聖なる書物を読んで

現役JW29年目

イエスに倣い穏やかな思いを保つ

2019-06-16 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。このところ、あんまり書く気力が出なくて。

ワークブックの方も、聖書通読も、見てはいるんですけど・・・なんというか、自分の考えと組織の教理との隔たりがだんだん広がってきてしまっていて、もう突っ込む気にもなれなくなってきているというか・・・組織への興味がホントに薄れて来たなぁと思う今日この頃です。

これ、改訂版がきっかけですね、たぶん。こんなお子ちゃま聖書をクソ真面目に学ぼうなんて気にはなれませんよ・・・(言葉が悪くてすみません)。でもって、こんな聖書を推奨するキリスト教組織に心底嫌気がさしたんだと思います。

だったら、こんな組織やめちゃえよ、って話なんですが・・・先月の奉仕報告もゼロで出したんですけど、何の音沙汰もなく。

まぁ・・・6節「自分にできることを道理にかなった範囲で行なったあとは、問題をエホバにゆだねることができる」ということなので、そうしようかなとw。(組織の神に信仰なんてないけど、創造者であり全能者である神は信じてます)

では、記事への突っ込みです。

4節。「自分の死の記念式を制定した時」
イエスは死の記念式なんぞ制定してない、というのが今の自分の考えです。

で、イエスが最後の日に頻繁に祈ったのは、穏やかな思いを保っていられなかったからですよね。平静でいられなかったからですよね。この書き方だと、イエスは常に穏やかで平静だったみたいに勘違いさせられるなぁ。
聖書の訳し方にもよるんでしょうけど、イエスってそんなにいつも穏やかな人だったとは思えないんですよね・・・怒ったり、叱りつけたり、ちゃぶ台返しもしてるしw。
でも、神に祈ることは穏やかな思いでいる助けになると、自分も思います。

6節。「イエスに従う人は皆、サタンから攻撃されるので、信仰を必要としています」
よくわからないけど、なんか変。まぁ、信仰は大盾に例えられてるから、攻撃をかわすものなんでしょうけど・・・こう書かれると、ストレスとなる問題ってすべてサタンのせいみたいに感じさせられる。
サタンのせいであって自分が悪いわけではない、って考えるようになるのも問題だよね。楽だけど。

あと、上にも書いたけど、エホバにゆだねる、って、かなり都合の良い教理ですよね。結局、問題解決のために最低限のことしかしなくなる、そんな気もします。楽だけどw。
どうするのが良いかわからない時とか、あわてないで待ったほうがいい時とか、いろいろ状況があるので一概には言えないですけど。

8~10節。「イエスは熱心に伝道した」
これって単純に、何かに没頭してれば問題を忘れられるってことじゃないんですかね。別に伝道じゃなくても、仕事でも趣味でも勉強でもなんでもいいんじゃないかと思ったのは自分だけかしらん?
それに、イエスは別に、穏やかな思いを保つために伝道したわけじゃないだろうし・・・なんかこれ、伝道強要するために無理やりこじつけてる感がひどくて、わけわかんないよ。

13節。「自分は完全でしたが、不完全な友の支えを感謝しました」
間違ってないんだろうけど、こういう書き方もなんかイヤだ。イエスが不完全な友を見下してるみたいに感じる。こういう言葉選びによって、イエスの人格を引き下げようと印象操作してるのかな。

14節。「良い友は、エホバに忠実であり続けるよう助けてくれます」
いやいや、どんな時にも愛し続けてくれて苦難の時にも兄弟のように助けてくれるのが真の友じゃなかったっけ? あれ? 良い友と真の友は違うのかな? 組織にとって都合の「良い友」のことですかねw。(←わざとらしい嫌味です)

「良い友を作る最善の方法は、自分が良い友になることです」
これは納得です。でも会衆に限定するのは良くないです。良い影響を与えてくれる人、助けになってくれる人、会衆外にもいっぱいいますよ!

ということで、つたない突っ込みでした。