「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

22、おとな息子 ④

2022年06月05日 08時34分18秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私は過日、
ある放送局で青少年たちと話し合いをしたが、
その時も、そんな話が放送前に出ていた。

尤も青年ばかりでなく、大人側からも、
近ごろの親は子供を叱らなさすぎる、
という声が多い。

親に自信がないからだとか、
教育理念が確立していないからだといわれる。

のさばる青年たちを苦々しく思っている人が多い。

しかし、現実に子供を身近にもっていると、
いかに体制側的、家長的立場に立とうとも、
それでストレートに子供を叱り強制し、
抑止することは出来ない。

立場としてはそうであっても、
ひと昔前の親爺のように、
直接的な叱り方はできなくなっている。

それはわれらの世代と関係があると思う。

われわれ三十代後半から四十代の人間は戦争を経てきて、
時代に対しても人間に対しても、
不信感が投影せずにはいられない。

断固とした理念や信条がない、というのではなく、
それを唯一絶対のものと信ずる根拠がない。

われわれの少年少女時代は、
親から直接的な叱られ方、強制のされ方をした。

しかしながら、
われわれの人生は、戦争を挟んだおかげで、
価値観が変動して親の教訓は反故になってしまった。

それが切実に身に沁みたもので、
いまの親の心理は複雑微妙である。

そうしてへんな内省癖、場違いな卑下感、気恥ずかしさ、
てれ、含羞などがつきまとう。

自分たちが受けたような教育をしても、
それが将来、よいか悪いか、判断はつけられない。

ただ一つ、
まちがいのないものは、健康ぐらいのもので、
そのほか、数々の徳目について、
自信のある人は少ないのである。

来し方を考え、未来を展望し、
みずからの青年時代と思い合わせ、
あたまから子供を叱るということに、
まともな大人なら躊躇せずにはいられない。

そういう複雑な曲折を経て、
大人は沈黙しているのだ。

独身のとき、

「大人ってどうしようもないよ」

と青年たちをおだてたのは、
今になると軽率であったといわざるを得ない。

しかしそういう屈折した心理は、
浅薄な若者のあたまでは理解できない。

さればといって、
大人は結果として体制側に立たざるを得なくなる。

子供たちが、
みすみす敗退するのに決まってる道を、
進ませる親がいないのは当然である。

だから遠慮がちに、

「それじゃ、世の中渡れないよ」

などといって、

「大人って臆病で卑怯だなあ」

とひんしゅくを買ったりする。






          


(次回へ)

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