。

タコ部屋労働で働かせ、11名もの犠牲で作られたアーチ橋。


しかも、戦時中の鉄不足の折、鉄筋を一切使わず作られたアーチ橋という。
また、一度敷いた線路さえも戦争に使用するために持ち去られたのだという。


一度も汽車も通さずに、道路の拡幅で一部撤去されたアーチ橋。


この橋から私たちの学ぶものは大きい。


現在は文化庁の登録有形文化財の指定を受けている。


今日も多くの車が、アーチ橋の間を通っていることだろう。


1羽の、北へ帰らなかったオジロワシが、まるで墓守りのようにアーチ橋の上を旋回していた。


※カテゴリーを『網走監獄博物館関連』としたのは、タコ部屋労働は囚人労働以上にきつく、広い意味で「人権」に関することと思ったからです。

オオワシがきれい三眺河畔公園の観光案内板

2008-12-02 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
網走刑務所の駐車場の横にある三眺河畔公園。とってもきれいで味のある公園なのだが、あまり人がいるのを見たことがない。
市内の観光施設が載っている観光案内板もある。
網走刑務所に行かれた際にはぜひどうぞ。
きれいなトイレもありますよ。

もうすぐほんもののオオワシも網走に来ます。

夏休みは『網走監獄博物館』へどうぞ

2008-07-31 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
私が愛してやまない『網走監獄博物館』
日本で唯一の刑務所・行刑(刑務行政)の博物館。
一方で明治以降和人が入植して進められた北海道開拓の中で囚人が果たしてきた命と引き換えの開拓の歴史も紹介している。

このように書くと、ちょっと硬い感じもするが、展示されているマネキン人形も一体一体表情が違うなど展示の工夫もいろいろされていて、あきさせない。
個人・家族連れで訪れても2時間に一度、専属ガイドさんが館内をくわしく案内してくれる。

夏休みの自由研究に、網走観光に、『網走監獄博物館(正式名称は、『博物館網走監獄』)』へぜひどうぞ。
※ 紹介していた『網走監獄友の会』の今年度の募集はすでに締め切られたようです。ごめんなさい。