8章。(聖句は新世界訳より)
偶像にささげられた肉についての、コリント信者からの質問に答えるパウロ。
たぶん前書簡で、そういう肉は食べるな、と主張していたのだろう。でもコリント信者から、偶像は無きに等しいものなのだから、そういう肉を食べたところで汚れるわけじゃないだろう、なぜ食べたらだめなのか? と質問してきたと思われる。(市場で売られている肉は、ほぼそういう肉だった)
パウロは答える前にまず、「知識は人を思い上がらせる。知識を習得したと考える人はまだ、知るべきほどにも知っていない。知識より愛だ」と言う。(やなかんじ。問題をはぐらかしてる上に、相手を下に見てるよね。お前らはオレから知識を受けたんだぞ、オレを批判できる立場じゃねーだろ、みたいなw)
コリント信者の知識は正しい(パウロも分かってる。自分が教えたんだから。4節)から、実際はそういう肉を食べたところで問題はないのだけど、パウロとしてはなんとかして、そういう肉を食べるのは良くないことだという主張を通したい(ユダヤ教的精神が残ってる)から、良心の弱い人に配慮しなさい(愛を示しなさい)という話に持っていく。(コスイね)
弱い人の良心が築き上げられてそういう肉を食べるようになったとしても、実際は一向に構わないわけで。(偶像の神殿で食事の席に着いて食事したって構わないってこと)
その人は知識を得て強くなるわけだし、その知識は正しいのだから破滅することもないしね。(つまりパウロは、自分の言ってることが論理的に破たんしてることに気付いてないw)
パウロが言うように、知識より愛を示して兄弟姉妹をつまづかせないように、っていうのは良いことなのかもしれないけど・・・なんかこう・・・すっきりしないんだよね。
まぁ、パウロはカッコつけて言ってるだけなんだろうけど。(説教がお上手~)
9章。(聖句は新世界訳より)
口調が変わって、パウロは自分が使徒であることの弁明に入る。8章の続きは10章に飛ぶ。
コリント信者にエルサレム会衆への多額の献金を募ったこと、それに対してコリント信者が疑問を持ってること、などもパウロの念頭にあったんだろうな。
パウロは宣教者として、当然受けるべき報酬(金銭的援助)を自分は受けなかったんだと、くどくどくどくどくどくど。
あまりにそのことに拘っちゃってるもんだから、「そうする(報酬を受ける)くらいなら死んだ方がましだ、これが自分の誇りなんだ、良いたよりの宣明は必要が課せられている(義務)のであって誇りではない、宣明しないのは災いなんだ、自分から進んでやってるんじゃなくて神の家令の仕事が託されてるんじゃい、報酬受け取らないのが報酬じゃい」、みたいな話になっていくという。
で、自分がどれほど頑張ってきたかを自慢する。「より多くの人を勝ち得るためにすべての人の奴隷になったのだ、良いたよりのために何でもするんだ」と。そしてそれは、自分が福音の側の存在になる(新世界訳は「分かち合う」となってるけど、この動詞は「そちらの側に加わる」の意)ためだと。
でもって、コリント信者を励まそうと思ったんだろうけど、「ただ一人だけが賞を受ける」競争に例えてしまうという失敗をする。(あるいはパウロは、自分一人だけが賞を得ているんだとでも言いたいとか・・・?まさかね)
最後の部分だけ比較。
26,27節。新世界訳「わたしの走り方は目標の不確かなものではありません。わたしの打撃の仕方は空を打つようなものではありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」
口語訳「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」
新共同訳「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」
田川訳「私は曖昧ではない仕方で走る。空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる。他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである」
「失格者」と訳されてる語は、「本物であることが検証され証明された者(合格者)」という語に否定の接頭語をつけた形容詞。パウロがこの語を用いて、お前は合格者(11:19)だのなんだのと言うもんだから、パウロの語っているキリストが本物かどうか証明してくれ、とコリント信者から言われることになる。
新世界訳がいかに原文のイメージと異なってるかが分かるんじゃないかと。
パウロは結局、自分の事しか考えていないんだよね・・・コリント信者のこと気遣ってるようで。
以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~
偶像にささげられた肉についての、コリント信者からの質問に答えるパウロ。
たぶん前書簡で、そういう肉は食べるな、と主張していたのだろう。でもコリント信者から、偶像は無きに等しいものなのだから、そういう肉を食べたところで汚れるわけじゃないだろう、なぜ食べたらだめなのか? と質問してきたと思われる。(市場で売られている肉は、ほぼそういう肉だった)
パウロは答える前にまず、「知識は人を思い上がらせる。知識を習得したと考える人はまだ、知るべきほどにも知っていない。知識より愛だ」と言う。(やなかんじ。問題をはぐらかしてる上に、相手を下に見てるよね。お前らはオレから知識を受けたんだぞ、オレを批判できる立場じゃねーだろ、みたいなw)
コリント信者の知識は正しい(パウロも分かってる。自分が教えたんだから。4節)から、実際はそういう肉を食べたところで問題はないのだけど、パウロとしてはなんとかして、そういう肉を食べるのは良くないことだという主張を通したい(ユダヤ教的精神が残ってる)から、良心の弱い人に配慮しなさい(愛を示しなさい)という話に持っていく。(コスイね)
弱い人の良心が築き上げられてそういう肉を食べるようになったとしても、実際は一向に構わないわけで。(偶像の神殿で食事の席に着いて食事したって構わないってこと)
その人は知識を得て強くなるわけだし、その知識は正しいのだから破滅することもないしね。(つまりパウロは、自分の言ってることが論理的に破たんしてることに気付いてないw)
パウロが言うように、知識より愛を示して兄弟姉妹をつまづかせないように、っていうのは良いことなのかもしれないけど・・・なんかこう・・・すっきりしないんだよね。
まぁ、パウロはカッコつけて言ってるだけなんだろうけど。(説教がお上手~)
9章。(聖句は新世界訳より)
口調が変わって、パウロは自分が使徒であることの弁明に入る。8章の続きは10章に飛ぶ。
コリント信者にエルサレム会衆への多額の献金を募ったこと、それに対してコリント信者が疑問を持ってること、などもパウロの念頭にあったんだろうな。
パウロは宣教者として、当然受けるべき報酬(金銭的援助)を自分は受けなかったんだと、くどくどくどくどくどくど。
あまりにそのことに拘っちゃってるもんだから、「そうする(報酬を受ける)くらいなら死んだ方がましだ、これが自分の誇りなんだ、良いたよりの宣明は必要が課せられている(義務)のであって誇りではない、宣明しないのは災いなんだ、自分から進んでやってるんじゃなくて神の家令の仕事が託されてるんじゃい、報酬受け取らないのが報酬じゃい」、みたいな話になっていくという。
で、自分がどれほど頑張ってきたかを自慢する。「より多くの人を勝ち得るためにすべての人の奴隷になったのだ、良いたよりのために何でもするんだ」と。そしてそれは、自分が福音の側の存在になる(新世界訳は「分かち合う」となってるけど、この動詞は「そちらの側に加わる」の意)ためだと。
でもって、コリント信者を励まそうと思ったんだろうけど、「ただ一人だけが賞を受ける」競争に例えてしまうという失敗をする。(あるいはパウロは、自分一人だけが賞を得ているんだとでも言いたいとか・・・?まさかね)
最後の部分だけ比較。
26,27節。新世界訳「わたしの走り方は目標の不確かなものではありません。わたしの打撃の仕方は空を打つようなものではありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」
口語訳「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」
新共同訳「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」
田川訳「私は曖昧ではない仕方で走る。空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる。他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである」
「失格者」と訳されてる語は、「本物であることが検証され証明された者(合格者)」という語に否定の接頭語をつけた形容詞。パウロがこの語を用いて、お前は合格者(11:19)だのなんだのと言うもんだから、パウロの語っているキリストが本物かどうか証明してくれ、とコリント信者から言われることになる。
新世界訳がいかに原文のイメージと異なってるかが分かるんじゃないかと。
パウロは結局、自分の事しか考えていないんだよね・・・コリント信者のこと気遣ってるようで。
以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~