聖なる書物を読んで

現役JW29年目

コリント人への第一の手紙7章(追記あり)

2019-04-01 | 聖書
パウロが男尊女卑で、極端に性的禁欲主義者だったことが特によく分かる章。
でも、聖なる書物にこんなこと書いてある訳がない、聖人パウロ様がこんなこと言う訳ない、という前提のもとに様々な解釈や改ざんが過去にも行なわれてきたようだ。
でもって、新世界訳ではもとのパウロの言葉とは全く意味が異なる訳になってしまっている。

7章。

1節。直訳は「人間にとっては、女に触れない方がよい」。
パウロの中では人間=男(新世界訳も「男」と訳している)。無意識に性差別的言葉遣いが出てしまっている。

2節。新世界訳「淫行がはびこっていますから」。
他の訳では「不品行に陥ることのないために」「みだらな行いを避けるために」「淫行を避けるために」など。
(「はびこってる」って・・・・なんじゃそれ)

3節。新世界訳「当然受けるべきものを与えなさい」。
他の訳では「その分を果たすべきである」「その務めを果たしなさい」「義務を果たすがよい」など。
パウロは性行為を夫婦間の義務とみなしているだけ。

5節。新世界訳「互いにそれを奪うことがないようにしなさい」。
他の訳では「互いに拒んではいけない」「互いに相手を拒んではならない」など。

5~7節。本当はみんながパウロのように一生独身で性的禁欲を貫くのが望ましいけど、神からの賜物がそれぞれなので、パウロのような禁欲能力の賜物を持っていない人は、無理に禁欲するとかえってサタンに誘惑されるので、結婚して夫婦の性生活を保ちなさいよ、それでも時々は中断して祈りに専念しなさいよ、というパウロの意見。

10,12節。「わたしの指示」と「主の指示」にこだわっている。
コリントの信者が、パウロの自分勝手な主張をイエスの命令だとすることに疑問を持って質問してきた、ということが分かる部分。パウロは、わたしの指示と主の指示を区別することで、切り抜けようとしている。

12,13節。新世界訳「ある兄弟に信者でない妻がいて・・・信者でない夫のいる女・・・」。
男の信者を「兄弟」、女の信者は姉妹ではなく「女」。15節では兄弟姉妹とあるのに、ちょっとしたところで男尊女卑が出ちゃうパウロ。
(でもまぁ、そうした考え方を克服しようと努力してたのかな、なんて良い方に捉えてみたり)

16,17節。たとえ夫婦であっても自分が相手(配偶者)を救えるわけはない。もしも他を救うなどという、おこがましいことができないのであれば、おとなしく自分の分を守っていなさい、ということ。相手を改宗させようと強引に引き留めて、平和を失うようなことをせずに。
(あらら・・救える=信者になるかもしれないから離婚しないで頑張りなさい~ってことだと思ってた。そんな風に教えられたよね)

21節。新世界訳「自由になることもできるなら、むしろその機会をとらえなさい」。
他の訳「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」「たとえ自由になりえても、奴隷状態を利用なさい」など。

パウロが奴隷制を擁護しているとして有名な箇所。聖人パウロがそれでは困るので、反対の意味に訳す動きもあった。口語訳「自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」。新世界訳もこちら。でもここは「たとえ・・・であっても、そうするな」の逆接文(「もし・・・であったら」ではない)。さらに「むしろ」と念押ししている。加えて17節以降パウロは「自分が神によって招かれた時の状態にとどまれ」と言い続けている。ここだけ反対の意味ではありえない。
(パウロはきっと22、23節「奴隷の時に召された人は主の自由民、自由な人の時に召された人はキリストの奴隷、代価をもって買われた、人間の奴隷になるな」新世界訳より)をかっこよく決めたかったから、こんなこと言っちゃったのかもしれないなぁ、なんて思ったりも)


(以下追記です)

25節。新世界訳「忠実であるよう主から憐みを示された者として」。
他の訳「主のあわれみにより信任を受けている者として」「主に恵まれて信実であるようにされた者として」など。

パウロは、自分はキリストの代行者という神からの特別の恵みを受けている、自分は神と同等の特質(信実)を持っているのだから、私の意見は神の意見だと思え、と言っている。
(これは私の意見だよ、って言えばいいだけの事なのに、上から目線で命令したいんだね)

26節。新世界訳「現状による必要性を考慮して・・・今あるままでいるのがよい」。
他の訳「今危機が迫っている状態にあるので・・・現状にとどまっているのがよい」「現在の逼迫した状態の故に・・・そのようにあるのはよい」など。

パウロは終末のことを考えている。その重要な審判の時を目前にしているのだから、童貞であるのは良いことだ、と言っている。でも新世界訳だと、コリント会衆の現在の必要を考慮して、と受け取れる上に、童貞であるのは良いことだと2回も繰り返されてるのが、今あるままでいる(童貞なら童貞で、結婚してるなら結婚したままで、みたいな)のがよいこと、の意味に受け取れるようになっちゃってる。ダメじゃん。

