聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ガラテア (2)

2019-06-04 | 聖書
4:22~31
24節の、新世界訳での「象徴的な劇」ですが、改訂版では「別の意味」と訳されてます。
田川訳では「アレゴリーとして説明すると」となっています。

26節の、新世界訳での「上なるエルサレム」(田川訳も)は、改訂版では「上にあるエルサレム」。ということは、これも改訂版のほうの言い方に変わるんでしょうね・・・めんどくさ・・・

この部分は、パウロが、旧約時代の出来事をアレゴリー化して解釈しようとしてる(ハガル=旧約 サラ=新約)、ということ。
でも、サラに適用しようとしたイザヤの聖句(54:1)は、良く考えるとサラには全く当てはまっていません。パウロの旧約引用の仕方は、滅茶苦茶なことも多いです。(なんとなくそれらしいけどw)

27節の、新世界訳「うまずめ」田川訳「石女(うまずめ)」を、改訂版では「不妊の女」と訳してます。
差別用語を気にしたのかもしれないけど(あるいはもう死語だからかな?)、聖書にそういう用語が書いてあるんだから、どんな書物かを知らせる意味でも、そのまま訳すべきだと思う。

29節に、イシュマエルがイサクをからかった(弾圧した)、とあるけど、これはサラを正当化するためにラビたちの考えが入り込んだのでは、とも言われている。イシュマエルとイサクは一緒に遊んでいただけで、それを見たサラが二人の異邦人を追い出した、というだけの話なのだと。
それを、パウロはラビたちの伝承に詳しかったから、こんな風に解釈したんだろうな。

この組織は、いわゆる油そそがれた人たちとほかの羊を差別(区別では決してない)して、ほかの羊を蚊帳の外に置くことが多いので、ほかの羊である自分には、聖書の言葉が遠く感じることが多かったです。この部分もそう。
でも、パウロはそんな差別をしたりしてないんです。組織は、当時のクリスチャンは皆油注がれてたからだ、とか言うでしょうけどね。聖書が神からの手紙であるのなら、そんなん、納得できませんよ。
結局それって、一般民衆から聖書を取り上げた中世の宗教指導者と同じ精神ですよね。彼らを通してでなければ、神に近づけないと。そして、聖書を自分で読んで理解し、組織に疑問を呈する者を、異端者扱いして排除する。完全忌避なんて精神的拷問に等しいですよ・・・で、霊的に死んだ者とされる・・・
組織に都合の良い改訂版聖書を与えて、それ以外は聖書じゃないと排除するのもそう。
なんだかなぁ・・・

気を取り直して。

6:4
以前も書いたけど、田川訳は分かり易いです。「それぞれが自分の業を自分で検証すべきである。その時には、誇れるのは自分に対してだけであって、他に対して誇ることはできないだろう」。

簡単に言えば、偉そうに自慢するんじゃないよ、大したことやってないんだから、ってことかなw。新世界訳だと(改訂版も同じ)、他と比べてじゃなく自分ができたことを喜べよ、って感じだけど。
訳でこんなに違っちゃうんだね。

6:12,14
新世界訳(改訂版も同じ)「苦しみの杭」、田川訳は「十字架」。

ギリシャ語のスタウロスは、棒、杭、を表わす語だけど、後に、ローマの磔に用いられた木のことをスタウロスと言うようになった、とのことです。両手を打ち付けたので、十字かT字だったと考えるのが普通。
この組織が拘るように、この語は棒を意味するから、磔も棒だったなんてことはまずないでしょうね・・・なので、十字架で良いと、自分は思います。

6:16
「神のイスラエル」。新約で出て来るのはここだけ。パウロがユダヤ人以外をイスラエルと呼ぶことはありえない、と田川氏は書いている。