函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

友の命日のいつものワーク

2012-05-24 | 友人の自殺と自分のこと

今日は34回目の友人の命日。

友人は、24日に出奔し、25日午前0時30分の船で旅立った。

以前は、この時期になるとフラッシュバックのように過去に引き戻されつらかった。

時は、時としてやさしいものでその痛みを少しだけやわらげてくれる。

そして、友が出かけた連絡船のところに、吸い寄せられるようにやってくる。

なぜこんなことをしているのか、自分でも知らない。

ただ、こうしないではいられない。こうしていると少し自分が赦せる。

友人は青函連絡船から身を投げて亡くなった。

今は、連絡船に少し申し訳ない気になる。ごめんよ、連絡船。友人を赦してあげてほしい。


投影と依存・共依存-私の場合

2008-05-18 | 友人の自殺と自分のこと
カテゴリー【自分】に、『ボクが「こんなふう」なわけ』、『続・ボクが「こんなふう」なわけ』を書いて、ブログを見るみんなに見てもらっている。
『ボクが「こんなふう」なわけ』は、私の高専時代の友の自殺と44歳の時のうつ病のことを、『続・』は、幼き日の父親からの仕打ちを書いている。
もちろん、時系列としては、『続・』のことが先に起っていて、私の自我形成に大きな影響を与えている。

高専時代に、寄宿舎の舎監の大岩という教員が登場してくる。私は自殺していく妙木と共に、その男と闘おうとするのだが、結局は勇気なく、しっぽをまいてしまう。
ずっと気になっていたことだが、私の人生には、心理学でいうところの”投影”、”依存”、”共依存”ということが多く見られる。
高専時代の大岩は私自身が闘おうとして闘えないでいる『父親』を投影した存在になっている。
また、その時々、権力とか”その場の空気”というわけもわからないもので、人生に登場してくるものに、大きな違和感を覚え立ち向かうのも、『父親的なもの・威圧』への嫌悪がその原動力となっている。

また、不適切な育ちを経験した者には、生涯ついてまわる『依存』、『共依存』というものも、私の人生にもたいへんに多い。
連れ合いとの関係、障がい者との関係も結局は『共依存』からスタートしている。

こういうことを言うと、必ず「そんなこと、誰にでもあるよ。昔はもっとすごかったよ。」と、訳知り顔に言う人がいる。
私は、(そうだろうか。)と思う。
もし、そうなら、そういう生い立ちをかかえる人は誰でも何歳でも、それに引きずられ、支配されている性格や人生ではないかと振り返るべきではないかと、私は思うのです。


もっと見てほしいのは、私たちは依存や共依存をそのままで終わらせていないところだ。
その都度、課題を超えてきたという自負がある。
私たちのまわりの人たち、特にろうあ者、障がい者の人たち、セラピストの森田ゆりさん、さまざまな人たちに助けられながら、依存・共依存関係を抜け、関係を変化させ、築いてきた。

私は、ブログにいろいろ過去を書き立てることで、怒りをぶちまけたいわけではない。うらみつらみを言いたいわけではない。
私はこうして書き、自己をさらすことで、やっと課題と向き合う勇気を得てきたのだと思う。
私のことを見て、そしてあなたにも気付いてもらいたいのです。
あなたの中の課題に。

そのことが、自殺しないこと、させないこと、虐待を連鎖させないこと、暴力を防ぐことに、つながると信じているのです。

小さな希望-『あしたの、喜多善男』

2008-04-24 | 友人の自殺と自分のこと
 今が人生最悪の時なのかと思うほど、あらゆることで苦しみが続いている。

 けれども、そんな私にも、子どもたちはやさしい。網走の自然も鳥たちもやさしい。
 神様もプレゼントを用意してくれていた。

 『あしたの、喜多善男』のオリジナルサウンドトラック、小曽根真さんのCDが届いた。ドラマの視聴者プレゼントに応募していたのが当選したのだ。
今の私には、一番のプレゼント。曲を聴いていると、ドラマのシーンが目によみがえる。私も喜多善男さんのように、”わるいこともあるかもしれない、けれどよいことも少しはあるかもしれない”あしたにむかって、歩む勇気をもらった。

”新たな道を見つけ出すために、時に人は大きな痛みを必要とする”
私の今の痛みも、”新たな道”へと、つながっていると信じて、もう少し歩いてみよう。
 

斜視で卑屈な私-『続・ボクが「こんなふう」なわけ』

2008-03-04 | 友人の自殺と自分のこと
 メガネの鼻台が壊れ、眼鏡屋に出かけた。1ヶ月ほど前にも一度壊れて応急処置をしてもらったのに、そのままダラダラと新調せずにいた。なんとなくおっくうだった。
 眼鏡屋に行き、視力等検査したら、給料も出たので床屋にも寄る予定だったのだが眼鏡屋で疲れ切ってしまい早々に家に戻った。家のじゅうたんの上で夕方まで寝て、起きて気づいた。軽いフラッシュバックだったんだと。


