函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

今日は妙木の日

2015-05-25 | 友人の自殺と自分のこと


今日は、私の友人、妙木くん(仮名)が、19歳にして自ら命を絶った日です。
今年はあまり落ち込むことなく過ごしていて、海とも、連絡船とも、和解できたなぁと感じていたけれど、いざ当日の朝を迎えると、もう38年も前になる、自殺判明当日の朝の寄宿舎の様子がまざまざと蘇ってきて、少し慌てた。

けれど、連れ合いと久しぶりに話をして、うれしいことも知って落ち着いた。



19歳で亡くなった彼と、57歳の私と、違うところは何だろうと考えた。
19歳の彼は、純粋なままでいられたが、57歳の私は、悪いこと、汚いこと、臭いことをいっぱい経験して、それでもほんの時々やってくる、今日の朝みたいなうれしいことに感動して、生きている。
私は生きているから、これからも、多分、ずるいこと、悪いこと、汚いこと、臭いことに身を染めることだろう。そうしながらも、存分にいろんな冒険をして、「いろんな経験、したなぁ」って最期を迎えようと思う。

海と青函連絡船と函館山に「ありがとう、ごめんなさい、赦してください、愛しています」

2015-05-08 | 友人の自殺と自分のこと



連休中何度も函館山や函館港に出かけては歩き回り、ビデオを撮っていました。まったく意識していませんでしたが、私はそのことを通して、海や青函連絡船や函館山と和解をしたかったんじゃないのかと、ふと思いました。それまでも、海も連絡船も函館山も大好きでしたが、どこかに友人の死を感じていて、暗いイメージも同時にどこかにもっていました。

けれど、最近知った「ホ・オポノポノ」の言葉を口づさむともなく口づさんでいたら、「ああ、友人が連絡船を蹴って、海へと落ちて行った時、連絡船も悲しかっただろうなぁ。海も彼が入ってきた時、辛かっただろうなぁ。函館山もそれを感じて黙って受け入れてきたんだなぁ。」と思い、今まで感じていた暗いイメージがどこかに飛んで行ってしまいました。

海も青函連絡船も、函館山も、友人の件以上に、ずっと私たちを見守ってくれているんだなあと感じることができました。

だから、あらためて「ありがとう。ごめんなさい。赦してください。愛しています。」


こんなことしながら、57歳になりました

2015-04-19 | 友人の自殺と自分のこと


ジェットコースターのような人生ですが、なんとかここまできました。
あとはなんとか自分の人生を自分で舵をとって進めたら、それがどんな形であれ、ステキなことなんじゃないかと思っています。

脳ドックで初めて知った自分のことー水頭症

2014-08-04 | 友人の自殺と自分のこと



脳ドック、初体験。
受付のお姉さんも看護師さんも、栄養指導の方も、みなさん優しくて、院長先生もとても丁寧に説明してくれて、脳も血管も、なんら不調もなく無事に終了しました。

ですが、初めて知った自分のことがひとつ。わたしって、水頭症なんですって。

人によっては、知的障がいになったり、脳室の水圧を調節するために、シャントと呼ばれる管を頭蓋骨内から腹腔内まで通さなければならない人も大勢いる病気。しかし、私の場合は特に悪さをすることもなく、「頭でっかち」とか言われる程度で56歳まで生きていました。たまたま同じ病院で18年前に頭を強打してその時にも断層写真を撮っていたので、それとの比較でも従来から脳室が大きいが変化はないとのこと。足元あぶない、ろれつ回らない、おしっこ間に合わないなどの症状が出なければ、将来的にも大丈夫とのことでした。
水頭症で思い当たることと言えば、小さいころから頭だけがドンと大きかったことと、亡くなった父が、「お前が赤ん坊の時に、医者から『水頭症の疑いがあります』とか言われたから、『なに言ってるんだ!』とケンカしてきた」と、酔う度に語っていたこと。それは我が家では、『とんだ誤診』という笑い話であったのです。ところが、実は、その時の医師の指摘通りだったということ。

水頭症でありながら、ここまで奇跡的に健康で生活してこれたことに改めて感謝し、まわりにいる障がいをもった方々とのつながりやボランティアも、水頭症という自分では知らない自分の中の内発的動機によるものなのかもしれないなあと感じました。

やはり、奇跡的にいただいた活動できる体ですから、人のためにいっぱい使わないとね。


『井下の日』です。

2014-06-14 | 友人の自殺と自分のこと
私が19歳の時に、自殺していった井下くん(仮名)の命日です。
毎年、妙木(同じく仮名)の命日の5月下旬から井下くんの命日の今日までは、気が重く、さまよってしまうのですが、今年は少し離れたところに自分をおいて冷静にしていることができています。

