・三島事件について書かれたものを読むと、
たいてい男性の意見ばかりで、
マスコミはどうして女性の意見をのせないのであろうか。
「女はのせない三島事件」であるが、
かの古武士的死にざまからすると、さもあらん。
私は日本の右翼について体系的な知識はないけれど、
直感でいうと、非常に大人ではない。
それは子供っぽいということではない。
何か手落ちの、半人前の大人という感じである。
何となれば、
彼らは女性に関して無智無理解だからである。
彼らの思想・主義には女性的なものが何もない。
女性的部分のない思想・主義は偏頗な未完成のものである。
女性的部分を抜きにして構築する世界観は必ず、
崩壊する。
女性的部分とは、
てっとり早くいうと、
たとえば民主主義みたいなものだ。
我々は今や少々これにも飽き飽きしているが、
さりとて他に代わるべきものがない以上、
ないよりましである。
三島さんは女性を美しく書いた。
三島さんの小説の中の女性はほんとに「永遠の女性」だった。
どの小説のだれが、ということなく、
私は三島さんの小説が好きだったのは、
美しい女性にめぐりあえるからだった。
女の美しさ(抽象的な意味で)を知る人が、
ああいった古典的右翼として死んだことを私は、
一ばん奇異に感じた。
右翼的思想と女とは最も結びつかないのに。
「天皇陛下万歳」という、
あれも最も女性的ならざる言葉であり、
両手をあげて万歳する、あのスタイルも、
もう全く反女性的なものだ。
たとえば赤い中国、
左翼のイメージが女と結びつきやすいのは、
これは根拠があり、一ばん卑近な例でいうと、
たとえば毛さんが演説すると拍手をする。
拍手はたいへん女性的である。
女は両手を上へあげると、
たいへんな不安感に襲われる。
急所ががら空きになるからだ。
拍手は反対に腕でかばうようになるから、
女性は万歳より拍手を好む。
三島さんは日本のよさ、
美しさが失われてゆくのを惜しんだ。
これは誰も心あるものは憂えている。
しかしその軸に「天皇陛下」を持ちだすと、
卒然として妖気をはらんだ暗雲が低迷してくる。
「天皇陛下」というイメージには、
「女」の入り込む余地が全くない。
介錯を女がするはずないのと同じく、
また誰も「皇后陛下万歳」と叫んで、
死ぬものはないのと同じく。
あらゆるものに、
女のイメージがあり女臭紛々とし、
女の影が射すようでないと、
それは必ず破綻をきたす。
ウーマンパワーがどうこうというのではなく、
バランスの問題である。
世界は男臭紛々、
女臭紛々の調和の上に成り立っているのだ。
私は三島さんという人は、
本質的に女嫌いなのではないかと思い至った。
してみると三島さんの小説にある、
「女の美しさ」のエッセンスは、
彼の実感論ではなく、
ゆたかな才藻の所産であり、
はかない紙上の幻影であったのだ。
たとえば楯の会の、りりしい制服、
粒のそろった美青年たち、
ああいう趣味も男のものである。
あの美意識は女性的じゃないか、
という人もあるが、
真の女性的というのは、
下駄ばき、ジャンパーなどちぐはぐに並んでいたり、
また美青年ばかりじゃなく、
矮小な男、容貌魁偉なども集める、
そういう破調を抱合した、
大きい調和の意味を持っているのだ。
しかし何といっても、
我々、昭和初期、大正末年生まれの人間にとっては、
三島さんは心痛む死に方をした。
いまの若い者を相手にしていると、
憤激のあまり腹かき切って私だって死にたくなる。
戦中派の清廉潔白なハラワタを見せてやりたい。
しかし切らないのは、そうはいいつつ、
昔とくらべ今の若い者のいいところをさがしてしまう。
そのバランスが「女性的なるもの」なのである。
三島さんが「天皇陛下万歳、武士道、サムライ」と突っ走ると、
いかにその死に方に心痛んでも、
目引き袖引き足踏みしてついていけなくなる。
その平衡感覚が女性的なるものである。
あるいは女性的なるものとは、
大衆の生活実感といってよい。
日常卑俗の生に心奪われている状態である。
そればかりでは文化は向上しないが、
見失っては文化は崩壊する。
女性的なるものはカッコ悪く、
三島さんが採らざる所以である。