聖なる書物を読んで

現役JW29年目

偏見

2018-08-19 | ものみの塔
今日のものみの塔研究。

13節。
ヤコブとヨハネがサマリア人に憤慨したという話。

本文には、「だったかもしれません」「だったのでしょう」「思ったかもしれません」。

こんな言葉を羅列しといて、質問では、「なぜそう言えますか」と問う。

「かもしれないからです」とか、「だったのだと考えられるからです」とか、「思ったかもしれないと思われるからです」みたいな答えを述べるわけにもいかないから、結局、断定的な答え方になってしまうことになる。

可能性だったものが事実にされてしまう、という質問と答えのマジック。
組織はこうやって思考を誘導していくんだなと。


この話、偏見とはまったく無関係かもしれない、と考えることだってできる。

宿を断られたから憤慨しただけ「かもしれない」。
もしガリラヤ人だったらもっと憤慨した「かもしれない」。同郷なのに愛が無い!って。
それとも、同郷(兄弟姉妹)だったら許すべきだということを、暗に示したいのか・・

この時の状況は、イエスがエルサレム(ユダヤ人)に心を向けていた事が、サマリア人が断った原因だったわけで、つまり、サマリア人がユダヤ人に反感と嫉妬みたいな感情を抱いていたことが原因だったわけで。
だから、後に良い反応が見られた時には、ヤコブとヨハネは、恥ずかしさではなく、喜びに満たされた「かもしれない」わけで。

で、この話の教訓としては、イエスとその弟子を迎えない所からは足の塵を振り払って出ること、であって、ヤコブとヨハネが偏見を抱いていたかどうかなんて関係ない話だと思う。