朝5時、網走を自転車で出発した。
大曲から、国道238号線を網走湖に沿って走る。
網走湖畔の道が終わり、少し丘にのぼったところから、道道(北海道の県道)104号線に入り、北見に向かう。
その道道の入口の角に、その碑は建っていた。
留辺蕊にある白竜山遍照院というお寺の方があちらこちらに働きかけ、道路を開削した囚人を弔うために、網走湖を見下ろす二見ヶ岡に『国道創設殉難慰霊の碑』を建立したのだという。
奥、坂の下に朝日をあびた網走湖が見える。
碑文
百年にわたり、開拓者精神に燃え
た父祖先人の高い理想と労苦
が今日の網走管内の発展となっ
てあらわれておりますが、とく
に当地方開発の端緒となった網
走と旭川とを結ぶ国道建設は、
明治二十四年四月東北海道貫通
中央道路として工事を開始し、
当時現在の網走刑務所に服役中
の受刑者の多数の血と汗の協力
により完成したものであります。
北海道百年の意義ある年にあ
たり、殉難者に慰霊の誠をささ
げるため国道創設殉難慰霊の碑
を建設しさらに近年とみに増嵩
しつつある交通事故の減少と交
通安全を祈念し「交通安全観音像」
を建立したものであります。
昭和四十三年十月
国道創設殉難慰霊の碑建設期成会
会長 佐藤 忠吉
嘉多山から網走市越歳までだらだらとのぼり坂が続く。
3段変速のママチャリの私は、ちょっとした坂でもすぐ自転車から降りてポツポツ歩く。
民家から少し行った道路の右手に何かが見えてきた。
『第壱号越歳駅逓跡』の碑だ。
碑には次のように記されていた。
碑文
明治二十四年ロシアの南下に備えた北方警備と北見地方の
開拓を目的に開削された中央道路は、札幌から北海道の中央部
を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線であり、北海道集治監、
特に網走監獄の囚人の労役によって完成したものです。
この旭川~網走間(二二五キロメートル)の道路が整備された
ことにより、明治二十五年三月十六日網走の一号越歳駅逓を
はじめとして旭川の十二号駅逓まで中央道路沿いに十二カ所
駅逓が順次設置されました。
駅逓とは、北海道にあまり人が住んでいない時代に、開拓の
ために北海道に渡ってくる人や旅をしている人に宿泊所として、
人や馬を貸し出したり、更に郵便業務の取り扱いを行って
いました。その起源は、江戸時代の一七九九年に置かれ、駅逓
運営者は取扱人と呼ばれ、旅人たちにとって旅の疲れを癒す
ところとして、まだ見ぬ未開地の生活や現状を知るうえで
かけがえの無い助言者であり指導者でした。開拓者たちの寄
り合い場であるなど、開発の先鞭としての駅逓の存在意義は
交通の面からだけでなく北海道の開拓とは切り離すことので
きない関係にあったのです。とりわけ、越歳一号駅逓は、屯田兵
や開拓移民が網走湖を船で渡り内陸へ入るための最初の
第一夜であり、旭川方面からの旅では最後の宿となったこの
駅逓で、先人達はどんな夢を描き、そして現在、私達はその
夢の果てに生きています。
しかし大正元年網走~北見間に鉄道が開通すると同時に
駅逓利用者は減り大正二年駅逓は廃止され、その役目を終え
たのです。駅逓碑建設は網走の歴史の原点である「網走監獄」
と中央道路との深い関わりの中で、網走の歴史を蘇らせる
事業であり、博物館網走監獄開館二十周年記念事業として、
オホーツクの歴史への追憶と先人の思いを糧に未来に繋げる
架け橋となることを祈念し、駅逓跡地真向かいに建立します。
平成十五年十一月
財団法人網走監獄保存財団
博物館網走監獄館長 小野塚 正衛
道道104号網走・端野線の峠を下り、緋牛内に入ってくると、右手に上る道道から北見方面へ向かう抜け道がある。
囚人道路が最初の道ならば、国道はその後に分岐して作られたはずだから、囚人道路の方が国道に沿う形で流れているはずだろうから、その抜け道の方が元の囚人道路なのではないだろうか、などと考えながら走っていたら、通り過ぎてすぐその抜け道の坂の途中にお地蔵さんが数体並んでいるのが見えた。
「あっ!あれだ!」とあわてて分岐まで引き返し、抜け道の坂を上った。
すると、50メートルも行かないところに、その碑は建っていた。
『鎖塚供養碑』
碑の裏面を見ると、昭和五十一年十月、端野町緋牛内鎖塚慰霊奉賛会一同建立となっていた。
鎖塚供養碑
端野町開基八十年記念
明治二十四年北海道長官永山武四郎氏は網
走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ網走
