・人間と人間の生活が組み立てられてゆく、
一ばん大もとの要素は、
人間の心であってあたまではない。
私は自分の職業柄の守備範囲のせいで、
よけいそう思うのかもしれないが、
その心の世界は目に見えないだけに、
よけい大きいのである。
数字にして等級をあらわすことの出来ない心は、
それゆえこそ、おそれつつしむ大きな意味に満ちている。
幼児の母親たちが、
それをどうしておそれないのだろうか。
私は小説を書いているけれども、
私の書く小説は、社会派、正義派、時事解説派、歴史派、風俗派、
というものではなく、いわば落語派とでもいうべきたぐい。
ところがこれは心の小説にならざるを得ない。
何にもよりかかりになる資料がないのだから、
つまり、人間の心だけが素材である。
同じ書くならいやな心は書きたくないから、
楽しい心だけを書く。
すると落語になってしまうのだ。
あんまりむごい心やエゴな心がどうしても書けない。
書ける人を尊敬してしまう。
そういう心が書けないと、
本当にいい心ややさしい心が書き尽くせないからだ。
ただ私の場合、
私事になって恐縮ながら、家族は九人いる。
私は母と二人暮らしだったが、
結婚して九人の中へ入った。
まだこれでも減ったほうで、
来た当座は十一人だった。
夫の父が亡くなり、
夫の弟が独立して家を出た。
あと、夫の母と叔母と妹、
それに夫の先妻のあいだに出来た四人の子供である。
私の身内は誰もいないで、
オーバーにいうと敵中へ単身乗り込んだ感じ。
それでも何とか五、六年いるところをみると、
そしてその喧騒の中で仕事も続けて止めないところをみると、
私ってあんがい図太いのかなと思う。
その代わり、気を使ってしまう。
多人数の中で、人間関係に心を使うと、
けわしい心やエゴな心に敏感になり、
本能的に避けるようになってしまう。
それが小説に出てしまう。
その意味では、
家庭というものは、
こと芸術にとっては、
諸悪の根源である。
ことに女性の場合・・・
心、というものが、
やさしく、やわらかく、円滑なもの、
というイメージが最初にある以上、
悪い心というのは私にはどうも、
ちぐはぐな印象であるが、
言い方を変えると私にとっての心は、
思いやりと同義語である。
思いやりというのは、
私は教養だと思っている。
それは心のない人には持てない。
やさしい、やわらかい心の人でないと、
思いやりの能力がない。
それから、とらわれない、ということが、
心の大きな要素である。
人の心を通そうと思うと、
こっちの心をちょっとよけて通してあげなければいけない。
心というものは腰軽く動かなければいけない。
そして自分もまた、のびのびといっぱいに広がり、
野放図に大きくふくれることが出来なければいけない。
私は人生半ばにきて、
自分の値打ちがわかったからずいぶん気楽になった。
それは無能無才の私のこと故、
とらわれない心、というような高尚なものでなくて、
ただ、あきらめというようなものであるかもしれないが、
まあ、一生懸命やるだけである。
(次回へ)