函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

悠遊宿と囚人道路-北見峠をめざして 5

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて




その宿を選んだのは、地理的条件によるものだった。網走から約150キロ、北見からは95キロ。翌日出発してけわしい北見峠に出るのにもあまり消耗せずに出られるだろうと思い、ネットで「遠軽」「宿泊」と検索し遠軽町の観光協会のサイトで調べると、白滝地区にあったのが、こちらの悠遊宿だった。
おもしろい名前だなあと思いながら、前日予約の電話を入れた。
「到着は何時頃になりますか?」と聞かれたので、「自転車なので、はっきりしません。近くなったら電話を入れます。」とだけ話しておいた。
しかし、当日あれほどの大雨・長雨にさらされるとは思いもよらず、早々の到着となった。
丸瀬布から宿に「早く着くのだが、着いたらすぐにお風呂に入りたいのですが。」と電話を入れると、快く引き受けてくれ、白滝駅からのくわしい道を教えてくれた。
白滝駅を少し過ぎて、踏み切りと修理中の橋を越えて走っていくと、『悠遊塾&宿』という看板が出ている。「塾&宿?」一瞬不安がよぎった。私は手話サークルなどで活動していたものだから、昔々の青年の家のようなお堅い雰囲気が大の苦手。そんな雰囲気を「塾」の文字から想像してしまったのだ。しかし、それは杞憂だった。
橋を渡って自転車を走らせていると車が一台走ってきた。私を発見するとその車はスピードを落とし、運転していた初老の男性は運転席の窓を開け、「そこを曲がってすぐですから。」と教えてくれた。
その方が宿のご主人だった。宿のご主人というよりも、大学の教授のようなたたずまいのあるやさしそうな方だった。
全身ビショビショの私は、宿の中に入るに入れず、ご主人はバスタオルを何枚も持ってきてくださり、「洗濯機と乾燥機があるから。」とそちらに濡れた服を持った私を案内してくれた。
濡れた服をすべて脱水し乾燥機にかけ、それからゆっくり風呂に入った。

宿は小さな下宿屋さんを思わせる落ち着いた雰囲気で、後日ネットで見ると、私が泊まったベッドが3つある洋室のほかに、和室もあり全部で7室くらいのようだった。一階の食堂には多種多様な本が図書室のように並べられ、一階と二階の廊下にはいろいろなシリーズものの漫画本が並べられていた。
玄関には太古からやじりなどに使われていたたいへん質のよい白滝産の黒曜石が飾られ、NPO自然塾の活動が全国の賞をもらった賞状などが飾られていたり、宿のご主人がもう一方でやっておられる韃靼そばを顆粒にした商品などが置かれていたりして、ご主人の人柄と宿の雰囲気にやっと、「あぁ、青年の家みたいじゃないんだ。」と安心したのだった。

夕食も済み、「それでは、あとはごゆっくり。」という段になって、私は自分の旅の目的をご主人に伝えてみたくなり、「実は、囚人道路を北見峠まで行ってみたいと思って旅をしています。」と言うと、ご主人は、「そうでしたか。実は宿の前の道は、囚人道路で、宿から右に折れて少し行くと、舗装されていない囚人道路が見られるんですよ。」と教えてくれた。

いろいろ聞くと、ご主人はもともと自然塾などの活動をしていたが、大勢の人たちを宿泊させるための宿が必要と必要となり、こちらの『悠遊塾&宿』を開業されたのだそう。
どうりで、なんだかのんびりとして開放的な宿なわけだ。
一泊二食で6200円。私は朝は不要と言ったら、5200円にしてくれた。
ご主人とひとしきり囚人道路の話や網走監獄の話をして盛り上がることができた。
自然いっぱいの白滝村にみなさんもぜひどうぞ。

『悠遊塾&宿』のサイトは下記から
またご主人がやっておられる韃靼そば製品の会社もあります。


      『悠遊塾&宿』   http://huat.jp/yuyujuku
      『大地の香』    http://huat.jp/daichinokaori/latest
          ※コピー、ペーストしてください。


