聖なる書物を読んで

現役JW29年目

コリント人への第一の手紙10,11章

2019-04-10 | 聖書
10章。

4節。新世界訳「自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだ」。

水を出す岩が荒野を放浪する民に付いて来てくれた、というのはラビの律法解釈の中に見られる。

1~4節。パウロは出エジプトの奇跡の物語をアレゴリー化している。当時すでにキリスト教において重要な式典となっていた洗礼と聖餐にあわせて、霊的なものとして。(旧約の出来事を予型とし、新約の出来事を対型とする考え方。それをさらに現代に当てはめようとして失敗しちゃったのがこの組織。さらなる対型なんてあるわけないよねぇ・・・聖書は完成してるし、1世紀のクリスチャンに倣ってるんだからw)
パウロは、自分たちキリスト教徒を、イスラエルと同様に神に選ばれた民であるとして、ユダヤ教徒であった時と同様の選民意識を抱いていた(組織はこれに倣ってる)。イエスはそういう二分論的考えを退けたのに・・・

8節。「二万三千人」。

民数記には数字がいっぱい出て来るんだから、パウロの記憶違いっていうのが一番可能性が高い。(次の章の26:62にはレビの男子の数が二万三千人とある)
聖パウロ様に、聖書に間違いがあるはずない、っていう立場で考えるから、これは概算だの、頭たちの数が入ってないだのと、無理な屁理屈こねなきゃならなくなるw。

11節。新世界訳「わたしたちに対する警告のためです」。

「警告」と訳されている原語の意味は、理性(知性)に置くこと、つまり理性的に正しく考えること。テサロニケ①5:12,14で「訓戒する」と訳されてる語の名詞形。「警告」と訳すのはキツ過ぎる。「諭すため」とか「考えを正すため」といった感じ。
「事物の体制の終わり」だからって「警告」にすることないのにね。脅したいんだねぇ・・・。

13節。新世界訳「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。
田川訳「あなた方をおそった試練で人間的でないものはない。神は信実であって、あなた方が耐えられないような試練をあなた方に容認することはない。試練とともに、それを耐えることができるような出口を用意して下さるであろう」。

「人間的でない」が直訳。パウロが「人間的」という語で何を考えていたかは分からないが、「神的」との対照だろう。つまり、神による逃れられない刑罰とは対照的に、人間の世に普通に起こり得ること。
新世界訳のまどろっこしい分かり難い文章に対して、田川訳(ほぼ直訳)の分かり易いこと(文章も短いし読み易い)。
ほとんどの訳が「試練」「試み」なのに、新世界訳では「誘惑」。サタンを連想させるように訳されてるなぁと思うのは自分だけかしらん?

14~33節。パウロは、偶像礼拝を避けよと(8章の犠牲として捧げられた肉の問題の続き)。そして、神殿の場所そのもので、犠牲に捧げられた肉をこれ見よがしに食べる(8:10)のは止めた方がいいと。それは、悪霊と交わることになるからだと(ユダヤ教的なパウロの視点からすると)。
すべてが許されているが、すべてが益になるわけじゃない(6:12と同じ言い方)。だから、市場で売っている肉を食べてもいいが、、自分ではなく他の人の良心と益を考え、すべてを神の栄光のためにせよと。

パウロは、地とそれに満ちるものは神のもの、とか、自分が感謝して食べるものに関して人からつべこべ言われる筋合いはない、とか、口先ではカッコいいこと(真理)を言いつつ、結局本音は、偶像に犠牲として捧げられた肉なんぞ食うな、って言いたいんだよね。それを回りくどく、他の人のためだとかなんだとか言ってごまかしてるだけ。(どこぞの組織と同じくダブルスタンダード)

11章。

1節。新世界訳「わたしがキリストに見倣う者であるように、わたしに見倣う者となりなさい」。

謙遜だったら「わたしに見倣う者となりなさい」とは続けないよね。「あなた方もキリストに見倣う者となりなさい」になるよね。パウロに見倣った結果、上層部の方々は不遜にも「わたしに見倣いなさい」って雰囲気になっちゃったんだねぇ・・・ある意味、聖書的だよなぁ・・・

2節。新世界訳「わたしのことを思いに留め」。

パウロの事を気にかけてくれている、という意味ではない。パウロの言ったことを一々すべて覚えている、という皮肉。「あなた方をほめます」も皮肉。

3~15節。一々わたしが伝えた伝統を細かく覚えていて、それをもとにわたしを批判するのなら、次のことも覚えておけよ、という感じでパウロは、頭の権と女が頭を覆うべきだということをくどくど言う。(出た、パウロの男尊女卑)

女性差別を神の名において行なうパウロ。これが本当に神のお考えなのか、パウロの偏見から出た言葉なのか。少なくとも、イエスはこんな男女差別はしなかった。
たとえ3節の頭の権を認めたとしても、4,5節の頭覆いの件を論理的に導き出すのは無理。パウロは、ユダヤ人女性が頭覆いを着けていたという風習をキリスト教にも持ち込んで、なんとしてでもそれを押し付けたかったんだろうな。
10節に「女はみ使いたちのために頭に権威のしるしを着けるべき」とあって、これはノアの洪水前のことを指して、女は特定の男に従属するという権威のしるしを頭に着けていないと、悪い天使に誘惑されるよ、という脅し。
11節の「主にあっては、女も男なしにあるのではなく、男も女なしにあるのではありません」は、現実の社会生活では男女は差別されるべきだが、信仰においては同じだ、ということ(7章の奴隷と同じ理屈。ガラテア3:26~28)。
15節では論理が破たんしている。「女の髪は頭飾り(覆いのことをごまかして訳してる)の代わりに与えられている」のなら、髪を長くしてれば覆いはいらないってことになるよね。なのに6節では「髪を切ったり剃ったりするのが恥ずべきことであるのなら覆いを着けろ」と。・・・矛盾に気がついてないのかな、パウロ。

こんな滅茶苦茶なパウロの意見をもとにして、どんな時に女性の奉仕者は覆いを着けるのか、こんな場合はどうなんだ、ってくそ真面目に規則を作ろうとしている、この組織。滑稽だよなぁ・・・

20~34節。主の晩餐に関して。
当時は儀式ではなく、本当に一緒に食事をしていた。だから、それぞれが自分が持って来たものを食べてしまっていたり、持参していなかったり、帰ってから食事しようと思ってて空腹だったりして、それじゃ共通の食事にならないから主の晩餐にあずかることにならないじゃないか、と。これはイエスの記念なのだから、ふさわしい仕方で行なえと。

30節でパウロは、ふさわしくない仕方で主の晩餐にあずかっているから、あなた方の中に病気や死んだ人が多くいるのだ、と言っている。つまり、間違った仕方で主の晩さんにあずかると病気や死を招くことになる、とパウロは考えていたわけで、コリント信者をそのように脅してる。
31節では、自分自身をわきまえていれば裁かれない、つまり、ちゃんとわきまえていれば病気になったり死んだりしなかっただろうに、と。
32節では、つまり、現在このように裁かれているのは主による懲らしめであって、(最終的に)世と共に罪に定められないためだ、と。
残念ながら、新世界訳ではここまで読み取れない。でも実際に書かれてる内容はこういう事なんだよね。なんだかなぁ・・・まぁこれじゃあまりに呪術的過ぎるから、それが分からないように上手く訳し、こうしたことにはふれずに聖パウロ様らしい解釈をするという・・・(う~ん・・・聖書って何なん?)

この後、主の晩さんの儀式化が進んで行ったんだろうな。この組織の記念式もその一つ。


またまた田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました。