12章からは霊の賜物の話で、13章に愛の定義を挟んで、14章へと続く。
13章は、パウロの言葉使い(単語や構文)や考え方とは異なった表現が多い上に、霊の賜物に関して論じている間に強引に割って入っているように見えるので、後世の挿入なのでは、とか、パウロの別の時の文章が紛れ込んだのでは、とか言われているらしい。(ただパウロは、突如として話があっちに飛んだり戻ったりと一貫しない書き方をする人でもある)
12章。
23~25節。新世界訳「また、体の中でほかより誉れが少ないと思える部分、これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に他より豊かな麗しさが添えられ、一方、麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても、神が体を組み立てたのであり、欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて、体に分裂がないように、その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました」。
田川訳「また身体の中の無価値と思えるところに、我々はむしろますます価値を付与する。そして我々の中の格好悪い部分が実はより良い姿を持っている。格好の良い部分はわざわざそうする必要はない。神はより劣っている部分に価値を与えて、身体を一体化させたのである。それは身体の中で分裂が生じたりせず、肢体がそれぞれお互いのために同じように配慮するためである」。
「無価値、価値」がこの語の基本の意味。抽象的な意味で「誉れ」とも訳されるが、それで通じるのだからそのまま訳すのが良いと思う。
「格好悪い部分が実はより良い姿を持っている」が直訳。パウロは、一見「格好悪い」と思えるものこそ本当はみずから「良い姿」を持っている、と言っている。格好悪い人たちがそのままじゃかわいそうだから誉めてあげましょう、ってことではない。
「一体化させる」の原語の動詞は「まぜる、こねる」の意。「ともに」という接頭語が付いて強調されている。直訳は「まぜあわせる」。それぞれ別の要素を「組み立てる」のではなく、全体が分離せず一つに融合するように「まぜあわせる」動作。
パウロの、信者に対するこういう見方はとってもいいなぁと思う。
どの賜物も神から価値が与えられてるのだから優劣なんて無く大切なんだ、それぞれの賜物を出し合って協力し合いなさい、というね。
ところが、最後の31節で「より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい」って言っちゃうんだよね。
この一言で、それまでの良い話がけしとんじゃった。結局優劣つけるんかい、って。パウロは良いこと言ったつもりなんだろうけど。
13章。
4~8節。愛の定義。訳によっていろいろ違うなぁ、と。特に気になっていた一か所だけ。
7節。新世界訳「すべての事を忍耐します」。
すぐ前に「すべての事に耐え」とあるのにまた忍耐が出てくる、愛はなんと耐えることが好きなんだろう(ドMか)、と思ってたけど、ここは「人様を先にたてる、お先にどうぞどうぞ、という態度」。田川訳では「すべてゆずる」。(まぁ・・ドMであることに変わりはないか)
今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~
13章は、パウロの言葉使い(単語や構文)や考え方とは異なった表現が多い上に、霊の賜物に関して論じている間に強引に割って入っているように見えるので、後世の挿入なのでは、とか、パウロの別の時の文章が紛れ込んだのでは、とか言われているらしい。(ただパウロは、突如として話があっちに飛んだり戻ったりと一貫しない書き方をする人でもある)
12章。
23~25節。新世界訳「また、体の中でほかより誉れが少ないと思える部分、これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に他より豊かな麗しさが添えられ、一方、麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても、神が体を組み立てたのであり、欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて、体に分裂がないように、その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました」。
田川訳「また身体の中の無価値と思えるところに、我々はむしろますます価値を付与する。そして我々の中の格好悪い部分が実はより良い姿を持っている。格好の良い部分はわざわざそうする必要はない。神はより劣っている部分に価値を与えて、身体を一体化させたのである。それは身体の中で分裂が生じたりせず、肢体がそれぞれお互いのために同じように配慮するためである」。
「無価値、価値」がこの語の基本の意味。抽象的な意味で「誉れ」とも訳されるが、それで通じるのだからそのまま訳すのが良いと思う。
「格好悪い部分が実はより良い姿を持っている」が直訳。パウロは、一見「格好悪い」と思えるものこそ本当はみずから「良い姿」を持っている、と言っている。格好悪い人たちがそのままじゃかわいそうだから誉めてあげましょう、ってことではない。
「一体化させる」の原語の動詞は「まぜる、こねる」の意。「ともに」という接頭語が付いて強調されている。直訳は「まぜあわせる」。それぞれ別の要素を「組み立てる」のではなく、全体が分離せず一つに融合するように「まぜあわせる」動作。
パウロの、信者に対するこういう見方はとってもいいなぁと思う。
どの賜物も神から価値が与えられてるのだから優劣なんて無く大切なんだ、それぞれの賜物を出し合って協力し合いなさい、というね。
ところが、最後の31節で「より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい」って言っちゃうんだよね。
この一言で、それまでの良い話がけしとんじゃった。結局優劣つけるんかい、って。パウロは良いこと言ったつもりなんだろうけど。
13章。
4~8節。愛の定義。訳によっていろいろ違うなぁ、と。特に気になっていた一か所だけ。
7節。新世界訳「すべての事を忍耐します」。
すぐ前に「すべての事に耐え」とあるのにまた忍耐が出てくる、愛はなんと耐えることが好きなんだろう(ドMか)、と思ってたけど、ここは「人様を先にたてる、お先にどうぞどうぞ、という態度」。田川訳では「すべてゆずる」。(まぁ・・ドMであることに変わりはないか)
今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~