むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

25、心をめぐる随想 ③

2022年06月11日 08時28分45秒 | 田辺聖子・エッセー集










・仕事も人生も、
本人がけんめいにやっているのだから、
人が何点つけようと平気である、
と居直ってしまった。

これは楽である。

千年ののちに知己を得ん、
という大芸術家の執念から解放されて、
死んだらすぐさま人が忘れてくれる、
という確信は気楽でたのしい。

そう思うと、仕事が楽しくて面白くなってくる。
熱中できる。

そこからして私は、
人の心を強いてはならない、と思う。

今の世の中、
どうしてこう強いる人が多いのだろう。

強いて人の心をためよう、
曲げようとするから、
いたるところ大衝突、小衝突の花火だらけ。

してまた、自分の心を押し付けたがる、
誇示したがる、ケンケンゴウゴウ。

私は以前、
仕事を持つ女で、家庭を持つ人が増えたと書いた。

つまり主婦の共かせぎ、というのではなくて、
自分の仕事を持ってる女が結婚しており、
夫と子がいる、という形になりつつあるというのだ。

つまりそれだけ、
女の仕事、女の社会進出がかたまって、
職業婦人が増え、中には着実な成果をあげている女性が増えた、
そのことを強調した。

それは、女は家庭にいて夫に仕え子育てに専念しろ、
という説に対してのべたのである。

こんにち、
主婦が生きがいがないといって嘆くのは、
一般的な風潮で、
家庭や家族を通して自分を表現するという、
昔ながらの女の生き方では物足らない人が増えたのである。

それは女の心がけが悪いのでも、
夫に甲斐性がないからでもなく、
そういう時代のいきおいというものである。

己を空しゅうして夫や子に尽くすという女のあり方と、
妻も人間であり、自我や主体性の持ち主であるという、
基本との断層が、現代に至ってはっきりしてきて、
この裂け目は広がるばかりであるから、
主婦が当惑するのも無理ないのである。

そう思いつつ、
やはり子供の世話、
家事経営に満足して世を終わる人と、
堪え切れず仕事を持って、
精神的独立をはかる人とある。

それは性格の向き向き、好き好きで、
どちらがえらいともいえない。

人間の値打ちや生き方に、
えらい、えらくない、というのは一切ない。
ただ好き好きなのだ。

それに理屈をつけるのはよろしくない。
好きだからやっている、
それでいい。

たとえば、職業を持つ主婦、
結局、働くのが好きなためか、
あるいは貯金とか借金返済とか、
よんどころない理由のため働いているのだろうから、
それを理屈で正当化するほどのものはないのである。

いわく、婦人の地位向上のため、とか、
自分の主体性確立のため、とか、
才能をみがくのは人間の義務、とか、
私はこういう理屈づけは困ると思う。

また一方では、
必ず専業主婦の反論が出る。

夫や子に尽くすのは女の任務ではないか。
女は選挙権なんか欲しくないのだ。
女は強い男に庇護されて、
つつましく家庭を作り営みたい。

子供を育てるのは母の大きな喜びであり義務である。
その大切な時期に、
家を外にするとは何ということだ。

そういう立派な理由がのべられる。

これも私の思うところ、
あとからくっつけた理屈である。

要するに専業主婦は家にいるのが好きだからだ。
自分が好きなようにすればいいのだ。

ただそれだからといって、
自分に理があり相手に非があると決めてはいけない。

それを実証するような理屈を並べるのは心が狭い。
好きでやりなさい、
としかいいようがない。

自分がそうだからといって、
それを何とか正当で高尚な理屈をつけるのは、
人間の常套であるから仕方ないかもしれない。

しかしそれをふりまわして、
他の人に適用しようと強いることは、
好ましいことではない。

不純なものを感ずる。
私の好きなのは、やさしい思いやり、
小さなかわいらしさ、そういう心である。

私は、私の望ましい心と心の結びつきの世界が、
小説の中にしかないかということをたえず考えている。

現実が現実だから、
いっそう、小説の中ででも、
信じたいと思わずにいられない。






          


(了)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 25、心をめぐる随想 ② | トップ | 26、愛と苦しみ »
最新の画像もっと見る

田辺聖子・エッセー集」カテゴリの最新記事