空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)

荘周菩薩品(抄)、老子、中庸、大学の仏教的解釈を掲載しています。荘周菩薩品、続、補は電子書籍(シナノブック)に。

2)富むといえども貧し

2016年09月08日 | 幸せについて
 お釈迦様の最後の教えとされている遺教経(ゆいきょうぎょう)の一節に説かれている言葉です。
 仏教はお釈迦様の教えとされていますが、ヒッタイトからの教えを仏教として広めるために、インドの仏教を信奉する人々の想念が作り出したものですのですから、実際にはお釈迦さまはこの輪廻の世界には生まれて来ていません。しかし、二十一世紀に入り、天上界の会議でお釈迦ざまは神の一員として認められてようです。イエスキリストはインドまで訪れてこのヒッタイトからの高次元の教えを説いていたのは事実のようです。
 それでは遺教経の第二節の出世間法要に説かれている「知足の功徳」ですが、短い一節ですので全文の読み下し文を記載します。
「汝ら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は,即ちこれ富楽安穏の教えなり。知足の人は大地の上に臥すといえどもなお安楽とするも、不知足の人は天堂に住すといえども、また意に叶わず。不知足の人は富むといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり。不知足の人は常に五欲のために牽(ひ)かれ、知足の人に憐愍(れんみん)せらるる。これを知足と名づくなり」
 と説かれています。不知足の人は五欲、すなわち五感(眼耳鼻舌意)を満足するための欲望が絶えることが無いので、自ら苦悩を招いて苦しんでいる。いくらお金を持っていて良い住まいに住んだとしても、もっと良い所に住みたくなって、欲望の止まる事が無いから、年中、悶々とした生活を送っている。それがすべての患いの元であることも知らないで、自分は成功者で幸せ者だと思っている。知足の人はそのことに気づかない不知足の人を憐れんでいる、と説かれています。
 ヘラクレスの冒険の中の修道院長の言葉が思い浮かびます。不幸であることを知らない人のことを一言で語っています。「その方はお金持ちなんですね」
 遺教経のこの前の一節、無求(むぐ)の功徳では小欲について説かれています。全文を掲載しますと、
「汝ら比丘、多欲の人は利を求めることが多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は利を求めること無く、欲も無ければこの患(うれ)い無し。ひたすら小欲を修習すべし。小欲なることの諸々の功徳を生ずるは語るまでもなし。小欲の人は諸根、すなわち五欲のために牽かれず、すなわち諂曲(てんごく)して以て人の意を求めず(人を欺してまで自分の利益を得ようとはしない)。小欲を行ずる者は心担然(たんねん)として憂畏(うい)するところ無く、事にあたりても余裕有りて、常に足らざること無し。これ則ち、涅槃行(ねはんぎょう)なり。これを小欲と名ずくなり」と説かれています。遺教経では小欲知足の話を二つに分けて説いています。
 不幸を知らない不幸、そして富むといえども貧し、これらすべての原因は貪欲さであることが説かれています。これらの苦悩を逃れる方法は、離欲、すなわち小欲知足に生きることが功徳を生ず、すなわち魂の浄化のための精進修行であることが説かれていると思います。
コメント
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