GOREとにゃんこの桃源郷

主観的にCDのレビューやら、日記やら、色々と。
ゴアとかメタルとかロックとか

"なぜ"の重要性

2007-09-19 | 日記
 子供はよく、"なぜ、どうして"と言います。特に2歳以上、5歳未満の子供に多い現象です。この"なぜ"や"どうして"は、主に理由を問う言葉です。たとえば、「なぜ、お日様は沈んでしまうの」とか「どうして野菜も食べないといけないの」などのように用いられます。大人が当たり前のように知っていることや、今まで考えたこともなかったような物事に対して、逐一疑問を投げ掛けてくるのです。ここで、言ってはならない返答というものがあります。それは、「なんでも」や「そんなことはどうでもいい」など、質問そのものを切り捨ててしまう行為です。親が全知である必要はありません。子供は、世界中の誰も知らないようなことでさえ聞いてくるものです。答えが分からなければ、「どうしてだろうね、○○はどうしてだと思う」というような質問で返したり、「ごめんね分からない」と正直に言いましょう。どちらの言い方も、子供自身に考えさせるという点で共通しています。この、考えるということが非常に重要なことなのです。

 こういった思考する瞬間の積み重ねが大事なのであり、もしも投げ掛けた疑問を瞬時に切り捨てられてしまえば、子供は考えるのを止めてしまうことがあります。疑問を多く持つ子ほど、考える力を多く持っています。親はなるべく、子供の"どうでもいい"を減らしてあげるべきです。どうでもいいことが多い子ほど、学ぶ気持ちが薄れてしまいます。ただ派手な行動を起こすよりも、まずは考えることが大事です。飛び出しによる交通事故に遭わないためには、走り出す前に立ち止まる必要があるのです。感情に流されて悪事を働く前に、理性を持って考えることが出来なければ、一生を棒に振るという言葉の現実味が増します。つまり、考えることがそれだけ大切なのだと理解していただきたいのです。能力を得るには、訓練が必要です。思考力を得るには、考えることが必要なのです。

 私は敢えて、子供の例をあげて説明しました。しかし、このことは年齢や年代など関係無く、全ての人たちに当て嵌まります。幼少期に考える力が養われていなくても、常に考えることを意識していれば、いつしか自然に疑問が頭に浮かぶようになるはずです。訓練は難しいことではありません。他のことをしながらでも良いので、身の回りの物事について考えてみましょう。たとえば、「なぜ、ぬいぐるみが開発されたのか」や「どうして自分は働くのか」など何でも良いのです。そして、答えを知る必要はなく、自分なりに結論を出してみましょう。こうした自由な思考は、一旦結論に達しても、連想ゲームの如く次々と展開させていくことができます。
 たとえば、「なぜ、ぬいぐるみが開発されたのか」→「人は動物に癒されるから」→「しかし、動物を飼うのは難しく、飼えるとしても愛玩動物として存在する身近なものだけである」→「ぬいぐるみならば、猛獣や架空の生き物でさえ身近に置くことが可能だ」→「ならばぬいぐるみとは、動物の代用として存在するために開発されたと言える」と、ここで一旦(仮定ですが)結論が導き出されました。ですが、この時点から更に、この仮説の信憑性を考えていくことも可能ですし、"ぬいぐるみ"自体に対する疑問を生むこともできます。たとえば、「ぬいぐるみに綿が詰まっている理由」や、「木彫りの置物などとのニーズの違い」などです。また、「動物の代用は、ぬいぐるみ以外でも可能か」というように、次々と可能性を探っていくことも出来ます。

 このように、思考は個人の自由であり、この自由は無限の可能性を持っています。算数と違い、答えは蛇足に過ぎません。繰り返し様々な考察を練っているうちに、今までより少し広く、、または深くにまで考えが及ぶようになります。今まで結論としてきた時点から、更に考えが及ぶようになっていれば、それは思考力が向上した証拠です。興味があるなら、もっと難しい課題に挑戦してみると善いでしょう。ただし、そうなると幾分、それなりの知識も要求されてきます。
 常に"なぜ"と思うことです。疑問が生まれることが無くても、疑問を拵えることは可能です。大人は子供のように、何でも疑問を人に聞くことはしません。ですが、聞く必要もありません。思考力を養って自分の生き方を見つけて下さい。一つの選択をしなければならないのなら、選択肢を沢山持っているほうが有利なのです。選択肢を増やすには、思考力が欠かせません。

 以上が"なぜ"の重要性についての全容です。考える力のある人は、この記事を批判することが出来ます。また、この記事から別の結論を見出すことも出来ます。批判する力や、読み解く力も大事ですが、それらに関してはまた他の機会にします。たぶん書かないでしょう。私はものぐさな人間ですから。最近よく"メディアリテラシー"という言葉を耳にしますが、これはメディアを読み解く力のことです。誰がこう訳したのか知りませんが、これはかなり良い訳だと思います。ちなみにメディアに関してはどう訳しても問題ありません。さながら私は大衆文化として考えることが多いです。せっかく考えることが好きなのだから、私は大学生活において、論文を書くことに情熱を傾ければ良かったと今思いました。現在は過酷な肉体労働によって虐げられているので、そこまで手が回りません。そうだ、せっかくだから、良いことを教えてあげます。この世で一番面白いのは、"適度に余裕のあるオッサン"です。切羽詰っているオッサンは性悪で、余裕だらけのオッサンは汚物です。適度に余裕のある(息抜き中の)オッサンと酒を飲むのはとても楽しいことです。けど、書いていたらそうでもないような気がしてくるから不思議です。不思議の国のオッサン大行進です。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あなた (tak)
2007-09-23 20:35:47
一体誰ですか(笑)?



いや、どうした?突然。

憑かれてる…疲れてるんかい?

子供でもできたんかい?



なぜ?どうして、締めがオッサンなの?



疑問を持つことは意義の有ることだとは思うけども。
返信する
>>tak (GCC)
2007-09-23 20:57:58
そう、珍しく敬語で書いてみたんだ。
オッサン?俺はまだオッサンじゃないよ。
返信する

コメントを投稿