翌朝、東方の遠軽方面が明るくなる4時に出発。さっそくご主人に教えていただいた、未舗装の囚人道路を見にでかけた。この舗装された部分も昔の囚人道路だ。
goo地図でいうと宿から右の方に未舗装の部分がある。
ご主人の話だと、昔の道は険しい川に橋を架けることがたいへんだったので、川を避ける形で山沿いに進んでいたそうだ。


舗装が切れる手前に、なんとクレー射撃場が。
アソウさんも、暇になったらクレーばいいのにねえ。
そして、アソウさんにも囚人道路のことも知ってほしいもんです。


こちらが、未舗装の囚人道路。






この砂利も囚人たちが運んだものなのだろうかなどと思いながら、道を見つめる。


囚人たちの霊は、このような場所で憩うているのだろうか。


未舗装部分から北見峠方面の舗装道路を見る。







『悠遊塾&宿』の前を通って、国道へと向かう。


宿から100メートルほど行くと、後は跡形もなく耕地の一部となっていたが、偶然知ることができた白滝地区の囚人道路。
私をより囚人道路の近くへと誘ってくれた。


ゆたかな耕地広がる人里から峠をめざす-北見峠をめざして 6

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて


『悠遊塾&宿』を発ち、未舗装の囚人道路の写真も撮り終え、
いよいよ北見峠へ向かう。
前日のそぼ降る雨とは違い時々晴れ間がのぞく天候だ。
北見峠方向の山。地図で見ると、天狗山かニセイカウシュッペ山だろうか。


朝霧が山肌を上っていく。






左手丸瀬布方面は陽が出て明るくなってきている。
右手は北見峠方向。




傾斜が急なので、小川の流れも勢いがよい。




このあたりになると、ママチャリの私はすでに自転車から降り、自転車を押して歩いていたが、けわしい上り坂に弟子屈から阿寒湖への道を思い出していた。


標高高く-北見峠をめざして 7

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて


地図上の道のうねりでもわかるように、峠への道はいよいよ急勾配になり、山の等高線を斜めに横切るように、うねうねと上っていった。




道のわきにちょっと広くなった場所を認めると、「囚人たちの仮監の跡なのかなあ。」などと想像をふくらませてあたりを見渡した。


今回も荷物は少なめに。他には背中にも少し背負っている程度。
ママチャリは国内一流メーカーのカワムラサイクルのもの。実は若いころは、カワムラのドロップハンドルの輪行車に乗っていて、網走の自転車店でカワムラのママチャリを見たときに、なつかしくなり購入したもの。二万円。2年間お世話になっている。


崖側から下を見下ろすと、上ってきた道が森の切れ目となって見えていた。


雲を抱いた山々も眼下に見えるようになってしまった。


雲を抱く山々と、高規格道路-旭川紋別道。


右手の赤い橋の高規格道路の反対側、左手にはJRの石北本線の線路が見える。このあたりも明治・大正頃の開業で、線路工事にはタコ部屋のタコ労働者が使われ、多くの犠牲者を出している。


息を切らして上っていると、『北見峠』の看板が。
峠は、もうすぐのようだ。


忘れられてゆく北見峠-北見峠をめざして 8

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて




しらかばロードの看板からほどなくして北見峠に到着した。
ガランとした駐車場には、なぜか暴走車のタイヤの跡が。


右側から、トイレ、売店、休憩所、があったと思われる跡。
トイレもすでに閉鎖されている。




白滝村周辺の観光案内板。


地図上紺色の直線が、高規格道路。
高規格道路の開通で、北見峠の交通量は激減した。
事実、私が午前4時から午前10時ころまで自転車で走っている間に出会った車は数える程度だった。
白滝村にとっても悲願であっただろう高規格道路の開通が、北見峠の利用者の減少をもたらしたとすれば、それはやむをえないことだったのだろう。
遠軽町白滝だけではなく、上川町でも、高規格道路開通に伴いドライブイン・食堂などの利用が激減したという。
高規格道路という隔離された道は、沿線地域と旅行者を遠ざけてしまった。
旅行は、もはや線ではなく、出発地と目的地という、点にしか意味を見出せないものになってしまったのかもしれない。