空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し 五
月上北両端より着工十二月完成の突貫工
事をした 此の道路が北見の開発に貢献
した事は言うまでもないが工事の際死亡
し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百
に余るとも云う 此の三基も亦(また)彼等を縛
った鎖だけがその上に残されてあり是を
鎖塚と呼ぶようになった 此処に供養碑
を建て尊くも哀れな御霊を永く弔う
北見市指定文化財「鎖塚の区域」案内板
明治24年(1891)、網走・上川間に中央道路が開削
された。 この工事には約1500人もの釧路集治監
の囚人が使役されたが、4月から12月という短期間に
約163kmもの距離を開削するという突貫的な難工事
のため200人以上の囚人が倒れて亡くなった。
この鎖塚の土饅頭はそのとき亡くなった囚人の墓標の
ひとつとされている。ただし地形の変化等があり、その
形状については現在よりもかなり低かったと考えられる。
端野町の開拓は明治30年(1897)の屯田兵の入地に
より、本格的に始まったが、その入地に至る道路はこの
工事によって作られた。
平成4年2月27日指定 北見市教育委員会
案内板にある『土饅頭』とは、上の写真と下の写真にあるような盛り土をした墓のこと。土饅頭の上に鎖や足かせだけがのせられていたりしたそうだ。
また、この土地に開拓に入った人たちが土地を耕すと、足かせをつけた人骨が次々と出てくるので、その数におどろいたという。
土饅頭が地形の変化で高くなったということは、車道の整備等でたぶんまわりが掘られて低くなったために、土饅頭の高さが相対的に高くなったということなのだろう。
今なお大切に『鎖塚』の歴史を伝えていこうという地域の心に触れ、深く感動した。
道道104号からはずれた『鎖塚』のある抜け道の出口付近は、ちょうど朝の8時ころに通ったためか、北見方面から来て抜け道に入り、網走方向へ向かう車が何台も左折してきていた。
その出口のそばに、駅逓の案内板があった。
二号緋牛内駅逓 案内板
端野町の駅逓は中央道路開削翌年、明治25年(1925)
二区に設置された。その後美幌端野間の道路が開通した
ことにより、明治38年(1905)中央道路との合流点で
ある現在地に移転した。当時の駅逓取扱い人は斎藤嘉藤
次であり、大正11年(1922)駅逓としての役目を終え
た。
石碑の位置が当時の駅逓の井戸の近辺にあたり、石碑
のある高さが、当時の道路の高さでもあった。
平成5年3月 端野町教育委員会
旅を終え、上の案内文を転記していて、気づいた。
この右の階段の上に、『碑』があったのだ。
現場は、ホテルの横で、階段を上るとホテルの敷地なんだろうと上るのを控えていたのだ。
で、さきほどの写真をよくよく見ると、右上の階段を上ったあたりになにか『碑』のようなものがあるではないか。あ~、失敗。
次に行く機会があったら、撮りましょう。
こちらは国道39号線に出て、美幌・網走方面を振り返ったところ。
案内板にあるとおり、付近は切り通しになっていて、道路はまわりよりも低くなっている。
こんなふうにホテルの看板に負けてますが、案内看板もあります。
北見盆地に入ると、畑・田んぼが一面に広がり、少し行くと北見市街に入りました。
郊外型駐車場完備の店舗が道の両側に広がる北見市街地をぬけ、北見市相内へと入ってきた。道路の下を通る、石北本線はその大部分がタコ部屋労働で作られたもの。囚人労働の道路と、タコ部屋労働の鉄路が交差している。
両者とも人間のずるさ、為政者や大企業の狡猾さの象徴でもある。
犠牲者たちは、どんなふうに思っているのだろう。
国道39号線に、あざやかな案内板が目についた。『中央道路開削犠牲者慰霊碑
』とある。
北見市豊田 中央道路開削犠牲者慰霊碑
明治二十四年春 北海道長官永山武四郎は
拓殖と北辺防備のため旭川網走を結ぶ
中央道路の建設を急ぎ、網走集治監の
囚人を使役し開削工事に着手した。
約八ヶ月間の難工事に動員された囚人
千百余名中想像を絶する苛酷な労働に
より相次ぎ亡くなられた犠牲者は二百名
を超え、その多くは路傍に仮埋葬され
墓標なきまま今日に至っている。
平成四年七月 第五区仮監跡と考え
られる当地国道の南側、豊田五六九番地の
畑地から一体の遺骨と共に鎖錠前が発掘
され手厚く供養のうえ改葬した
北見市開基百年の意義ある年に当たり
当市の発展の端緒となった中央道路、現
