「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

4、おしゃべり

2022年02月18日 08時57分02秒 | 田辺聖子・エッセー集










・自分の好もしい人とおしゃべりをするぐらい、
嬉しいことはないのである。

楽しいおしゃべりを聞く喜び、
自分の話を聞いてもらう嬉しさも格別である。

人の話を聞くのも難しいが、
自分がしゃべるのはもっと難しい。

相手が黙っているから、
といって得意になってしゃべることが私にもあるが、
相手が黙っているのは礼儀からであって、
内心、退屈しているかもしれない。

人が黙って聞いている時の怖さを、
人間はよく知らなければいけない。

あまりたどたどしい話しぶりだと興をそがれ、
あまりに巧みだと生気を失う。

素人の話は、その人の人生に密着していないと、
その人の体臭が出ない。

自分が本当に話したいこと、
感じたことを素直に話せば体臭は出てくる。

しかし、これは性質というのもあるので、
勉強して習得するのは難しい。

だから素直に話す才能に見放された人は、
聞く方にまわり素直に聞く才能を磨いた方がいい。

かつ「素直に聞く」ということは、
かなり上等な性質でないと出来ない。

ひねくれた人なら、すぐ話の腰を折ったり、鼻であしらったり、
途中で自分が話のお株を奪ったり、になるからである。

だから、いい聞き方をする人はいい話をする人よりも愛される。

ここで面白いのは、面白い話をすることが出来る人は、
「いい聞き手」になれない場合が間々あることだ。

人の話を聞いているうちに、自分の考えが変わり、
話相手の話の途中で話を横取りしてしまう。

これでみると、話を上手に出来る人は、
人の話を聞く耳を持たぬものらしい。

聞く才能と話す才能は別。

理想は、お互いにしゃべり、お互いに聞き合い、
その話が双方とも中身が濃くて、その人の体臭が匂っているのを、
お互い楽しむ、そういう時間が持てればどんなに嬉しいことだろう。


~~~


・ただ思うのに「自慢話」というのは聞いていてアクビが出る。
(結構ですね)という答えしか出て来ない。

つまらない話の一つに自慢の反対で、やたら卑下するもの、
「私など何をやってもダメだから・・・」
などと相手が返事出来ないような言葉をはさむ。

(その通り)とも言えないし、
(いいえ、そんなこと・・・)と打ち消すのもめんどくさい。

相手を当惑させるような話は退屈である。

人をほめる話もなぜか聞いても面白くないもの。
無理に調子を合わせて、「ほんとにそうですわ」
なんて一緒にほめているとおしゃべりは生彩を失う。

おしゃべりといっても、
心からの友人と近所づきあいの儀礼や仕事上の会話は全く質が違う。
その辺を見分けるのが大人。

ここでは心からの友人との会話について。
ステキなおしゃべりに、第三者をほめることは要らない。
これは自慢と同じで面白くない。

何といっても困るのは、タテマエばかりをしゃべる人。
新聞の社説みたいなことをしゃべって、
それについて自分がどう思うか、ということは言わない。

何でも新しいニュースを知っているが、
それについての自分の考えはなく、
ただ話を受け売りするだけの人。

自分の気持ちを素直に話す以上に、
自分の気持ちを持っていることがたいそう難しい。

家にいる女の人は「自分の気持ち」がなくとも暮らしていけるので、
ここが難しい。主婦ともなれば、身辺に係累も多くなり、
自分の気持ちを持つ人が多いはずである。

ところが、主婦の中には「主人が言うのですが・・・」というのが多い。
こちらは会ったこともない主人の意見なんか聞いていない。

あなたはどうなんです?と聞きたいのだ。
この頃は「息子がこう言うんですよ・・・」
「娘が言いますには・・・」という声も聞かれる。

こちらは若者の意見など聞こうとは思ってないのに、
本人は家族の意見を代用して済ませてしまう。

こういう人たちは、家族との会話だけで人生を満足して送り、
他人との間におしゃべりの楽しみを知らずに生涯を終えるのかもしれない。
それはそれでいい。人さまざまである。






          

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3、ハチャメチャについて | トップ | 5、コレクション »
最新の画像もっと見る

田辺聖子・エッセー集」カテゴリの最新記事