むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

25、心をめぐる随想 ②

2022年06月10日 08時26分08秒 | 田辺聖子・エッセー集










・人間と人間の生活が組み立てられてゆく、
一ばん大もとの要素は、
人間の心であってあたまではない。

私は自分の職業柄の守備範囲のせいで、
よけいそう思うのかもしれないが、
その心の世界は目に見えないだけに、
よけい大きいのである。

数字にして等級をあらわすことの出来ない心は、
それゆえこそ、おそれつつしむ大きな意味に満ちている。

幼児の母親たちが、
それをどうしておそれないのだろうか。

私は小説を書いているけれども、
私の書く小説は、社会派、正義派、時事解説派、歴史派、風俗派、
というものではなく、いわば落語派とでもいうべきたぐい。

ところがこれは心の小説にならざるを得ない。
何にもよりかかりになる資料がないのだから、
つまり、人間の心だけが素材である。

同じ書くならいやな心は書きたくないから、
楽しい心だけを書く。
すると落語になってしまうのだ。

あんまりむごい心やエゴな心がどうしても書けない。
書ける人を尊敬してしまう。

そういう心が書けないと、
本当にいい心ややさしい心が書き尽くせないからだ。

ただ私の場合、
私事になって恐縮ながら、家族は九人いる。

私は母と二人暮らしだったが、
結婚して九人の中へ入った。

まだこれでも減ったほうで、
来た当座は十一人だった。

夫の父が亡くなり、
夫の弟が独立して家を出た。

あと、夫の母と叔母と妹、
それに夫の先妻のあいだに出来た四人の子供である。

私の身内は誰もいないで、
オーバーにいうと敵中へ単身乗り込んだ感じ。

それでも何とか五、六年いるところをみると、
そしてその喧騒の中で仕事も続けて止めないところをみると、
私ってあんがい図太いのかなと思う。

その代わり、気を使ってしまう。

多人数の中で、人間関係に心を使うと、
けわしい心やエゴな心に敏感になり、
本能的に避けるようになってしまう。
それが小説に出てしまう。

その意味では、
家庭というものは、
こと芸術にとっては、
諸悪の根源である。
ことに女性の場合・・・

心、というものが、
やさしく、やわらかく、円滑なもの、
というイメージが最初にある以上、
悪い心というのは私にはどうも、
ちぐはぐな印象であるが、
言い方を変えると私にとっての心は、
思いやりと同義語である。

思いやりというのは、
私は教養だと思っている。

それは心のない人には持てない。

やさしい、やわらかい心の人でないと、
思いやりの能力がない。

それから、とらわれない、ということが、
心の大きな要素である。

人の心を通そうと思うと、
こっちの心をちょっとよけて通してあげなければいけない。

心というものは腰軽く動かなければいけない。
そして自分もまた、のびのびといっぱいに広がり、
野放図に大きくふくれることが出来なければいけない。

私は人生半ばにきて、
自分の値打ちがわかったからずいぶん気楽になった。

それは無能無才の私のこと故、
とらわれない心、というような高尚なものでなくて、
ただ、あきらめというようなものであるかもしれないが、
まあ、一生懸命やるだけである。






          


(次回へ)

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