竹村英明の「あきらめない!」

人生たくさんの失敗をしてきた私ですが、そこから得た教訓は「あせらず、あわてず、あきらめず」でした。

2015年も「あきらめない!」をよろしくお願いします。

2015年01月01日 | 政治
みなさま、明けましておめでとうございます。
日本社会も政治も、世界の状況も・・、あまり「おめでとう」にはふさわしくないような塩梅ですが、時代がまた一歩前に進んだということは、輝ける未来に一歩近づいたのかも知れません。
今日は、日本各地で雪の元旦となったようで、私の暮らす川崎市宮前区もお昼過ぎから激しい雪に見舞われました。
幸いに夕方には上がりましたが、ちょうど激しい雪のさなかに、近くに神社に初詣をしておりました。
気温4℃でしたが、風が強く、相当の寒さの中で数十分待ちの列という、一年の厳しさを象徴する2015年のスタートとなりました。
いつの間にか格差社会が広がり、まともに住むところもなく、満足に食べることもできないという方々が多数おられる中で、曲がりなりにも家があり、お正月が迎えられているということに、まずは感謝をしなければならない!と、あらためて感じています。

さて2015年です。
昨年の暮れには、「電力小売」実現への夢に少し触れました。
これは「電力会社となる」ということで、10年前には、とてつもなく「阿呆な空想」という話しでしかありませんでした。
しかし今は、ドイツでは1000に近い電力小売会社が生まれ、シェーナウ市のように「普通の市民」が電力会社をつくり、運営することが現実となっています。
日本でも「電力システム改革」という大きな方針は敷かれており、この同じ道に進むことは、今では夢ではなくなりました。
もちろん幾多の困難、障壁、逆襲などなどが待ちかまえているのだろうな・・と思います。
でも、チャレンジしなければ、この夢は実現しない・・。
2015年は、そういうチャレンジの年であると思っています。
一緒に夢にチャレンジする人がいっぱい現れることを期待しています。

そして、今年はもう一つ「課題」を掲げます。
昨年は原子力市民委員会が「脱原子力政策大綱」をまとめました。

フクシマの現実・・これは単に原発事故の状況や被爆され福島県に暮らす人たちの状況にとどまりません。
「原発事故」という破局的な災害のあとに何が起こるのか、政治や地方行政が、どのように個人の権利や尊厳や暮らしを無視し破壊するのか・・、その社会の病理を読み解こうとしていると言えるかも知れません。
フクシマでない、東北の震災被災者も、もう3年以上事実上放置されていると同じ現実があります。
かつて震災は、たしかに当事者のみなさんには惨い苦しい苦難であったとしても、日本全体の経済にとっては、その復興を景気に景気の回復や雇用の増進をはかっていたのでは・・と、首をかしげます。
3年たって、いまだに大多数の人が「仮設暮らし」を強いられている。新しい都市開発も住宅建設もできない。漁業、農業の復活が思うにまかせない。なにか、それを阻む「間違った政策」があえて行われているからではないのでしょうか?

原発事故に即して言えば、事実上対策といえるものは、この3年間なにも行われてきませんでした。
4号機の使用済燃料を取り出したというのが、唯一の成果といえるくらいでは・・。
汚染水は事実上垂れ流し、もともと止める気はないのではないか。なにかをやってるふりをしながら海に捨てる作戦を着々と実行してきたのではと思えてなりません。
事故原因の解明はゼロ。解明すればするほど、再稼働を阻むことになるとわかっていますから、そこは後回し。
そして原子力規制委員会は、自らが作った問題だらけの「規制基準」をもとに、これから次々「適合判定」を出して行こうとしています。
しかも田中委員長は「適合判定は安全という判断ではありませんよ!」と明言しながら、政府は「規制委員会が安全と判断したので」と再稼働へとつきすすむ。
このボケとツッコミのお笑いのような政治判断をほとんどのマスメディアは放置。いや、政府と一緒になって「規制委員会が安全と判断」というような虚偽報道を平気で垂れ流しています。
このことについては、3月頃「eシフトブックレット」の第6弾「再稼働の歯止めになるのか?原子力規制委員会」で、読み解いていただけるように、現在鋭意作成中です。