27節。新世界訳「妻につながれている・・・妻から解かれている・・」。
他の訳「妻に結ばれている・・・妻と結ばれていない・・」「女に縛られている・・・女から解放されている・・」

ヨーロッパの諸語は「妻」と「女」(「夫」と「男」)を区別しない。ここは実質的には妻の意味。パウロにとって、結婚しているとは「女に縛られている」ことであり、結婚していないとは「女に煩わされず解放されている」ということ。
(パウロ、屈折してるなぁ・・・)。

28節。たぶん前書簡で、信者は結婚しないのがよい、結婚なんて誘惑に負けて罪を犯すも同然だ、とでも主張したのかも。で、コリント信者からの反撃にあって、ここでは少し譲歩して、結婚そのものが罪だとは言ってない、みたいに言い訳してるw?

新世界訳「自分の肉身に患難を招くでしょう」。田川訳「肉体に苦悩を持つことになろう」。

パウロがここで言っているのは、性行為など経験しなければ性的欲望はまだ我慢しやすいが、結婚してそういうことをしていると性的欲望の火が燃え盛って困ったことになるよ、ということ。性的欲望を持つことがパウロにとっては苦悩だったので、どうやってその苦悩から解放されるかが関心事であって、家計の心配とか口うるさい妻がいたら大変だとか言ってるわけじゃない。

新世界訳「あなた方がそれに遭わないですむようにしているのです」。田川訳「あなた方に遠慮してあげているのである」。

パウロはここの動詞を、人を表す語を属格に置いて「遠慮する」「相手に譲歩する」の趣旨で用いている。つまり、あなた方に遠慮して自説を主張しないでおく、と恩着せがましく言っている。

30節。新世界訳「買う者は所有していない者のように」。
常に貧しい者の方に眼が行くイエスと、こうした事柄を列挙するのに「買う者」にしか頭が行かないパウロ。

32~34節。新世界訳「是認を得る」×3。他の訳「喜ばれる」「喜んでもらう」×3など。
(是認を得るって・・・カタイなぁ・・・感情がないなぁ・・・)

36節。新世界訳「しかし、人が自分の童貞性にふさわしくない振る舞いをしていると考え、若さの盛りを過ぎており、しかもそれが当然の道であれば、その人は自分の望むことを行ないなさい」。

口語訳「もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい」
新共同訳「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を制御できないと思うなら、思いどおりにしなさい」。
田川訳「もしも誰かが自分の処女に対してさまにならないことをしていると思うのなら、彼女がすでに十分に成熟しており、かつそうするべきであるのならば、その欲することをなすがよい」。

訳によって全然違う。少なくとも、新世界訳のように、自分自身の童貞性のことを言ってるんじゃなさそう。
当時、自分の娘(もしくは婚約者の少女)が適齢期になったのに、結婚させない(しない)ぞと頑張るとしたら、それは正しくない(さまにならない)と世間から言われる、つまりここは、「彼女が十分に成熟しているのに結婚しないでいるのは正しくない、と思うなら結婚すればいい」と言っている。「正しくない」と言えば済むのに、「さまにならない」という屈折した語を用いたので、様々に解釈されてしまった。
十分に成熟している(単語の意味は「頂点に達している」)=結婚適齢期、ということだから、彼女だけでなく自分(男性)がとも考えられる。新世界訳のように、若さの盛りを過ぎており、なんてことは言ってない。

37節。新世界訳「童貞性を守ろう」。

口語訳「相手のおとめをそのままにしておこう」。
新共同訳「相手の娘をそのままにしておこう」。
田川訳「自分の処女を守っておこう」。

つまり結婚相手を処女のままに保つ、ということ。それをりっぱな行動だと言うパウロ・・・。

38節。新世界訳「結婚して自分の童貞性を離れる」。

口語訳「相手のおとめと結婚する」。
新共同訳「相手の娘と結婚する」。
田川訳「自分の処女と結婚する」。

36~38節の新世界訳は、ぜんぜん意味が違うんだけど・・・いいのか?これで。「自分の童貞性」っていう訳が間違った解釈を生んじゃったんだろうなぁ・・・しかもこれらの聖句に、若者信者たちは随分振り回されてるよねぇ・・・組織の罪は大きいぞ。

39節。こういう時に女の側だけ言うパウロ。男尊女卑が無意識に出てる。

新世界訳「ただし主にある者とだけです」。(「者と」は補足)

原語は「ただし主にあって」。ただし結婚相手はクリスチャンに限る、という解釈が多い。でもパウロの「主にあって」という表現は、クリスチャン的、キリスト教的、という広い意味なので、再婚する場合も彼女自身はクリスチャンとして振る舞いなさい、という解釈もできる。(この聖句にも、信者は振り回されてるよね。恋愛もできなかったり、特権はく奪されたり・・・)

40節。新世界訳「自分も神の霊を持っていると確かに考えている」。

イエスの教えではなく、自分の偏った意見を主張してるという自覚があったパウロが、言い訳してるw。


以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~