今週の聖書朗読の範囲から、イエスの裁判と処刑、死まで。
並行記述は、マタイ27章、マルコ15章、ヨハネ18章後半~19章。
ルカだけが記している点として。
●ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったこと。
●イエスがゴルゴタへ引かれて行くときに、付いてきた女たちに語ったこと。
●杭に付けられるときにイエスが言われたこと。
●共に杭に付けられた二人の悪行者とのやり取り。
●息を引き取られる前にイエスが大声で言った言葉。
3番目について。
ルカだけが「父よ、彼ら(ローマ兵たち)をお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」というイエスの言葉を書いている。
ルカはパウロと行動を共にしていたから、異邦人(テオフィロ様も含め)に対しての気遣いもあったのかなと思う。
ステファノが石打ちにされた時に「この罪を彼らに負わせないでください」と言ったことも、ルカは書いてる。この時の相手はサンヘドリン(ユダヤ人)だったけど、ステファノの捕縛の原因となったのは、異邦人とのやりとりだったようだし。
4番目について。
問題の聖句は43節。「今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」
「今日」という語が「言う」にかかるか「いる」にかかるか。教義では「言う」の方。つまり「今日言います」。でも自分は「いる」の方だと思う。つまり「今日パラダイスにいる」(こう訳している聖書も多い)。
だって、目が覚めたら(復活したら)パラダイスなんだから。
もひとつ。
イエスの右と左に杭に付けられた悪行者のことが象徴的だなと思ったこと。
全人類が羊とヤギに、イエスの右と左に分けられること。この悪行者二人は全人類の象徴かなと。死に面して、神への恐れを持ち悔い改めてイエスに信仰を表した者と、全く神を恐れずイエスをあしざまにいう者と。起きた出来事を見て、意味を悟る者と悟らない者と。(エリ、エリ・・・・というイエスの言葉は詩編22編の出だしの言葉。この詩編を知っていれば、イエスが予言を成就するメシアであることが分かったはず)
神から見れば、罪のうちに死にゆく人間はみなこの悪行者たちと同じ。そうであれば、大事なのは、バプテスマを受けていわゆる献身の生活を送ることではなく(そうするのも信仰心からであるなら良いことかもしれないけど)、神を恐れ悔い改めてイエスに信仰をもつこと、ただそれだけなのかもしれない。その心からの信仰心があることが一番大事なんだろうなと思う。
5番目について。
ルカは「父よ、わたしの霊をみ手に託します」と書いている。
マタイとマルコは大声で叫んだことは書いているけど、内容は書いていない。
ヨハネは「成し遂げられた」と書いている。
並行記述は、マタイ27章、マルコ15章、ヨハネ18章後半~19章。
ルカだけが記している点として。
●ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったこと。
●イエスがゴルゴタへ引かれて行くときに、付いてきた女たちに語ったこと。
●杭に付けられるときにイエスが言われたこと。
●共に杭に付けられた二人の悪行者とのやり取り。
●息を引き取られる前にイエスが大声で言った言葉。
3番目について。
ルカだけが「父よ、彼ら(ローマ兵たち)をお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」というイエスの言葉を書いている。
ルカはパウロと行動を共にしていたから、異邦人(テオフィロ様も含め)に対しての気遣いもあったのかなと思う。
ステファノが石打ちにされた時に「この罪を彼らに負わせないでください」と言ったことも、ルカは書いてる。この時の相手はサンヘドリン(ユダヤ人)だったけど、ステファノの捕縛の原因となったのは、異邦人とのやりとりだったようだし。
4番目について。
問題の聖句は43節。「今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」
「今日」という語が「言う」にかかるか「いる」にかかるか。教義では「言う」の方。つまり「今日言います」。でも自分は「いる」の方だと思う。つまり「今日パラダイスにいる」(こう訳している聖書も多い)。
だって、目が覚めたら(復活したら)パラダイスなんだから。
もひとつ。
イエスの右と左に杭に付けられた悪行者のことが象徴的だなと思ったこと。
全人類が羊とヤギに、イエスの右と左に分けられること。この悪行者二人は全人類の象徴かなと。死に面して、神への恐れを持ち悔い改めてイエスに信仰を表した者と、全く神を恐れずイエスをあしざまにいう者と。起きた出来事を見て、意味を悟る者と悟らない者と。(エリ、エリ・・・・というイエスの言葉は詩編22編の出だしの言葉。この詩編を知っていれば、イエスが予言を成就するメシアであることが分かったはず)
神から見れば、罪のうちに死にゆく人間はみなこの悪行者たちと同じ。そうであれば、大事なのは、バプテスマを受けていわゆる献身の生活を送ることではなく(そうするのも信仰心からであるなら良いことかもしれないけど)、神を恐れ悔い改めてイエスに信仰をもつこと、ただそれだけなのかもしれない。その心からの信仰心があることが一番大事なんだろうなと思う。
5番目について。
ルカは「父よ、わたしの霊をみ手に託します」と書いている。
マタイとマルコは大声で叫んだことは書いているけど、内容は書いていない。
ヨハネは「成し遂げられた」と書いている。