 小1の入学後の眼科検診で斜視が見つかった。すぐに札幌では有名な総合病院の眼科に通い、詳しい検査をし、斜視の矯正の手術をされた。手術前には、斜視の角度、すなわち右目と左目の見ている位置がどれくらいずれているかを調べる検査に母親と何度も通った。
 暗い部屋に双眼鏡のような装置が置かれている。双眼鏡をのぞくと、右目には小鳥が、左目には鳥かごが見えている。普通の人が覗いたなら、鳥も鳥かごも見えるから、小鳥が鳥かごに入って見えることになる。私は見ている位置が左右ずれているから、鳥かごの位置を「もう少し上。もう少し左」とか言ってそれを小鳥が鳥かごの中に入るようにせよというのだ。しかし、右目1.5、左目0.06だった私は左右両方の目を使うという習慣がなく、視力のよい右目だけで生活していたから、左右の目をパチクリさせて、右見て、左見て、(このへんかな?)という感じでやっていた。いやな検査だった。それに、最初のころこそ、看護婦さんか検査技師さんが検査をしていたが、後半になると母親がその機械を操作するようになったから、なおさらいやだった。
 目がずれていることが、母親の落胆につながっていたから、(自分はダメな子なんだ)と思い知らされた。母親は検査の機械を操作しながら、ため息をつくこともあったから、私は小1ながら、この目のずれが母親を落胆させていると気づき、ウソをつくことを思いついた。つまり、本当は上に30度、左に30度ずらしてちょうど小鳥さんが鳥かごに入っても、上に15度、左に15度くらいで、「うん、そのへん。」などと答えていた。
 そんないかさまな検査結果を元にした手術だったから、斜視の矯正手術はあまり効果はなかったのだと思う。

 手術後がまたたいへんだった。
 父親は、親戚から「kenちゃんのおとうさんはスパルタだよね。」と公認されるほどきつい”しつけ”をする人だった。家には黒板があって、4歳違いの兄が掛け算を教えられていた。間違えてはぶん殴られている風景が今でも頭の中に一枚の写真のように入っている。父親は医師から、「弱視でずれている左目をもっと鍛えれば視力が向上し、斜視が直る」と言われたようで、退院後父親からの猛烈な訓練が始まった。
 
 視力のよい右目を眼帯やサングラスを細工して隠し、弱視の左目だけで生活させられた。その状態で、勉強や本読み、キャッチボールをさせられた。ただでさえ視力のない左目だったから、本当につらかった。キャッチボールなどは、捕球できずに後ろにそらせたりすると、父親のイライラがつのったボールがシューッとうなりをあげて顔めがけて飛んできて顔にあたった。ちょうど『巨人の星』がTVに流れていたが、好きになれなかった。自分自身、”星一徹”と暮らしていたから。
 だから球技は、(こわい!)という気持ちが先に立ち好きになれなかった。

 40歳くらいになって、自閉症の子とゴムボールのキャッチボールをしている時に初めて、(あっ、キャッチボールって、ボールだけじゃなく、気持ち・コミュニケーションのやり取りでもあるんだなあ。)と楽しく感じた。初めての経験だった。

 小さいころから、私の斜視は疲労がたまったり、不安や緊張などで一層ひどくなるくせがあったのだが、それも父親には気に入らなかった。
 小学生時代のある日の夕食時、私がうま煮のサトイモをぐちゃぐちゃにくだいて食べていたら、「ken!なんだ、その食べ方は!」と父親から叱られた。私は叱られ、不安になったから、斜視がひどくなった。すぐに父親の声が飛んだ。「ken!目が変だ!」私は、(そうか、弱気になっちゃいけないんだな。)と思ったから、なんとか気を強くもとうと、「いやなら、見なけりゃいいでしょ。」と父親に言い返した。とたんに、父親の手が飛んできた。
 「目が変!」、「目が変!」その言葉はいまだに私をしばっていて、私を苦しくさせる。


 今日は眼鏡屋が、頼んでもいないのに斜視の矯正のためのプリズムというやつをレンズに入れようとしたから、「プリズムなら要らないから!」と断った。10年くらい前には、結膜炎で行った眼科で延々と斜視のプリズムの検査をされたのに、「いやだ。」と言えず、ご丁寧にその検査の金まで請求されるまま支払ってきてしまった。かように、劣等感をもたされた者には文句も上手に言えない。
 今日は、よく「プリズムなら要らないから!」と言えた。家にもどって寝込んだけれど、よくがんばった。エネルギーを使ったけれど、よく自分を守れた。
「やったぞ、ken!」と自分をほめてあげたい。

 こんな私がなんとか生き延びてこられたのも、若いころの友人の自殺や、実は性虐待を受けていた連れ合いや、ろうあ者、障がい者との出会いがあったからなのだと、いまさらながら思う。

 そして、こんな私だから、障がいのある子には「大好きだよ!」といつも何度も声をかけている。

『ボクが「こんなふう」なわけ』-前半

2007-10-20 | 友人の自殺と自分のこと
この文章は、2002年私がうつだった時、心療内科のドクターに勧められ書いたものです。
自分の人生の転換点である学生時代の友人の自殺、そこからの自分の人生、自分の人生に欠かせない障がいのある人たち子どもたちとのかかわりについて書いています。静岡の高校生、ゆきさんにあてた手紙でもあります。

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 ゆきさん。手紙で「kenさんの高校の時の思い出は何ですか。」という質問を受けた時、何故か「私には、その質問にきちんと答えるべき責任がある。」という覚悟のようなものがありました。私は、あなたからの質問を機会に、私の「高校時代の思い出」、いえ正確には「高専時代の思い出」ですが、真剣にくわしくお話ししてみたいと思います。それは、あなたに聞かれたからということもありますが、それ以上にきちんと書き残しておきたいと以前から考えていたからです。
 少し長くなりますが、がまんして読んでみてください。
 
