「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「29」 ②

2025年01月11日 08時59分15秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・定子中宮の御産の予定日が、
近づくにつれて内裏からは、
ご出産用意の品が、
次々届けられてくる

ご祈祷の僧も二壇しつらえられ、
読経がはじまる

しかし僧侶の現実的で強欲なること、
おどろくばかりである

三条の邸へ派遣されてくる僧には、
はかばかしい名のある僧は、
一人もいない

品のない代僧ふうな下っ端の僧が、
こそこそとやってきて、
眠たげに途切れ勝ちな読経を、
型通りするだけ、
それもお布施を頂くと、
そこそこに帰ってしまう

「怠りなくお勤めして下さい」

と皇后職の役人にいわれても、
返事ばかりで言葉数は多いが、
一向に身を入れない

「昔だったら・・・
世が世なら・・・
宮がご出産間近となれば、
日も夜も験のある徳の高い、
名僧知識がすきまなく詰めて、
読経の声は津波のように湧き、
どんなにか心丈夫でありましたものを」

と中納言の君はいって泣く

昔のことをいっても、
はじまらないのに、
この人はそれが得意、
また中納言の君につづいて、

「故殿がおいで遊ばしたら・・・」

「帥の大臣や隆家中納言さまが、
昔通りに世にときめいて、
いらっしゃったならば・・・」

とまたもや、
よしない繰り言の大合唱がはじまる

きらいだ、
きらいだ、
こういう女たちはほんとうにきらいだ

まだしも生昌がいい

「ハイ、シーッ」のおじさんは、
いまでは、

「皇后の宮さまを、
お守りすることが、
私の老いの生きがい」

と胸張って、
誰も庇おうとしない中宮のおんために、
御産のご用意に奔走する

十二月に入った

ご予定の日も近づき、
お召し物からお調度品まで、
白一色のものが用意される

私どもにも、
白い絹が下される

お介添えの我々もみな、
白一色の衣装をつけるのである

中宮にとってお心強いのは、
やはりご兄弟がひしと、
付き添っていらっしゃることらしかった

ことに弟君の隆円僧都、
叔父君の清昭法橋という、
身内のお坊さまが、
これはさすがに心をこめて、
ご祈祷なさる

弟君、隆家中納言は、
もうご自分のお邸に、
お帰りになっていない

それに五つの姫宮と、
二つの若宮のお可愛らしさ、
このお二人のために、
三条の宮には笑い声がたつ

「この若宮のおわします限りは、
皇后の宮のおん地位はご安泰」

と帥どのは、
若宮を頭上にかかげんばかりに、
大事にされる

「願わくば、
男二の宮をお挙げ頂くように」

とひそかに、
行じていられるらしかった

雪が降る日、
中宮はご祈祷のとぎれ目に、
横になっていらしたが、

「雪の山を作ったのは、
昨年のことだったのに、
もう遠い遠い昔のことのように、
思われるわね・・・
少納言、
あの雪の山のことも、
草子に書き残すといいわ」

と私にいわれる

「そういたしましょう
平らかにご出産あそばしたら、
そのあとのご養生の慰めに、
つたないものでも、
お目にかけましょう」

私はほんとうにそう思っている

私の思う以上に案外、
数多く世間に読者がいるのかも、
しれないと棟世の娘を知ってから、
私は思うようになっていた

気もせかれて、
もっともっとたくさん書いて、
まっ先に中宮にお目にかけたかった

「こまかなことも、
忘れず書きとどめておくがいいわ」

中宮は楽しげにおっしゃる

「柴を焚く匂いがなつかしい、
といったことがあったわね

・・・五月の菖蒲の薬玉が、
秋までかすかに匂っている、
その香り

たきものの残り香

あなたは車の輪に、
押しつぶされた蓬の香りが、
慕わしいといったわね

月の明るい夜、
川を渡るときに、
牛車の歩みのままに水が散るのは、
水晶の砕け散るさまに似ている

・・・そんなことも、
『春はあけぼの草子」に、
あったじゃない?

その面白さこそ、
人生だわ

わたくしはいろんな面白さを、
知ったわ

それに比べると、
中宮や皇后という位がなんでしょう」

「いいえ、
み位はやはり、
めでたいものでございます」

「少納言、
あなたが反語でそういっているのは、
よく知っていてよ」

中宮のおん頬が輝く

と私はそのかみの、
まだ十七、八であられたころの、
光るような面輪そのものに、
みえる

「少納言とわたくしの友情とか、
主上との愛とかにくらべれば、
どんなものも光を失うわ・・・

面白かった
たのしい人生だったわ」

「なぜ、
過ぎたことのように、
言いなされます
この先まだまだ、
たのしい人生が宮さまを、
お待ち申しあげていますのに」

すると中宮は低くお笑いになった

みちたりたたのしげなお笑い声で、
しかしそれは、
私への返事ではなく、
ご自分のうちに深く籠られた、
微笑のようだった

御産は十二月十五日

内裏から主上のお使いは、
ひっきりなしに来る

二、三日前から、
中宮は苦しげになさっていたが、
御産は慣れていらっしゃることだし、
熟練した女房が、
お介添えしているので、
安心していた

しかしお苦しみが一日中つづき、
夜に入ってやっと生まれられたのが、
女御子だった

帥どのは、
いささか失望なすったらしいが、
ご安産であったのが何よりと、
いっそう前よりたかく、
ご読経なさる

内裏へ、
よろこびの使者が報告に戻る

しかし中宮のお身のまわりの、
我々は狼狽していた

後産がないままに、
ご容態が変ったのだ






          


(次回へ)

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