聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ7章

2018-09-24 | 聖書
1節。
「イエスは引き続きガリラヤの各地を回られた。ユダヤを回ることを望まれなかったのである。ユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたからである。」

6章4節に書かれてる過ぎ越し(32年)に、イエスは目立たないようにエルサレムまで行かれ、すぐにガリラヤに戻って来られただろうと、ものみの塔では解釈してる。でも、この流れで1節を読む限り、行かなかった可能性もあると思う。他の3福音書も、この年の過ぎ越しの事は何も書いていない。
だとすると、イエスは律法よりもご自分の命を優先(それがご自分に対する神のご意志だったから)されたことになる。

そして、秋になり幕屋の祭りが近づく。

3,4節。
「兄弟たちは彼にこう言った。『・・ユダヤに入りなさい。・・自分を世に明らかにしなさい』」

兄弟たちはイエスに信仰を持っていたわけではなく、イエスの行なう奇跡を見て、こんな田舎じゃなくて中心地である大都市エルサレムに行って、世にアピールして有名になってくれ、って感じなのかなw。
それに対してイエスは、世はわたしのことを憎む、その業が邪悪なことを証するから、と答えられる。
善行が受け入れられず、かえって憎まれるって、あるよね。

17節。
「だれでもこの方(神)のご意志を行ないたいと願うなら、この教えについて、それが神からのものか、それともわたしが独自の考えで話しているのかが分かる」

つまり、神のご意志を行ないたいと願うなら、神の教えを見分けられる、とイエスは語っておられる。
当時のイスラエルでは、律法(神のご意志)を守りたいと願うなら、イエスの教えが神からのものだと分かったってことかな。殺人のこととか安息日のこととか・・あと、犠牲のことも(イエスの贖いの犠牲が必要だっていう)。
今日でも、神のご意志を行ないたいと願うなら、本当の教えを見分けられるのかな。

37節。
「最後の日、祭りの大いなる日に、イエスは・・叫んでこう言われた。『だれでも乾いている人がいるなら、わたしのところに来て飲みなさい。・・」

幕屋の祭りの間、毎日シロアムの池から祭司が水を汲んできて祭壇に流すという儀式が行われていた。(最終日には行われなかった)幕屋の祭りは、水の無い荒野での天幕生活を思い出させるものだった。(霊的岩塊として霊的水を供給されるイエス)この時にこの内容を話したイエスはさすがです。キャッチー&ベスト。

52節。
「・・預言者はガリラヤからは起こらないことを調べてみなさい」

ヨナはガリラヤ出身。イザヤも9章1,2節でガリラヤで輝く光を預言してる。分かっててガリラヤをバカにして言ったのか、分かってなかったのか。・・・自分たちが聖書なんだなぁと。