・「あほ」という語ほど大阪人の会話の中に頻出する言葉はない。
これは「あほ」であって「あほう」ではない。
あほう、と発音するときは、
媚態、または揶揄をこめた口吻のときである。
しかし、芥川龍之介の小説「ある阿呆の一生」は、
「アホウの一生」と重々しく読まないと、
「アホ」では「アホ坊ん」になってしまう。
ところで、阿呆は阿房宮、
かの秦の始皇帝が作った宮殿の名から出た、というが定説はない。
どうしてアホが馬鹿やまぬけを指す言葉になったか、
まだ不明である。
しかし、それでもって、では馬鹿と直訳できるかどうかというと、
これは違う。だからむつかしい。
東京の人に「あほやな、あんたは」とやらかすと、
大変なことになる。
「人をつかまえてあほとは何だ、この野郎、表へ出ろ!」
になり、血の雨が降りかねない。
東京の人はあほを馬鹿と直訳するからである。
大阪の「あほ」は「マイ、ディア・・」という感じで、
親愛をこめた、ぼんやりした雰囲気の言葉である。
会話の要所要所に入れる詰め物、
いわば言葉の発泡スチロールかもくめんか、
という別に他意はない。
・「ヒャー、あきれた!」とか、
「なんとまあ、要領のわるい」という意味をこめて、
「あほ!」「あほやなあ!」「あほかいな」「あほちゃう」
などと使う。
そこには侮蔑や叱責、嘲弄、憫笑はない。
だから大阪人は無雑作に頻発する。
もしそれ、本当に罵詈雑言として用いるときは、
「あほんだら!」などとつける。
更に、あまりの相手の迂愚に怒る気さえ失せて、
呆れるばかり、というときには、
「あほらし・・・」「あほくさ」などという。
だから東京弁の馬鹿とは同日に談じがたい。
「馬鹿」といわれるとまさに一刀両断、弁解の余地もなくなる。
まぬけ、とんま、と直訳しても容赦ない感じ。
「アホのサカタ」これも「バカのサカタ」では、
オール日本人の坂田姓の人が一揆を起すであろう。
いわば「あほやなあ」というときに使うのが最も適切。
だから、これらは大阪弁では、相手のおろかぶりを、
同じところで一緒に笑っているという感じである。
一段高いところから嘲弄しているのでは決してない。
美しい妙齢のお嬢さんもこの語をよく愛用される。
私は美しい女子大生に誘われて評判高い映画を見ようと出かけたら、
一日違いですでに替っていた。女子大生は、
「ヒャー、あほみたい・・・」とつぶやき、落胆していた。
また、せっせとラブレターを送ってくる男に女は、
「あほみたい・・・」
女に気がないのに、手紙を書いたりうるさくつきまとうと、
そう言われる。そうして結局、女にふられた、とわかった男は、
しみじみ、それまでのことをかえりみ、「あほくさ」とつぶやく。
「あほ」という語のひびきは、きわめてなめらかである。
「あ」と母音が口にのぼせやすいところへ、
ふにゃっと抜けた「ほ」が接続すると、
なんだかはぐらかされた感じ。
・大阪人の罵詈雑言として、接続して使うのに、
「あほ、すかたん」というのがある。
この「すかたん」は反対になる、過失を犯す、あてが外れる、
つまり「スカくらう」というスカに接続語の「たん」がくっついたもの。
宝くじに外れる、もくろみが挫折する、そういう時、
「スカくろた」というが「スカタン」は名詞になっていて、
「スカタンな奴ちゃ」と使う。
思うに、すかたんは、
イスカの嘴のくいちがい、という感じであるが、
そこから「することなすこと、ヘマばかりする奴」となり、
転じて「まぬけ、とんま」も意味するのであろう。
「アホは、その人間の持って生まれたものに対して、
スカタンは、人間ではどうすることも出来ぬ運命に翻弄される、
それを同情はするものの、やはり舌打ちせずにはおれぬ、
そういうもの」
不運な人間を見るとき、人はその不運に同情しながら、
それがあまりに重なると、その人を軽んずるくせがある。
「あほ」にしろ「すかたん」にしろ、
大阪弁のバリザンボウの言葉は、あたりがやわらかである。
悪くいうと、イキが抜けて間が抜けているようである。