高専への入学
 16歳の時、私は北海道の端にある高等専門学校に入学しました。
 なぜ、高専を選んだのか、今考えると不思議なのですが、中学のころから「受検勉強」というものがなんとなく嫌いで理解できなくていたことと、中3の時わざわざアマチュア無線の講習会に通ったりしていて、なんとなく電気系に進みたいと思ったことが原因だったと思います。「高専を選べば大学受験をしなくて済む」そんな安易な気持ちも強くあったように思います。
 当時私は東京に住んでいました。当時としては、その高専への北海道外からの受験者がめずらしかったためか、はたまた合格に値するテスト結果だったのか、試験には無事合格することができました。
4月になり、東京から母と入学式のため学校へと旅立ちました。入学式の最中、母親がヒィーヒィーと苦しそうな喘息のような咳をしていたのを、なぜか鮮明に覚えています。
 
「君たちは高校生ではありません」
 今ではどうなのかわかりませんが、私が通っていたころ、その高専では「大学並み」であることを一つの「目玉」にしていて、先生方から「君たちは、中学を卒業したばかりだが、ここは高校ではないのです。高専なのです。」とよく言われたものです。朝のホームルームもたいしてなく、いきなり一時間目の授業が開始されるシステムに、中学を卒業したばかりの我々は、少し戸惑いながらもそれが「大人として扱われている」証拠のように思えて、ひとつのほこりでもあったりしていました。
 前述したとおり、入学した当時私の両親は東京に住んでいて、私は高専入学と同時に寄宿舎に入りました。寄宿舎も学校と同じく我々を「大人」として扱ってくれ、舎監はいましたが、学校の教授でしたからいつも寄宿舎にいるわけではなく、学生たちは比較的自由にしていました。
 ただ、その当時はどこでもそうであったでしょうが、先輩後輩の関係だけがまるで明治時代のように残っていて、新入寮生が先輩が一堂に会する中で「××中学から来ました○○です。よろしくおねがいいたします!」と、大声で挨拶するという対面式というものなどがあり、戸惑いました。

殺風景
 寄宿舎の建物は3棟に別れており、手前から、3・4年生、1・2年生、5年生がそれぞれ入っていました。
 1・2年生の生活するB棟は、二つの二人部屋がくっついたようなつくりになっていました。私の部屋の先輩は、わりとおとなしい人で、時々「ベットから浮き上がって、自分を見ている夢を見た。」とか言っていたのを覚えています。今、考えると「幽体離脱」というヤツなわけで、今でも生きているのか、それともおかしな宗教にはまっているのかと思ったりします。もう一部屋の先輩は、公務員を17歳にしたような生真面目でおとなしい人で、実際卒業後すれ違った時に聞いてみると、本当に国家公務員になっていました。
 私は、「東京からわざわざ来たやつ」として、わりとめずらしがられて生活していたように思います。
各棟は、まるでプレハブのような殺風景な暖房もない渡り廊下でつながっており、冬の吹雪の日など雪が渡り廊下のそこここにふきだまりをつくっていて、私は南極基地のようだと思いました。その中ほどにこれまた殺風景な洗濯場と乾燥室がありました。洗濯場の洗濯機は、型が古かったのか、皆の使いかたが悪かったのか、壊れたままのものや、脱水できない脱水機がそのままになっていて、数年後、私が寮生会の仕事をするようになってからは、新聞の「ゆずってください」という読者の情報コーナーに投書し、一般家庭まで中古の洗濯機をリヤカーでもらいに歩いたこともありました。
 私が、2年の時だったと思います。C棟にいた5年生が寄宿舎の部屋で電気自殺するという事件が起きました。私たちには、学年が離れていたこともあり、あまり悲しみはありませんでした。けれども、全校集会があったり、学校の教官たちからそのことについて説明があるということはまったくなく、なんだか不思議な気持ちがしたのを覚えています。

舎監 大岩
 私は、4年になっていました。一度やり始めると、どんどん深みにはまる性格が災いして、私は寮生会の総代になっていました。今、考えてみると、総代になってそれらしい仕事は何もしていなかったように思いますが、学校側の舎監の教授たちに、もっともらしく要望事項などを提出して交渉したりしていました。確か、学生が登校している間の無断の部屋点検をやめてほしい、というような要望を出していたと思います。喫煙や生活態度を監視するために、学生が登校した後、寄宿舎の部屋の鍵を教官が開けてまわり、点検するということが日常的に行われていました。現在では、どうなのでしょう。プライバシーの尊重がはかられているのでしょうか、それとも、やはりさまざまな事故防止のために、行われているのでしょうか。ゆきさんはどう考えますか。私は、必要性は認めますが、やはり嫌だなと思うし、本人のいないところで無断で行われるのはやはりおかしいと思うのです。今考えると、ありきたりな、つまらない要求のように思えます。しかし、私たちにとっては、とてつもなく大きな重い要求であり、そのような要求を出すことは、非常な勇気を必要とすることでした。
 その時の寄宿舎の舎監は大岩という、国語科の教授でスポーツ部の顧問などもしている人物でしたが、クラブの学生たちには慕われていました。けれども、学校の文芸誌に、「女房というものは、たちが悪い。学生ならどなればよい。どなってだめなら殴ればいうことをきかせられる。しかし、女房にはそれがきかない。」というような主旨のことを堂々と書いていて、実際、私も学校の玄関で何が原因なのか、大岩が学生にひざ蹴りをしているところを目撃したりするような、暴力・体罰を肯定する人物でした。今であれば、暴力教師で免職、家庭でもドメスティックバイオレンスだということになりますが、ほんの20年前、それは公言してはばかる必要のないことだったのです。
 そんな舎監が相手ですから、こちらの要望などいくらも聞いてもらえるはずもなく、我々寮生会と教官との話し合いの席でも、大きな声など出されようものなら、こちらは縮み上がって、すぐに引いてしまうというような恐る恐るの話し合いでありました。19歳の私たちには、相手が「教官」であるというだけで、とても大きく高いところにいる存在でした。その存在に大声を出されるということは、私たちにとっては、銃をつきつけられるに等しいほどの恐怖だったのです。
 舎監との会議の後、副総代の妙木は「力で押さえつけられるのはたまらんな!」と、よく憤っていました。僕たちは、よく二人でそのことについて愚痴を言い合い、怖さを分け合っていました。実際、彼らにとっては、私たちとの話し合いなど「赤子の手をひねる」ようなものだったのです。

