聖なる書物を読んで

現役JW29年目

会衆で思いやりを示しましょう

2019-05-25 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事です。

まず主題ですが、「会衆」と限るあたりはパウロみたいだな~とw。

主題の聖句はペテロ①3:8からですが、このペテロ①もペテロが書いたことになってるけど、内容的にも言葉遣いもパウロ派で、他の疑似パウロ書簡に勝ってパウロ的だと言われている。
例えば、おとなしく、国家権力には従え、召使いは主人に従え、妻(女)は夫(男)に従え、若者(子供)は年長者(親)に従え、などなど。

本当にイエスはこんなこと教えたんだろうか、と最近は疑問に思います。

では。

2節。「周囲の人々に影響されてしまうことがあります。この終わりの時に、多くの人は他の人の気持ちを考えず、『自分を愛するもの』となっています」

あれ?会衆内の話をしてるんだよね? 思いやりを示すのが難しい理由の第三がこれ? 周囲の人々って会衆の人たちのことかと思ったよ。普通のエホバの証人って、そんなに世の人と交わってないよねぇ・・・。
だいたい、これじゃまるで、世の人はすべて思いやりがない、みたいに感じるよ。そんなことないでしょ。まぁ、こう書くことで、世と交わるな、自分たちは世の人たちとは違うんだ、と暗示にかけようとしてるんでしょうけど。

3節(8節も)。「イエスはエホバとそっくりな性格をしています」

そっくり、って。間違ってないんだろうけど・・・変。なんか抵抗を感じる表現。改訂版と同じニオイ。国語レベルを下げることで万人受けを狙ってるのかもしれないけど・・・逆効果なんじゃないかなと思う。

5~7節。「ご自分に仕える人たち」

4節では、エホバは「わたしたち」に思いやりを示してくださる、と書いてるのに、5節以降は「ご自分に仕える人たち」に思いやりを示される、とすり替わってる。相変わらず、組織のエホバ神はちっさい神だよね。ご自分に仕える人にしか思いやりを示さないんだね。まさに組織にふさわしい神w。
本当の神(自分は存在すると思ってます)は、ご自分に仕えない人にだって思いやりも愛も示してくださってるのに。自然の恵みも贖いも。

8~11節。イエスの手本でこんなこと書かれてもね。だれも真似できないでしょ。なんじゃこれ。

「エホバとそっくりな性格をしていました」。努力はできるけどね・・・そっくりは無理でしょ。(←拘ってるw)。
「心を読むことができました」。心理学でも勉強しろと?
「人々が直面する問題を実際に経験しました」。同じ経験をするのは不可能でしょ。
「奇跡を行なった」。できるかっ! まぁ、同情し、助けたいと思って、自分に出来ることをする、ってことぐらいは努力したいかな。

12節。「イエスが涙を流したのはなぜでしょうか。親しい友を亡くして悲しかっただけではなく、マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです」

この解釈はピンとこないです。自分はこんな単純な理由だけじゃないと思ってます。以前の記事(ヨハネ11章)で書いたので、興味ある方はブログ内検索してみてくださいませ。(リンク貼れなくてすみません)

13節。「イエスの思いやりから多くのことを学べます」

強引でしょ。確かに、王としてのイエスの素晴らしさは学べましたけど・・・この論点って、主題に合ってる? ずれてね? 

14節。「エホバとイエスの手本について考えると、もっと思いやりを示したいという気持ちになります」

こんな風に人の気持ちを強制するのって、思いやりじゃないと思うんですけどね。

15~17節は、エホバとイエスに倣う点で、特に会衆の長老に当てはめてます。まるで、長老がエホバやイエスでもあるかのように・・・組織は、長老に思いっきり重い荷を背負わせたいようです。
逆に考えれば、長老をそれだけ祀り上げて、会衆の成員には長老への絶対服従心を起こさせる、というのが目的なのかもしれません。

こわいこわい。

18節は、実際に「病気の人、高齢の人」にあてはまる姉妹が、『これ、自分のことだから注解できないわ(注解じゃなくてコメントだよ~)』って言ってましたよ。そう感じる人、多いでしょうね。ホント、思いやりのない文章です・・・。

19節は良かったと思います。「関心を払いながらも、あまり立ち入った質問をしないように」とあるけど、もっと具体的だったら尚良かったかな。

20節。次の記事では、宣教で思いやりを示すことを考えるそうです。今回が会衆内だったんだから、次回は会衆外で良いと思うんだけどなぁ・・・


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