さて、私が所属する第三部会(脱原発政策部会)としては、脱原発を実現するためのシナリオを書きました。
ただし、その中身は行政組織を動かし、法律をつくり、これを執行して行く組織(行政組織)が必要です。
今の政権のままでは、ほぼ不可能という残念な現実があります。

だから、この現実を動かさないといけない・・というのが、今年のもう一つの重要な課題です。
そのカギは、昨年亡くなられた、原子力市民委員会初代座長の舩橋晴俊先生が提起されている「公論形成」にありだと思います。
「公論形成」について、宝島社版「脱原子力政策大綱」(定価920円)の終章で、舩橋さんはこう書いています。

人々が自由で開放的な話し合いを通して、内容が成熟し、社会的に共有されるようになった意見を「公論」という。

これが公論および「公論形成」の定義です。さらに、こう書かれています。

民主的な政策を実現するのに大切なことは、個別政策領域に即してそのつど「公論を形成すること」であり、「形成された公論」を政府と国会が尊重することである。

さらに、こう続きます。

「公論形成の場」の総体は、自由で開放的な討論がなされる社会的空間としての「公共圏」ということができる。
「公共圏」を豊富化し、そこから生み出される公論によって、政府と国会の政策内容を方向づけることが、民主主義的決定の核心である。

民主主義は多数決だと思っている人がいるかも知れませんが、それは一面に過ぎません。
公論形成が保証された「公共圏」が存在し、そこでの開放的で自由な討論ののちに「社会的に共有されるようになった意見」を政府と国会の政策決定に反映させることが民主主義なんですよということです。

残念ながらいま、この公論形成はまったく保証されていません。
下記の図「分立・従属モデル」は、原子力政策をめぐる政策決定過程を図にしたものですが、政府による参入障壁で、政策に批判的な市民どころか科学者までもが「政策決定」のための「科学的検討の場」から締め出されています。
これでは、一つの政策を批判的な立場で検証する科学者の意見反映ができず、本来の科学的な検討になりません。
さらに、政府の設定する枠組条件によって、はじめから政策の方向性が、その政策によって利益を得る集団の利害関心に影響されており、間違った方向に誘導される傾向にあるということです。



原発立地における活断層の存在の否定や低線量被爆の健康影響を低く想定する・・というようなことが、この仕組みの中でまかり通っていると言えます。

これに対し、舩橋さんが提案するあるべきモデルが、もう一つの図「統合・自律モデル」です。
政府による参入障壁と枠組条件がとっぱらわれ、科学的検討の場が「政策案形成の場」の外に出ています。
まずは政策的意図を離れて、科学的に公平に多角的に政策の検討を行い、そこからの提案を受けて「政策形成」の議論が行われるということになっています。



科学的検討の場、政策案形成の場のどちらも、行政協調集団と批判的集団の両方からバッターがでて討論に参加しています。
ここには、日本で良くまかり通っている「見せかけの中立」などというものはありません。
「中立」=意見のない人と考えるならば、その問題を考えるにはあまりふさわしくない人であって、関心が高くしっかりと考えている人同士で立場の違う人が議論を戦わせた方が、より高次の結論、高次の政策を導くことができると考えるわけです。

正月早々、少し難しげな話しですいません。
お屠蘇気分の頭には、少々きついかも知れません。
そういう私もお屠蘇気分なんですが・・。
この「脱原子力政策大綱」はこちらで購入できます。
http://www.amazon.co.jp/これならできる原発ゼロ-市民がつくった脱原子力政策大網-原子力市民委員会/dp/480022697X

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では、最後におせちでも。


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