妙木
 副総代の妙木は、不思議な魅力のある男でした。小さな町の小さな中学の出身で、その町では期待の秀才だったようです。東京から受験したというめずらしさで拾ってもらったような私と違い、高専入学時トップ入学だったのではないかとうわさされるほど、優秀で落ち着いた男でした。毎朝鏡に長々と向かい天然パーマの髪をリーゼント気味に整えてスタスタと足早に歩く姿には、「ニヒル」という言葉がぴったりの男でした。入学と同時に空手部に所属し、4年の時には確か段ももっていたと思います。剣道部員だった私は、武道館でいつも空手に汗を流す妙木を横に見ていました。
 
ある日
 5月のある日、妙木は突然外出しました。
 それが、学校を朝からさぼってのものだったのか、学校を終えてからのものだったのか、今は思い出すことはできません。たぶん夕食の後くらいだったと思います。妙木から後輩に電話が入りました。その時の様子が、いつもと違っていたということで、僕らはあわてて数人で集まり、どうするか協議しました。
 その高専は、街はずれの小高い丘の上にありました。当時は、学校のまわりには民家と一軒だけ甲田商店という店が、まるで高専の寄宿舎生専用の店のように校門の外にあるだけでした。僕ら寄宿舎生は、丘を下りて街にでることは、めったにありませんでしたが、それでも、繁華街にくりだしたり、酒を飲みにでかけることもありました。
妙木から電話があってから、数人が市内の妙木の行きそうな場所を探しに出かけました。しかし、スナックや街に、妙木の姿はなく、皆じきにもどってきました。
 寄宿舎には、点呼があり、門限がありました。点呼は、当番の上級生が各部屋を巡回して、存在を確認するという程度のもので、それほどきびしいものではありませんでした。僕らは、結託してうその申告をして妙木の点呼をクリアしました。
 しかし時間は、無駄に過ぎていきました。もう一度探しに出ようという者がいました。宿直の教官に知らせようかという者がいました。しかし、結局僕らは教官には知らせませんでした。僕らは思いました。教官に知らせたならば、戻って来た時に妙木は「無断外泊」で処分されるだろう。それよりも、何事もなかったようにしていた方が、妙木が戻った時に落ち着いていられるだろうと。
 その日は、霧が出ていました。私は、そっと抜け出し、自転車で彼を探しに出かけようかと思いました。なぜか連絡船の待合室が頭に浮かびました。しかし、私は結局、そのことを実行に移すこともせず、友人たちとの話し合いも0時過ぎには切り上げ、ベットに入りました。パジャマに着替えている時、ちょうど0時30分の連絡船の低く長い出航の汽笛が、霧の中に響いていました。

 翌日の早朝、私たちは突然部屋を訪れた教官に起こされていました。
 青森に着いた連絡船の甲板から、妙木の靴が見つかったのでした。連絡船は、0時30分発でした。私の耳には、昨晩聞いた連絡船の出航を告げる汽笛がよみがえっていました。
 寄宿舎には数人の教官が来て、僕たちに事情を聞いていました。

授業は平常
しかし、登校して驚きました。普段とまったく同じように、『何事もなかったかのように』授業が開始されようとしたのです。誰言うとなく、僕たちはかばんを持ち校舎を出ました。そして私たち数人の寄宿舎生は、集団で1時間目の授業をサボタージュしました。
 学校のフェンスを乗り越えた、すぐ隣にある小さな公園に我々はいました。私は、下をむいたまま小さなブランコに乗っていました。私は思いました。この学校には、専門技術を教える「教官」はいるが、人を教える「先生」はいないのだなと。
皆、無言でした。皆、昨日の晩のことを考えていました。「なぜ、あの時、もっと真剣に探さなかったのか。」皆が皆、自分を責めていたのだと思います。私は、昨晩、ふと頭に浮んだ連絡船の待合室に、うなだれてすわっている妙木を想像していました。私は、なぜか、妙木は待合室に長い時間座っていて、誰かが探し出しに来るのを待っていたように思いました。そして、探しに出なかった自分を責めました。
私たちは同時に、なぜ何事もなかったかのように、いつもと同じように授業が始まらなければならないのかと思いました。なぜ、「こんな悲しいことがあったのだ!」と、きちんと学校として学生に報告してくれないのかと憤りを感じていました。