国道三十九号へ感謝を捧げつつ未だ
この地に眠れる尊い犠牲者のご冥福
を、お祈りし慰霊碑を建立する。
平成八年七月十五日
北見市長 小山 健一
揮毫 久保観堂
裏の碑文と上の写真を撮ったのは、帰路の翌日。
前の晩からの強風と雨で、碑には白樺の花粉がこびりついていた。
北見市豊田から相内、北見市内方面を振り返ったところ。
付近には、馬頭観音や小さなお地蔵さんが多く、まるで路傍の墓標なき遺骨を見守っているかのようだった。
囚人道路の歴史をおった『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』1973年-現代史出版会
タコ部屋労働について調査した『常紋トンネル-北辺に斃(たお)れたタコ労働者の碑』1977年-朝日新聞社
両冊ともに、北見工業高校の教員をしながら、オホーツク民衆史講座の活動として民衆史の掘り起こしをしておられた、故小池喜孝氏がまとめられた本で、すでに販売は終了されており、古書以外手に入れる方法はなくなった本だ。
このような北海道の、日本の、忘れられてはならない歴史に関する本が、絶版になっているということはたいへん惜しむべきことだと思う。
その二冊に、路傍のタコ労働者の、囚人たちの遺骨の掘りおこしの際に、「白い手甲、脚絆に墨染めの衣を着、菅笠をかぶって読経し続ける」尼僧の集団のことが触れられている。
その尼僧のお寺が、この白龍山遍照院だ。
出かける前に、何度も地図で確認しようとしたのだがわからず、あきらめていたのだが、留辺蕊町の入口、国道沿いに入口を見つけ、すぐにかけこんだ。
本にはこの寺の尼僧についてこう書かれている。
-林隆弘尼は、留辺蕊町東端の武華川沿いの山腹にある白龍山遍照院の尼僧で、網走刑務所外の網走湖畔二見ヶ岡の景勝の地に、「国道開削殉難慰霊碑」を建てた方である。隆弘尼はその動機をこう語る。
「私が十歳のとき、この寺の山の道路で鎖を拾ったんです。母に聞くと『この道をつくった、網走の囚人の足につけられていたもんだ。死体を埋めた場所からよく出るんだよ』と教えられました。そのとき子どもごころに、死んでまで鎖と一緒だなんて不憫だなあと感じました。戦後尼僧になり、開道100年(1968年・昭和四三年)を迎えたとき、国道開削で亡くなった方々こそ本当の開拓功労者だと思い、囚人の墓を探して供養して回り、その土を集めて網走刑務所を訪ね、あの碑を建てていただきました。
初めはなかなかわかってもらえませんでしたが、何度も通っているうちにわかっていただき、『刑務所内は広いから、どこでもいい所へ建てよう』と言われたので、思わず『死んでまで塀の中に葬られるなんて、かわいそうです』と言って、刑務所外に建てさせてもらったんです。
わたしはね、肉親の死に遭っても涙を流さないので、気の強い女だと言われます。それなのに、囚人やタコの遺体に接すると涙が出てとまらないのです。誰にも見とられず、とむらわれなかった人たちが不憫でたまらないのです」
【上記『常紋トンネル』より】
本で読み、尼寺のことと、林隆弘師という尼僧のことが忘れられずにいたので、お寺に寄らせていただいた。
お寺の前で、農作業姿の女性の方が二人草をとっていたので、「囚人の方の碑を建てたのはこちらの先生でしょうか。」と尋ねると、「そうです。先代の先生が大変熱心であられて、網走の二見ヶ岡の囚人の慰霊碑は、今でも毎年7月9日に慰霊祭をやっています。」とのことだった。
私が、網走から”囚人”道路の跡を通って遠軽まで自転車で行くところだと説明すると、私の質問に答えてくれた方が、「こちらには囚人の方のご位牌がありますから、どうぞお参りしていってください。」と言ってくださったので、お参りさせていただくことにした。
私が、すまなそうに「あのう、写真も撮らせてもらえないでしょうか。」と尋ねると、その方は「えぇ、いいですよ。どうぞどうぞ。」と言ってくださった。
位牌は慈弘塔と呼ばれる建物にあるとのことで、本堂の隣に作られたまだ新しいそちらにおじゃました。
国道に面した看板にもあるように、水子供養も行われているため、建物の中には亡くなった子どもたちへの供え物として、おもちゃやおかし、ミルクなどが多く供えられていた。
よく、「亡くなった子の歳を数える」と言われる。それは、”無駄なこと”の例えのように言われるが、32年前に友人二人を亡くした私にはそれは無駄なこととは思えない。
むしろ、亡くなった子の歳が、自分を支えてくれているのがわかるから、人は亡くなった子の歳を数えるのだろう。
