むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

22、おとな息子 ⑤

2022年06月06日 08時15分14秒 | 田辺聖子・エッセー集










・息子たちが学校をひっかきまわして、
先生からひんぱんに呼び出しが来たりする。

若者にとっては、
親と学校は一つ穴のムジナだと思っている。

ところが、これがそんな簡単なもんじゃないぞ。
そこらが浅薄皮相な若者の脳みそではわからないところ。

親側としたら、
息子がゲバったって、別にどうということはない。
少なくともわが家の場合、
夫も私も我関せずだ。

「××はいないのか」と夫。

「ハンストですって」と私。

「何のだ」

「朝鮮人入管法の何とかで。
それとベトナムの何とかってたよ」

「朝鮮人と××と何か関係があるのか」

「あるんでしょうねえ」と私。

これでこっちは晩酌してテレビ見て寝てしまう。

若いモンのお祭り騒ぎに四十面さげて、
つきあっていられるか。

こっちは戦中戦後を切り抜けてきた体だ。
もう年季はあけている。

それを学校側から呼び出しにくる。

先生としたら手がかかるだろうが、
これが万引きやカツアゲ、タカリや婦女暴行じゃなし、
学校相手のハンストだから、
適当に計ればいいのに、
何ぞというと親を呼び出す。

親の仕事中でもおかまいなし。

学校側の苦労も察するに余りあるが、
肩身を狭くして、
親が学校のいうことに偏っていると思うのは独断である。

そこには微妙な不信感もあれば主張もあり、
異議もある。

若い者のすることに対して、
困ったヤツだと思うのは、親も学校も同じだが、
立場上、微妙に色合いが違う。

しかし結果として親は、
呼び出しに応じて出かけて行き、
先生の後にくっついて、

「もう止めなさい」

と言わねばならない。

よって、結果からしかモノを見られない若者は、
一つ穴のムジナだと思ってしまう。

戦後責任という言葉を若者はすぐ持ちだすが、
これだって雑駁な観念だ。

日本人である限り、
少なくとも、百年前にさかのぼって、
明治維新から戦争責任を追及しなければいけないのだ。

あんな大仕掛けな戦争が、
一世代や二世代で責任負えるものか。

歴史というものには、
大きな流れがあり、いったんその流れに力がつくと、
もう少しばかりの力では防ぎきれない。

若者がすぐに、

「大人はなぜ反戦運動をしないのですか」

というが、
そんなことに血道をあげていたら、
たいがいの親は子供を学校にいかせてやれなくなる。

稼ぎに追われるという生活を知らない若者には、
そこのところは通じない。

「大人はほんとは一ばん反戦的で」

と私が放送局でいうと、
若者たちは失笑した。

「じゃなぜ、行動にうつさないのです」

「そういうものは、
しゃべったり行動したりするもんじゃない。
じっと抱いて沈殿させてるもんです」

「沈殿させるものが大人にはあるんだな」

「沈殿は悪いことじゃない、
沈殿させるから生きていけるし、
あなたたちをここまで育てられたのです」

「あ、つまり、妥協するってこと?」

「バカ、妥協じゃないよ」

私はついに怒鳴った。
この救いようのない単純バカ。

青年って、ロマンチックなもんじゃないよ。

きめが荒っぽくてガサツでアマエタで、
ほんとどうしようもない。

心やさしいのは、大人である。






          


(了)

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