「はーいはい、わかったよぉ」。
人にも自分にも効くことば。
そんなことばに出会うことができたからなのだろうと思って感謝しています。
この時期苦手な霧も、「包まれているみたいで安心できるなあ」と感じることができました。

37年経ちました。

「井下」の日

2013-06-14 | 友人の自殺と自分のこと









今日は、私の若き日に亡くなった井下の命日です。
キリスト教では、一年をイエス キリストの生涯になぞらえて、生誕から受難そして蘇りへと、生活していきますが、私にとって、妙木の命日から井下の命日への約三週間は、それと同じように過去に、もう36年も経ってしまった過去に戻って辿りながら生活しているように思います。

井下の死には、自分は「悲しみを独り占め」しようとした罪を感じていて、未だに後悔だけが頭を占めていきます。けれど、昨日佐村河内(サムラゴウチ)さんの報道に触れ、自分の後悔や無念もまた私が小さな灯りに出会うための体験であったのだということに、改めて気づくことができました。

昨日、佐村河内さんの報道を知ることができたのも、私には「僕のことはもういいです。先輩、生きている間にもまだまだできることがありますよ」という井下からのメッセージに聞こえました。
私もまた「小さな灯りの交歓」を心掛けて、また歩んで生きたいと思いました。
井下の冥福を祈って。



19歳のトラウマを静かになぞる日

2013-05-25 | 友人の自殺と自分のこと

19才の時に亡くなっていった友人の死を巡るトラウマを、ゆっくりとなぞる期間に入りました。
昨日は、夕方帰宅後すぐにふとんへ。夕食をはさみまたすぐにふとんへ戻り、一晩中ラジコでFMを聞きながら、「今ころ、Sが寄宿舎にいないと騒ぎになっていた…」、「この時間に、連絡船の汽笛を聞きながらふとんに入った」と、36年前を思い出していました。特に、カナシイという気持ちではないのですが、この期間になると、「思い出して、それをなぞる」ことから離れられません。
これこそ、私にとっての、「トラウマの再現行動」なのかもしれません。

ラジコから流れる、クマガイさんという方の唄う、『グッバイ マイラブ』の曲が私の気持ちをとても休めてくれました。

6月14日の彷徨い

2012-06-14 | 友人の自殺と自分のこと

今日は6月14日。出勤簿でもカレンダーでも見て、知っていた。なにも思わなかった。

なのに、夕方ホワイトボードに書かれた6月14日という文字を見ていたら、突然思い出した。井下の命日だということを。

私は井下の命日に行く場所を知らない。

未だ、罪の意識が強い。

けれども、あちこち写真を撮っていたら、やっぱり生きていてほしかったなあと思った。

井下は感受性の強い人だったが、誰かに傷つけられたとしても、誰かを傷つけたとしても、死んではいけなかったのだと思った。

 

私はたぶんこれからも、こうして二人を思い出していくのだと思う。


服喪の3週間とトラピスト修道院と『Were You There?』

2012-05-27 | 友人の自殺と自分のこと

服喪の3週間とトラピスト修道院と『Were You There?』

 

この季節になると、いつもトラピスト修道院の風景とBarbara Hendricksの歌う黒人霊歌『Were You There?(邦題:「おまえはそこにいたか」)』をリピートして聴いている。

本当はわんわん泣きたいのに涙がひっかかって出てこない自分の代わりに、泣いているように思う歌だから。

景色と、歌で癒されて、服喪の3週間をなんとか送る。


「ありがとう」-死んでいった友人たちへ

2012-05-25 | 友人の自殺と自分のこと

34年間、友人たちはなぜ死を選んだのだろうとか、自分にも何か責任があったに違いないと自分いじめをして生きてきた。また逆に死んでいった者たちをうらんだりしたこともある。

けれど、今年は違う思いが芽生えた。

彼らがいたから、私の人生があったのだ。

ずっと彼らの死にこだわってきたから出会えてきたいろいろなことがある。

「子どもの育ち」、「虐待」、「自殺」、「精神医療」、「トラウマ」

そして、彼らの死から学んだ人生訓も。

「言わなかった後悔をしない」、「人を貶めない」、「正直に生きる」、「自分を勘定に入れない」

彼らの死にこだわってきたことで、私は豊かになれた。

”彼らの死”は、私の中で生きている。

「ありがとう。妙木、井下。 また、どこかで。」