白滝村案内図は、白滝村の以前の楽しげな姿を教えてくれる。


そのような駐車場の旭川側の広い一角に、北見峠の囚人道路の『慰霊の碑』が建てられていた。


きみは忘れるな囚人道路を-北見峠をめざして 9 完

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて




網走に来て2年が経過したこの春に、囚人道路のことやタコ部屋のタコ労働者の
苛酷な労働の跡を、相次いで見せられた。
私にそれらを”見せた”のは、「なにものか」だ。運命とも言えるし、神とも言える。

それらを”見せられた”とき、私は”囚人たち”、”タコ部屋のタコ労働者たち”と、
自分とが、どれほど違う存在なのかと自問した。

私にも、他人に許しを請いたい罪があり、自分を罰したい思いがある。
私にも多くの借財があり、それを法的に解決してもらった体験がある。
私と、囚人道路に使役された”囚人たち”、借金のかたにタコ部屋に監禁され体が弱ると
道端に埋められた”タコ労働者”との違いは、ない。

違いがあるとすれば、それは、「生まれた時代が違っていた」というその一点な
のだ。


私の中の小さい私、インナーチャイルドの私が、「忘れたら、かわいそうだよ。」
と言った。
私の若いころ自殺していった井下、妙木のことを、忘れようと努力していた
44歳の私に言ったのと同じように、「”囚人”の人たちのことも、忘れたら
かわいそうだよ。」と言ったのだ。

私は、つき動かされるように、囚人道路を走りまわった。
そこには、囚人たちの生きていた痕跡はもはや残っていなかったが、私にはそれ
でもよかった。
囚人たちが見たであろう景色を見、囚人たちが聞いたであろう野の鳥たちの声を
聞き、なにより囚人たちを見ていた木々が私を見ていた。



 
網走から北見峠に着いた時、ふと思った。
北見峠まで着いた囚人たちは何名くらいいたのだろうか。
そして、その人たちは無事に刑を終えて社会へと戻っていけたのだろうかと。
たぶん、北見峠を見たときには、看守たちも囚人たちも、同志としてよろこび
あったのではないかと。

私が、自転車で網走から北見峠へ走ってきたところで、監視付きで原始林の
中を切り開いてきた囚人たちの労苦が知りえるはずはない。
けれど、その囚人たちの劣悪な人権から、今の人権につながっていることは、
知っていたい。自覚していたい。

そのための、北見峠行だったのだ。










溶け出た成分が、まるで碑が泣いているように思えた。


中央道路開削殉難者慰霊の碑
碑文
中央道路開削経過
中央道路は網走に起り北見、留辺蕊、佐呂間、野上を
経てこの「北見峠」を越え上川、愛別、旭川に至る当時全長
五十七里十四町十一間(二二五粁四〇二米)の殖民道路であり拓殖と
北辺防衛上極めて重要視されて開削されました
しかもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より
網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役として
開削されたものであり明治二十四年春着工以来わずか
七ヶ月余りを圣た同年十一月にはこの北見峠まで網走から
三十九里(一五六粁)の道路が完成を見るに至りその作業能率は
今にして見れば驚異的なものでありました。したがって
作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使
不眠不休の労役が続けられ特に最も惨を極めた
野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた
死者百八十余名にも及び死亡者は路傍に仮埋葬
されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない
墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従
消え去り 今になっては埋葬された場所もほとんどが
不明になりました。
その後、昭和三十二年春 白滝村字下白滝で
六体を発見収容 昭和三十三年遠軽町字
瀬戸瀬で四十六体を発見収容 更に
昭和四十八年十月白滝村字白滝東区で六体を
発見収容 それぞれ供養の上改葬しましたが
未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことと
想い こゝに殉難者慰霊の碑を建立し この道路
建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを
念ずるものであります

【裏面】
昭和四十八年八月建立
白滝村長 國松 一敏


『中央道路駅逓区間見取り図』




通る人も車もめっきり減った北見峠だが、山は囚人たちを忘れない。


木々も囚人たちの苦労と功績を、覚えている。

そしてあなたも、覚えていてほしい。明治時代に、囚人たちが世紀の大事業で
成し遂げた、多くの命と引き換えに成し遂げた、通称”囚人道路”、中央道路開削のことを。


感動の山神の碑

2009-07-10 | ”囚人”道路を訪ねて
雨のため、写真もとらず、休憩もとらずひたすら走ってきた。濡れた身体を休憩して冷やしてしまうと、風邪をひきそうだったから。