なぜ死んだのか
何日かたった後、妙木が連絡船に乗る前にレンタカーを借りていて、その車が駅近くの銀行の駐車場から発見されたと聞きました。そして、学校側は、妙木の死は「学校の落ち度ではないし、責任はない」と、結論付けたということも、伝わってきました。
私は、いえ私たちは、そのような学校側の態度に失望しました。そして舎監の大岩の、それまでの言動を反芻していました。
 私は、とてもくやしい思いにかられ、数日後学校中の教官室の入り口にビラをはりました。「妙木の死を無駄にするな! 強圧的な舎監、大岩は謝罪せよ!」そんな見出しで、寮生会と教官との話し合いの時にいかに大岩が私たちを脅し、力で押さえつけたかということ、学校は妙木の死を全校の学生に知らせることもせず無視していること、妙木がなぜ死んだのかはわからない、しかし妙木の死から皆がなにかを考えるべきではないか、というようなことを書きました。私だけでなく、数人が手伝ってくれました。私たちは、何かせずにはいられなかったのです。
 しかし、それは逆に教官たちの問題視するものとなり、私は担任に呼ばれました。担任は、いろいろ事情を聞いた後、私にこうはき捨てました。「学校内で『革命』でもするつもりか。」と。
私は、勇気のない男でした。担任にどなりかえすこともできず、ただ悔し涙を流すだけでした。

妙木の身体は数日たっても発見されませんでした。大きな船から身を投げると、身体はスクリューに巻き込まれ、こなごなになることが多いのだと、友人がどこからか聞いてきて、教えてくれました。自殺した原因も、はっきりしませんでした。ある友人は、「妙木は、スナックで働きたいと思っていたが、故郷やまわりの期待が大きくて言い出せなかったのだ」と言い、また他の友人は「同郷の彼女とうまくいっていなかったのだ」と言いました。私は、「理由がわからないことを逃げ道にしてはだめだ。まわりのみんなが、『自分は、妙木とどう接していたのか』を、真剣に問うべきだ」と思いました。

妙木の仮通夜と般若心経
事件から2週間目だったでしょうか。妙木の実家の寺で、仮葬儀が行われることになりました。私たちは、友人の車に分乗して、妙木の生まれた町へ向かいました。寺は禅宗でした。私は、いつか妙木が「般若、はらみたー」と唱え、「般若心経はいいよな。」と言っていたのを、思い出していました。棺には遺体の代わりに愛用の空手着だけが入っていました。その日は、近くの町の友人の家に皆で泊まりました。私は、悲しいのに、泣けないことが、苦しかった。自分はひとでなしだと思いました。泊まった友人の家に、妹がいました。見るからに、つっぱっていて不良といった雰囲気をただよわせた子でした。皆が酒を飲んで気持ちを吐き出している時、一人黙っている私のところへその子はやって来ました。そして、私を抱きかかえてくれました。私は、その子にすがりつくようにして、やっと泣くことができました。その子には、それきり会ったことはありませんが、今でも時々思い出すことがあります。そして、自分がいわゆる「つっぱった子」や、「問題をかかえた子」が好きなのは、あの子のおかげではないのかなと思うのです。
翌日、同じ寺で仮の告別式がありました。核家族の家庭に育ち、親類の葬儀にもあまり立ち会ったことのなかった私は、告別式の進行がどのようにおこなわれるのか、まったく知りませんでした。告別式に、「弔辞」という、亡くなった者へ向けた手紙の朗読があることすら知りませんでした。お坊さんの読経が中断し、葬儀の司会者が「弔辞。高専教授大岩様」と言うと、大岩が霊前に進み出て、弔辞を述べました。さすがに国語科の教授とあって、流暢で申し分のない弔辞だったのだと思いますが、私は、「おまえには、妙木に弔辞を読む資格なんかない!」と、はらわたが煮え繰り返る気持ちで聞いていました。大岩は、後半、「私たちの態度が、あなたに不信感を与えていたとすれば、たいへん申し訳なかった。」と、泣いて謝罪していました。けれども、私は、大岩を責める気持ちでいっぱいで、大岩の涙さえも信じていませんでした。
大岩の弔辞が終わりました。そして、司会者が、「こちらで伺っている弔辞は、以上ですが、どなた様か、ございませんか。」と、言いました。しばらくの間、沈黙が流れました。
私は、「ハイ!」と、手を挙げて、「妙木、おまえの死は、無駄にしないからな!」と、泣きながらでもよいから、言いたいと思いました。しかし、私は、ここでも勇気を出すことができませんでした。司会者は、しばらく待った後、お坊さんに合図を送り、再び読経が始まっていきました。
ゆきさん、私は、この時なぜ、手を挙げて、霊前で妙木に別れを告げなかったのか、今でも後悔してなりません。この時、妙木に別れを告げ、妙木が死んだことの悲しみを皆で分かち合っていれば、その後の、不幸はなかったと思うからです。