館内は、子を亡くした人たちの悲しみで満ちていた。
館内は、先ほど私の質問に答えてくれた方のお弟子さんと思われる方が案内してくださったが、私は再度その方に「囚人の方の位牌の写真を撮りたいのですが。」と申し出た。その方は、ちょっと当惑した様子で、「そんなことはあまり例がありませんので、ちょっと聞いてまいります。」とおっしゃったので、「先ほど、農作業をされていた左の方に伺ったところ、『いいですよ。』とおっしゃっていました。」と伝えると、「そうでしたか。あの方がこちらの先生ですので、先生が『よい』とおっしゃったのなら、よいでしょう。写真を撮る前に『撮らせていただきます。』と手を合わせてから撮影してください。」とのことだったので、言われるように、「撮らせていただきます。」とお祈り、ごあいさつしてから撮らせてもらった。
”囚人”の方々の位牌は、赤ん坊を抱いたご本尊の右側、ご本尊に向かって左手に安置されていた。先ほどの先生が「”囚人”とは何も書いていませんよ。」とおっしゃっていた通り、ただ普通に簡素な木の位牌が何重にもずらりと並んでいた。
おもちゃやお菓子に包まれた空間の中に、そこだけいろいろな銘柄の煙草が供えられていた。
しかし、それはまったく違和感はなかった。むしろ子どもたちとは縁が無かったり、子どもがいても囚われ一緒にいられなかったであろう”囚人たち”には、子どもたちと一緒のすてきな空間なのだろうと思われた。
私は、「”囚人”の方々は、こちらでは手厚くとむらわれているんだなあ。」と胸が熱くなった。
慈弘塔を出ると、先ほどの先生に礼を伸べお寺を後にし、また遠軽へと向かった。
寺の前にもタコ部屋労働でつくられた鉄路が通っていた。
小池喜孝氏の書かれた『常紋トンネル』の本文は、白龍山遍照院の先代との会話の場面で締めくくられている。
ある日、隆弘尼の自室に招かれた小池氏は、かつてこの場所で隆弘尼から一喝を受けたことを思い出していた。出会いの最初、囚人の中から自由民権運動の国事犯のみを探し出そうとする小池氏を、林隆弘尼が「」あなたは、死んでからまで、自由民権の国事犯と他の囚人とを差別なさるんですか」と指摘し、その中から囚人やタコの掘りおこし運動が始まったのだった。そんなことを小池氏が回想していると、
---部屋にはいってきた隆弘尼は、仏壇の前にピタリと着座して話された。
「小池先生、この地方のどこかの広場に、銅像を建てたいですね、三人の群像なのです。ひとりはツルハシを振りかぶった逞しい身体の青年です。あとの二人は、モッコをかついでいます。ツルハシを持った青年は、下半身に腰巻は下帯をしています。モッコをかつぐ二人の脚は、鎖でしばられています」
隆弘尼は、この地方の開拓功労者として、囚人とタコの銅像を建てようというのである。その話を聞く私の胸にはこみあげるものがあった。
【上記『常紋トンネル』より】
自転車で旅をしていると、『分水嶺(ぶんすいれい)』とは、よく言ったものだと、感心する。峠の手前までは上り坂だから、川は来た方向へ流れていく。
峠を越えると、下り坂だから川も行く手に向かって流れていく。
当たり前のことだが、地図で見ると見事に、あちらとこちらに川が分かれていて、これが『分水嶺』かとまたまた感心する。
第四号留辺蕊駅逓跡を過ぎると間もなく峠にさしかかった。
その峠を越えてすぐのところに、慰霊之碑は立っていた。
碑の前は、広く開けていて昔は仮監獄か何かが建っていたのかもしれない。
碑の後ろの木はなんとなく苦しむ手のように見えた。
『中央道路開削犠牲者慰霊之碑』
碑文
明治二十四年 旭川網走
間に網走監獄の受刑者を使
役し 粗食と過酷な労働に
より 約千名の従事者中
二百名以上の犠牲者を出し
この中央道路が開削された
昭和五十九年六月三日 当
町花園五十五号で遺骨二体
を発掘した
留辺蕊町発展の端緒とな
った道路への感謝と犠牲者
の冥福を祈念するため開町
七十年の意義ある年にあた
り追悼碑を建立する
昭和六十年十一月十五日
中央道路開削犠牲者追悼碑建立期成会
留辺蕊町
端野町も留辺蕊町も、”平成の大合併”とやらで今はすでにない。
しかし、碑をこうしてみていくと、小さな町の碑の方が心がこもっていてすてきな気がする。
大きくなるほど、知恵がまわり各方面への配慮が行き届き、結果、心の表出は抑えられる。
だから、国とか北海道庁の慰霊碑はないのだろうか。
どんなものかと考えさせられる。
この平地の延長がもしかすると、以前の”囚人”道路だったのかもしれない。
今日も車は碑の前を通り過ぎる。