むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「30」 ①

2025年01月15日 09時31分27秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・年はあけたが、
三条の宮に春はない

新姫宮には、
美子(女編の美)内親王、
というおん名が奉られた

祖母君の女院が、
わが手で育てたいと仰せられて、
暖かくなるのを待ちかね、
お迎えを出されたのだった

女院は病気がちでいられるが、
今年は四十の賀をされるという

内親王がお可愛いので、
女院は、

「念誦のさまたげとなって、
かえってこの世に執着が、
できてしまった・・・」

と嘆かれながらも、
日一日と可愛くなられるさまに、
夢中でいられるとのことだった

主上は、
美子内親王をごらんになると、
亡き中宮がしのばれて、
お泣きになったという

内裏にはみくしげ殿とよばれて、
中宮の妹君、四の君が、
上っていらっしゃる、
この方は中宮そっくりの美しい姫、
ということである

若宮の敦康親王の母代、
ということで面倒を見られるという

棟世からの手紙が、
久しぶりに届けられた

「どうしているのか
皇后崩御の知らせを聞いて、
すぐあなたのことを思ったが、
さまざまの法事や行事が引き続きあって、
忙しいことだろうと思い、
また服喪中はかえって、
わずらわしいことだろうと、
便りをしなかった

もし落ち着いたならば、
気をまぎらせに、
こちらへ来るといい

摂津の浜で、
珍しい海辺の風景を見て、
心をなぐさめるがよい

安良木も会いたがっている

舟旅をして、
須磨あたりで遊ぶのもよかろうし、
生田の社、御前の池、夷の宮、
逢坂、津の国の名所も多い

のんびりしたほうがよかろう
とにかく今は心身をいとうことだ」

私ははじめて、
静かに泣けた

今までの涙は、
躁狂と空虚感が交互に訪れて、
いらいらした涙であった
  
中宮の思い出と棟世

この二つが私の手に残った
もう私の余生はこれで充分だった

摂津へ旅立つ前に、
私は安良木の宮仕えを、
赤染衛門に手紙で頼んだ

彼女はその返事の中で、
私に長々しいお悔やみを、
いってくれたが、
それはこの心おだやかな、
教養ある彼女らしく、
真率なものだった

彼女は別として、
世間の女たちは、
私のことを一種の敵意と、
優越感でもって、

(そうれ、見ろ)

と思っているに違いないのだ

(あんなに男を男とも思わず、
誇りかに振る舞っていた女、
人もなげなる高慢ちきな女、
中宮が亡くなられれば、
それまでではないか、
見ろ、木から落ちた猿、
というところだ)

などと言い交わしているかもしれない
しかし、この赤染衛門は、

「私がいつか書く、
女手の史書にも、
きっとあなたのお名を、
とどめたく思います」

といってくれるのだ

彼女の夫は学者で、
資料がたくさんあるところから、
いつかは女の目から見た歴史を、
女の手で書きたい、
と彼女はいっていた

ふつうの女の、
はかない夢物語と違い、
彼女は著名な歌人であり、
実力もあり、
夫の理解にも恵まれ、
左大臣家(道長の君)の、
政治圏内に長くいて、
上流社会や宮廷内の空気も吸い、
その辺の事情は縫うほど知っている

きっと女でなければ書けない歴史を、
書き残すにちがいない

彼女は安良木のことは、
引き受けたといってくれた

彰子中宮は、
まだまだこれからのお方、
左大臣も、

「有為の人材があれば、
ぜひ礼を厚くして迎えるように」

といわれているという

「そういえば、
和泉守の道貞の夫人で、
まえの越前守大江雅致(まさむね)の娘、
あの人は少女時代から才媛の噂高く、
中宮の宮仕えをおすすめしようと、
思っておりましたところ、
この節は大変な噂で、
それどころではなくなって、
しまいました

お耳に入っているかも、
しれませんが、
夫ある身を忘れて、
あの人は弾正宮為尊(ためたか)さまと、
浮名を流していられるのですよ

夫の道貞からも、
父の雅致からも、
あの人は離縁勘当されたと聞きます

歌詠みとして、
当代きっての才媛ですもの、
色好みで噂高い為尊親王が、
いまあの人に夢中で、
とりこになっていられるのも、
わかる気がします

いつかはあの人にも、
中宮のおそばに仕えて頂くことに、
と期待しているのですが」

と赤染衛門はあくまで、
おだやかな筆づかいであった

為尊親王といえば、
冷泉院の第三皇子、
あの兼家大臣が愛された、
孫の君たちのお一人、
今の世で有名な美男でいられるが、
たしか二十三、四のお年、
和泉守道貞の妻は三十過ぎでいよう

私よりやや年下のはず

さまざまの世であるが、
私は彼女に好感を持った

おお、そういえば、
もう一つ安良木に頼まれていた、
ことがある

あの娘は「若紫」という物語が、
手に入ったら見せてほしい、
といっていた

かの物語を書くのを好む、
為時の娘の手になるものだそうな

彰子中宮と帝の物語、
というではないか

しかしその為時の娘が、
結婚した宣考はこの四月に、
あっけなくはやり病で死んでいる

あのおしゃれな伊達男も、
あっという間に死んでしまった

彼女は二歳の女の子を抱え、
寡婦になったという

彼女は夫の記憶をもとに、
何を書くのであろうか

「若紫」は、
どうしても手に入れることは、
できなかったけれど、
そのほかの物語、歌集のたぐいを、
唐櫃にいっぱい入れ、
それを土産に私は棟世のよこしてくれた、
迎えの者に守られて津の国へ下った

私にはこういう男のやさしさが、
いま必要だった






          


(次回へ)

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