葬儀について-大人になった今思う
「弔辞」とは、なんでしょうか。死んだ者への弔いのことばでしょうか。私は、それだけではないと、思います。残された者同士が、悲しみを分かち合い、思い出を共有し合う。そして、その人の死を無駄にせずに生きることを、確認しあうことではないかと思うのです。
大人になり、手話通訳に関わるようになった私は、ろうあ者の葬儀に立ち会うことが何度かありました。ろうあ者の葬儀があると、ろうあ者たちが、手話で弔辞を読み上げ、手話通訳者がそれを音声言語にして健聴の人たちに伝えます。参列するろうあ者たちや健聴の遺族から、すすり泣きが聞こえます。私は、「こうやって思い出や悲しみを共有できるろうあ者は、幸せだな、すてきだな。」と思います。そして、手話通訳者として、そのことのお手伝いができる自分もありがたいなと思うのです。

幼かったくやしさ
19歳の私は、いえ私だけではなく、私たちは、友人を弔うにも、無知過ぎたのでした。結局、妙木の葬儀での弔辞は、大岩からのものだけで、妙木の仮の告別式は終了し、皆なんとなくすっきりしないまま、また学校へと戻ったのでした。
学校からの処分と私の挫折
学内でビラをまいたことで、母親も学校に呼ばれました。そして、「妙木の死で、気持ちが不安定だから。」という理由で、私は半強制的に自宅へ帰されることになりました。妙木の事件から3週間がたとうとしていました。その時の私の家は父親の転勤で東京から青森に移っていました。私は、妙木が身を投げた連絡船に乗り、家へ帰りました。妙木の乗った便ではありませんでしたが、やはり夜の便でした。デッキから見る船の航跡は、まるでこっちへこいと私自身をも引っ張っているようでした。
家に着いた翌日だったと思います。私は、自分の部屋の机の上に、パンを置いてきたのを思い出しました。寄宿舎生にとって、食料は豊富にあるものではなく貴重な物でした。自分が食べない以上は、誰かに食べてもらわなければと、私は寄宿舎に電話を入れました。 寄宿舎には下校時から9時まで、電話当番という電話の受付をし、呼び出し放送をするという係がありました。私は、電話当番の後輩に、同室の井下の名を告げました。「A棟の井下さん、お電話です。」と、呼び出し放送をかける声が聞こえるがはやいか、ドヤドヤと数人が電話のある部屋に入ってくるのが、電話越しに聞こえました。そして、聞きなれた声が、「だれからだ!」と、言うのが聞こえました。同じ4年のTでした。電話に出たTに私は、「Tか。おれだ、kenだ。井下にパン食っていいって言っておいてくれ。」と言いました。Tは、明らかにあわてていました。「ちょっと、待ってくれ。」と言うと、電話の受話器を押えて、数人としばらく話しをしている様子がわかりました。その後Tは再度電話に出ると、言い出しにくそうに「ken。落ち着いて聞いてくれ。井下は、死んだ。昨日の夜、部屋のベットで、電気自殺したんだ。」と、告げました。
私はその時のことを今でも鮮明に覚えています。私は、「しまった!」と思いました。自分がまったく予想していないことなら、「エッ!」と、驚いたことでしょう。しかし、私は、どこかでそのことを予想していたのだと思います。私は、「しまった!」と、思ったのでした。
そう言えば、その少し前に家に電話があり、それはどうも学校からのようでしたが、母がおろおろしながら、受け答えしていました。それが、井下の死を告げるものだったのでしょう。私は、母に、「もし、そのまま黙って井下のことを知らせないでいたなら、おれはあんたをなぐっていたからな。おれは、寄宿舎に帰るから。」と言い残して、再び連絡船に乗りました。母は、私も後を追うのではないかと心配していましたが、不思議とそのような気は起こりませんでした。帰りの連絡船も夜でしたが、私は家へ向かう時とは違って、波を見ながら「俺は、なんてことをしたんだ!」と、何度も何度も後悔していました。
連絡船が着くと、大勢の友人が心配して迎えに出ていました。

そして、井下が自殺した詳細を私は聞きました。高専の連中は、知識を持っているので、身体のどの部分に電極を付けると、自殺することができるかも知っているのでした。そして、二人部屋の相手である私の不在中に、タイマーをセットし、自分のベットで息絶えたのでした。
井下のこと
井下は3年でしたが、妙木と同じ空手部でした。紅顔の美少年ということばがぴったりの女性的なおとなしいやつで、亡くなってからわかったことですが、ノートに詩や、文章をいろいろと書いていた感受性の豊かな男でした。彼は、妙木をたいへん尊敬していました。そして、妙木の死後、私が、ふさぎがちになったことをたいへん気にしていて、「kenさんが、あまり話してくれない。」と、言っていたそうです。
私は、妙木が死んだ時に、学校を責めたように、自分を責めました。自分のせいで井下が死んだと思いました。私は、妙木の死んだ悲しさを他の人と共有しようとせず、一人じめしていました。「井下に、俺の気持ちがわかってたまるか。」そう思っていました。そのような私の思いが、井下をさらに辛く追い詰めていたことにも気づきませんでした。
ある教官は寄宿舎で二人の自殺が続いたことで、「今回は、マスコミにたたかれるな。」と、もらしたそうです。
私は、学校に嫌気がさし、それ以上に自分に嫌気がさして学校をやめました。



