・息子たちが学校をひっかきまわして、
先生からひんぱんに呼び出しが来たりする。
若者にとっては、
親と学校は一つ穴のムジナだと思っている。
ところが、これがそんな簡単なもんじゃないぞ。
そこらが浅薄皮相な若者の脳みそではわからないところ。
親側としたら、
息子がゲバったって、別にどうということはない。
少なくともわが家の場合、
夫も私も我関せずだ。
「××はいないのか」と夫。
「ハンストですって」と私。
「何のだ」
「朝鮮人入管法の何とかで。
それとベトナムの何とかってたよ」
「朝鮮人と××と何か関係があるのか」
「あるんでしょうねえ」と私。
これでこっちは晩酌してテレビ見て寝てしまう。
若いモンのお祭り騒ぎに四十面さげて、
つきあっていられるか。
こっちは戦中戦後を切り抜けてきた体だ。
もう年季はあけている。
それを学校側から呼び出しにくる。
先生としたら手がかかるだろうが、
これが万引きやカツアゲ、タカリや婦女暴行じゃなし、
学校相手のハンストだから、
適当に計ればいいのに、
何ぞというと親を呼び出す。
親の仕事中でもおかまいなし。
学校側の苦労も察するに余りあるが、
肩身を狭くして、
親が学校のいうことに偏っていると思うのは独断である。
そこには微妙な不信感もあれば主張もあり、
異議もある。
若い者のすることに対して、
困ったヤツだと思うのは、親も学校も同じだが、
立場上、微妙に色合いが違う。
しかし結果として親は、
呼び出しに応じて出かけて行き、
先生の後にくっついて、
「もう止めなさい」
と言わねばならない。
よって、結果からしかモノを見られない若者は、
一つ穴のムジナだと思ってしまう。
戦後責任という言葉を若者はすぐ持ちだすが、
これだって雑駁な観念だ。
日本人である限り、
少なくとも、百年前にさかのぼって、
明治維新から戦争責任を追及しなければいけないのだ。
あんな大仕掛けな戦争が、
一世代や二世代で責任負えるものか。
歴史というものには、
大きな流れがあり、いったんその流れに力がつくと、
もう少しばかりの力では防ぎきれない。
若者がすぐに、
「大人はなぜ反戦運動をしないのですか」
というが、
そんなことに血道をあげていたら、
たいがいの親は子供を学校にいかせてやれなくなる。
稼ぎに追われるという生活を知らない若者には、
そこのところは通じない。
「大人はほんとは一ばん反戦的で」
と私が放送局でいうと、
若者たちは失笑した。
「じゃなぜ、行動にうつさないのです」
「そういうものは、
しゃべったり行動したりするもんじゃない。
じっと抱いて沈殿させてるもんです」
「沈殿させるものが大人にはあるんだな」
「沈殿は悪いことじゃない、
沈殿させるから生きていけるし、
あなたたちをここまで育てられたのです」
「あ、つまり、妥協するってこと?」
「バカ、妥協じゃないよ」
私はついに怒鳴った。
この救いようのない単純バカ。
青年って、ロマンチックなもんじゃないよ。
きめが荒っぽくてガサツでアマエタで、
ほんとどうしようもない。
心やさしいのは、大人である。
(了)