こちらの瀬戸瀬の山神の碑は前回来た時にたいへん感動を覚えたので、雨の中お参りして写真を撮ってきた。

結局、シャワーのような雨の中、朝4時から2時ころまで走って、白滝に泊まることにした。
悠遊塾・宿という宿。ビショビショの身体をさっそくお風呂で温めて、脱水機と乾燥機で着ていたものすべてを乾かして明日に備えた。

夕食後宿の主人と話をしていたら、当時の面影を残す囚人道路が宿のすぐ前に残っているのだそう。意外な事実に興奮。
明日出発前にそこの写真も撮る予定。早朝の出発にそなえ、今日は早く寝ます。

囚人道路への旅はけわしい

2009-07-10 | ”囚人”道路を訪ねて

やっと丸山峠をぬけ、浜佐呂間栄から遠軽に向かっている。
雨足が強いので、バイパスの下のトンネルで雨宿り。
遠出するならカッパくらい持てばいいのに、どうもカッパとかを持つ気にならず、おかげでシャツまで水が通っている。
だから、雨宿り中もじっともしていられず、熊のように行ったり来たりしている。
ほんと、もの好きというか変人というか、自分でも何やってるんだろうと思います。
9時半になったらまた雨の中出て行こうと思っている。


囚人道路へふたたび

2009-07-10 | ”囚人”道路を訪ねて
前線活発で大雨というのに、出てきてしまった。
網走から旭川まで、明治時代に網走、空知両監獄の囚人たちによってつくられた道路。
前回は遠軽町瀬戸瀬まで行ったので、今回は北見峠を経て旭川までを目指している。
けれど、雨つぶは大きいし、寒いしで丸山峠で早くも後悔し始めている。
だけど、行きたいんだよね。ママチャリという人力で囚人道路を。

囚人道路とタコ部屋労働でできた鉄路へ-網走

2009-06-09 | ”囚人”道路を訪ねて

 5月4日に知床で有名な斜里町越川にある、タコ部屋労働で作られたアーチ橋を見て以来、タコ部屋労働について書かれた本、囚人道路と呼ばれる網走と旭川を結ぶ道路のについて書かれた本を読んでいる。
 そして、仕事が休みになるのを待って、囚人道路を自転車で走ってみることにした。
 もし、事故にあっても、”囚人のたたり”だなんて言わないでほしい。
 そんな”たたる”人たちではないと思う。
 
 私は、ただそんな悲惨な歴史があったことを身体で感じ、身体に刻み込んでおきたいのだ。
そして、”囚人”たちに、タコと呼ばれた労働者たちに、「ありがとう」と伝えたいのだ。 


”囚人”道路、行ってきました-網走

2009-06-09 | ”囚人”道路を訪ねて

明治時代にまだ道らしい道もなかった北海道に囚人たちが送り込まれ、屯田兵・開拓民が入るための道路を作らされた。網走と旭川をむすぶ道路。多くの犠牲者を出したこの道路は、別名「囚人道路」と呼ばれている。

金・土と休みを利用して、ママチャリで遠軽町瀬戸瀬まで行ってきた。
行って見てきて、「今まで何の疑問も持たずに囚人、囚人と呼んでいたが、その人たちを”囚人”と呼んでよいのか。北海道の恩人ではないか。」と思った。

各地域に事業を顕彰し囚人たちを慰霊するための碑や、歴史を伝えるための案内板が多くあった。
すばらしいな、すてきだな、と思った。

けれど、それらの碑は民間団体とか市や町の教育委員会のものがほとんどで、北海道庁や国、文化庁などのものは、なかった。

これでいいのだろうか。

”囚人”だったかもしれないが、国策でなされた事業で1200名が従事して、200名あまりが亡くなったと言われているこの悲惨さを、きちんと国や文化庁で伝えていくべきではないのだろうかと思った。

過去を反省しない国、日本。あやまちを認めない国、日本。

またまた、見せつけられて、ちょっとショック。

小さなブログですが、私がなにもしない●●に代わって、歴史を伝えていきます。
写真をふくめ、今後じっくりじっくりアップしていきます。