『ボクが「こんなふう」なわけ』-後半

2007-10-20 | 友人の自殺と自分のこと

44歳になった私
44歳になった年、私はこころを病んでいました。
そして、25年を経ても、血がドクドク流れるほど生々しい、妙木、井下のことを思い、その気持ちをどこへむけるべきか、戸惑っていました。
住む町から、25キロほど離れた所に修道院があります。ポプラ並木の向こうに見えるレンガ色の塔の美しさで知られるこの修道院の奥に、ルルドという、ある少女がマリア様に出会った場所を再現した場所があります。私は、妙木の亡くなった5月になってから2週間、そこに毎日のように通いました。小高いその場所からは、杉林の向こうに修道院の塔、その向こうに妙木の逝った津軽海峡が見えます。ある日は、夜の山道を歩いて行きました。私は、イエス・キリストか、マリア様か、さもなくば妙木、井下に出会いたいと思いました。けれども、私の前に、「奇跡」は起きてくれませんでした。
妙木が逝った日、私は自転車に乗り、またルルドへ向かいました。しかし、途中で激しい雨が降り断念して、今度は逆方向へ走りました。私は、津軽海峡が見える海へ来ていました。そこで、「妙木。もう思い出すのはやめるよ。」と言いました。
けれども、心はまったく晴れません。自宅アパートの自転車置き場に自転車をそっともどすと、娘に見つからないように、車を出し、また修道院へとむかいました。
私は、また夜の山道を登っていました。ルルドに着くと、夜景が広がっていました。私は、「彼らは、なぜ死んだのだろう。」と、その日ずっと考えていました。それがわかれば、自分の荷が軽くなるような気がしたからです。しかし、結局これではないかという答えは見つかりませんでした。
ふと、身体のそこから、熱いものがこみあげてきました。「忘れたら、かわいそうだよ!」
「忘れたらかわいそうだよ!」私の中にいる子どもの私が、泣きながら言いました。大人の私も、いつか嗚咽していました。「そうだった。彼らが死んだ理由なんて、わからなくていいんだ。私は、彼らを忘れたくなかっただけだったんだ。」
彼らが死んだことで、私は人生を転換させました。私は、後で「なぜあの時、学校をやめたのだろう。」と後悔してもよいと思いました。いや、むしろ後悔することを望んでいたのかもしれません。そのことで、二人のことを思い出すことができればよいと思ったからです。

しごと・人権・子どもたち
学校をやめた後、私はいろいろと人生を転換させてきました。しかし、私には恵まれた人生でした。多くのろうあ者や子どもたちと出会い、共に泣き、笑ってきました。こころを病んでいる今でさえ、「自閉的傾向」と呼ばれている「おはなしをしない」Kくんや多くの子どもたちが私を支えてくれています。結局、私は、「子どもの育ち」や「子どもの居場所」、「人権」といったもののまわりをぐるぐる行きつ戻りつしながら生きてきました。そして、相変わらず、「威圧的態度」や「専制的な態度」にビクビクと怯える臆病者でありながらも、『言わなかった後悔』をしないように、『やらなかった後悔』をしないようにと生きているのです。そのことで言い過ぎたり、人を傷つけていることもあると思います。また、時に仲間から受け入れられなかったり、孤立したりすることにもなります。しかし、私は、これからも、きっと同じように生きていくのだと思います。
私は、夜景の映る海を見ながら、「妙木。やっぱりずっと思い出すからな。」と、言いました。満月が、「それでいいよ。」というように、笑って雲の間から顔を出していました。

私を守る 私のこだわり
 25年目の妙木の逝った5月が過ぎ、井下が逝った6月が過ぎ、井下の誕生日の7月を過ぎて、私の状況も大分回復してきました。私は、その間、様々なものに「こだわって、固執して」生活していました。外に出るときは、以前はあまりかぶったことのないつば付きの帽子を欠かせませんでした。修道院のルルドだけではなく、コンビニはこの店のあの支店、夕食の買い物はUスーパー○○店、車の中では「Barbara Hendricks  NEGRO SPIRITUALS(黒人霊歌)」の中の、『Were you there?(邦題「おまえはそこにいたか」)』の曲をいつも繰り返し流していました。あらゆるものにこだわることが、自分をかろうじて支えてくれました。
 よく「自閉症児」や「自閉的傾向の児童」が、「こだわる、固執する」と言いますが、その子たちの「こだわり」と、私の「こだわり」が、別のものだとは、私にはどうしても思えません。「タバコの銘柄、道順、ジンクス」と結局、健常といわれる人たちも皆、そうして安定を得ているのではないのでしょうか。
 職場にもたいへんな迷惑をかけましたが、私は2ヶ月ほど職場で子どもたちと一緒に夕食を食べることができませんでした。「ほら、ひじついてるよ。」「ちゃんと、たべなさい。」そんな「当たり前」の指導の声がおそろしくてたまりませんでした。

