・仕事も人生も、
本人がけんめいにやっているのだから、
人が何点つけようと平気である、
と居直ってしまった。
これは楽である。
千年ののちに知己を得ん、
という大芸術家の執念から解放されて、
死んだらすぐさま人が忘れてくれる、
という確信は気楽でたのしい。
そう思うと、仕事が楽しくて面白くなってくる。
熱中できる。
そこからして私は、
人の心を強いてはならない、と思う。
今の世の中、
どうしてこう強いる人が多いのだろう。
強いて人の心をためよう、
曲げようとするから、
いたるところ大衝突、小衝突の花火だらけ。
してまた、自分の心を押し付けたがる、
誇示したがる、ケンケンゴウゴウ。
私は以前、
仕事を持つ女で、家庭を持つ人が増えたと書いた。
つまり主婦の共かせぎ、というのではなくて、
自分の仕事を持ってる女が結婚しており、
夫と子がいる、という形になりつつあるというのだ。
つまりそれだけ、
女の仕事、女の社会進出がかたまって、
職業婦人が増え、中には着実な成果をあげている女性が増えた、
そのことを強調した。
それは、女は家庭にいて夫に仕え子育てに専念しろ、
という説に対してのべたのである。
こんにち、
主婦が生きがいがないといって嘆くのは、
一般的な風潮で、
家庭や家族を通して自分を表現するという、
昔ながらの女の生き方では物足らない人が増えたのである。
それは女の心がけが悪いのでも、
夫に甲斐性がないからでもなく、
そういう時代のいきおいというものである。
己を空しゅうして夫や子に尽くすという女のあり方と、
妻も人間であり、自我や主体性の持ち主であるという、
基本との断層が、現代に至ってはっきりしてきて、
この裂け目は広がるばかりであるから、
主婦が当惑するのも無理ないのである。
そう思いつつ、
やはり子供の世話、
家事経営に満足して世を終わる人と、
堪え切れず仕事を持って、
精神的独立をはかる人とある。
それは性格の向き向き、好き好きで、
どちらがえらいともいえない。
人間の値打ちや生き方に、
えらい、えらくない、というのは一切ない。
ただ好き好きなのだ。
それに理屈をつけるのはよろしくない。
好きだからやっている、
それでいい。
たとえば、職業を持つ主婦、
結局、働くのが好きなためか、
あるいは貯金とか借金返済とか、
よんどころない理由のため働いているのだろうから、
それを理屈で正当化するほどのものはないのである。
いわく、婦人の地位向上のため、とか、
自分の主体性確立のため、とか、
才能をみがくのは人間の義務、とか、
私はこういう理屈づけは困ると思う。
また一方では、
必ず専業主婦の反論が出る。
夫や子に尽くすのは女の任務ではないか。
女は選挙権なんか欲しくないのだ。
女は強い男に庇護されて、
つつましく家庭を作り営みたい。
子供を育てるのは母の大きな喜びであり義務である。
その大切な時期に、
家を外にするとは何ということだ。
そういう立派な理由がのべられる。
これも私の思うところ、
あとからくっつけた理屈である。
要するに専業主婦は家にいるのが好きだからだ。
自分が好きなようにすればいいのだ。
ただそれだからといって、
自分に理があり相手に非があると決めてはいけない。
それを実証するような理屈を並べるのは心が狭い。
好きでやりなさい、
としかいいようがない。
自分がそうだからといって、
それを何とか正当で高尚な理屈をつけるのは、
人間の常套であるから仕方ないかもしれない。
しかしそれをふりまわして、
他の人に適用しようと強いることは、
好ましいことではない。
不純なものを感ずる。
私の好きなのは、やさしい思いやり、
小さなかわいらしさ、そういう心である。
私は、私の望ましい心と心の結びつきの世界が、
小説の中にしかないかということをたえず考えている。
現実が現実だから、
いっそう、小説の中ででも、
信じたいと思わずにいられない。
(了)