私を救ってくれた 「自閉的傾向」のTくん
そんな私を文字通り「守って」「支援して」くれたのが、Tくんです。前述したように、Tくんは「自閉的傾向」の子で、「お話ししない」子です。年に1度か2度、自分を理解してくれない人に、「自分でできます!」と言ったり、「うるさい!」と言ったりすることがあるそうですが、それ以外ほとんどお話ししない男の子で、現在中学生です。
 私が調子をくずして通院した翌週に、職場で、ある行事がありました。プレイルームに職員と子どもたちが集まって大きな声でカラオケを歌っていました。私は、そこにいる人々、子どもたちがおそろしく思えて一番後ろの方の畳の台にすわっていました。Tくんもさわがしいのは苦手なので、私の隣に座っていました。その時突然、Tくんが私の頭を自分の胸の前に抱えると、胸と手で私の両方の耳をふさぎました。私はその時、言いようのない安らぎを得ました。そして、気付きました。「そうか、Tくんも、騒がしいのがいつもこんなにこわくて仕方がなかったんだ。」と。私は、Tくんの気持ちが初めてわかりました。私は、Tくんに頭を抱えられ両耳をふさがれながら、泣いていました。その涙は、感謝の涙でもありましたが、「Tくん、今までわかっていなくてごめんね。」という涙でもあったと思います。
 Tくんは、その後もいつも私のことを心配してくれました。ある日いつものようにフラフラと着替えを済ませ、帽子を目深かにかぶってTくんに「バイバイ」と手をふると、Tくんがふとんから上半身を起してこちらを見ていました。いつもなら、横になったまま手をひらひらとさせるだけのTくんが起き上がっていたので、私は「どうしたの?」と声をかけました。Tくんはじっと私を見ていました。私は、Tくんが必死でことばを探しているのだと気付きました。私は、感激しながらも思わずこう言っていました。「Tくん、先生にはTくんが言いたいことがわかるよ。だから、言わなくてもいいよ。Tくんの大切なことばなんだから。」と。
 Tくんは、その後も私の頭を抱きかかえて自分の心臓の音を聞かせてくれたり、私が調子がよさそうだと、私の顔をのぞきこむようにして「先生、今日は調子よさそうだなぁ。」という顔を見せてくれたりしました。私は、「障がい」とは何なのだろう、人間の価値って何なのだろうと思いました。一方で、人を陥れようとする健常者がいる。一方で自分をかけて人を心配している「障がい」をもった子がいる。私たちの仕事とは何なのだろうと思いました。Tくんだけではありません。ある子は「かんちょう!」とふざけながら、ある子は私の頭をぱしんとたたきながら、それぞれの仕方で心配してくれ、励ましてくれたのでした。

私をいやす 自然の力
ルルドに通っているうちに、私は自然に対しても不思議な気持ちがしました。
 今までは自分とは関わりなく外界にあると思っていた自然が、「私」一人に話し掛けてくれているのを感じました。それは、客として訪問した場所で、「これ、食べていきなよ。」「これ、サービスだよ。」と、もてなされているのに似ていました。ある時は、風が山の裏手からざわざわとやってきて、ゴーッと通り過ぎて行きました。またある時は、かなへびが、山道に出てきて、「まぁ、おれのことでも見て、いやなことは忘れることさ。」とじっとしていました。「たまたま」とか、「偶然」とか、「自然とはそういうものさ」と言えば、そうなのかもしれません。しかし、私は、海に映る満月を写真に収めながら、「今という時に、この場所で見ている人間は、私だけなのだ。」ということを深く感じさせられたのでした。

私を変えた 私の病
 私の不調は、まわりの人たちと話をするきっかけを与えてくれました。職場の数人の人たちと初めて腹をわって話すことができました。手話通訳士としてろうあ者の女性と共に手話を指導している専門学校でも、初めて「19歳の時のこと」を話す機会を得ました。そして、自分の不調のことと、Tくんのこと「障がいとはなんなのだろう?」ということも話すことができました。
 
S先生
 井下の誕生日は、井下の逝った日のちょうど1ヶ月後でした。
井下の誕生日の2日後に、職場で23年という長い間子どもたちのお世話をしてくださっていたS先生が亡くなりました。S先生は、とても小柄でしたので、大きな力の強い子の指導はさぞ大変であったろうと思いますが、S先生は大きな子に思い切りつねられても、いつも「○○くん、だめですよ。」と静かに諭すのでした。
子どもたちと一緒の職場に入ったばかりのころの私は、すぐカッとして子どもに手を出してしまうような人間でした。しかし、その後誤りに気付いた私は「以前の自分の行為について明らかにし、体罰をふせぐためのメッセージ」を、掲示したことがありました。その時、「ken先生、立派ですよ。」と言ってくれたのも、S先生でした。
S先生のお通夜に参列した私は、そこでひさしぶりに般若心経を聞きました。私はS先生を思い、妙木を思いました。そして、妙木のお寺に行って一人で弔辞を読みたいものだと思いました。


ゆきさん、これが私の「高校時代の、そしてそこから今に至る一番の思い出」です。
私の不調もどうやら終わりに近づいているようです。しかし、私は今回の苦しい思いの中で出会ったいろいろなことを、これから大切に生きていきたいと思っています。
以前、ある牧師が「深い穴の中では、昼間でも星が見える」とおっしゃっていましたが、今の私にはそのことがはっきりと実感できます。



不調の日に、ある薬局で小銭を出したところ、「助かります。」と言われ、その一言で泣いたこと。
不調の日に、飛行機に乗りました。「空からの景色を見たかった。」と雲の中で私が言うと、キャビンアテンダントさんが、「曇っていてごめんなさい。」と自分の責任のように言って、前の方の席に案内してくれたこと。
網走の監獄博物館で、今から20数年前まで実際に使われていた監獄を見たこと。
脱獄を何度も繰り返していた囚人が、尊敬できる所長の刑務所に入って初めておだやかになったと聞いたこと。
「ベテルの家」の本に出会って、ユーモアをとりもどしたこと。
全て病気、不調のおかげ。実は病気自体が私に必要であった、めぐみであったのだと、思えるのです。
これからも、私は、妙木、井下を思いながら、不器用に生きていくのだと思います。


※名前はすべて仮名です