磯輪日記

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世界一社風のいい会社を目指しています。

心の叫びが聞こえた

2008年10月20日 22時56分17秒 | オフ・ビジネス


特攻平和会館とは何と皮肉なネーミングですね。



だがこれこそ特攻隊員の気持ちを見事に表しているんでしょう。

          

会館の入り口で我々を迎えてくれたのは、出撃時の特攻隊員像でした。
台座には『とこしえに』。

この隊員を陰から見送る人がいました。

          

隊員のお母さんでしょう。愛する家族を守るため出撃していった少年たち。
それを遠く離れたふるさとで見送った母たち。

離れた母の代わりに母親役を務めてくれたのが富屋食堂の特攻の母、鳥浜トメ
さん。



映画『ホタル』を観てからずっと行きたかった知覧でしたが、あまりに
重かった。

        

全国から志願してきた特攻隊員がここ知覧で何日も訓練したのだと思って
いたら、早い人は到着した翌日、長くても数日で南方へ出撃して行ったそう
です。

そのほんの短い刹那、トメさんや、整備兵、身の回りの世話をした知覧高等
女学校生たちとの心の交流が、隊員たちの心の支えだったことでしょう。

整備兵、女学生たちは、すでに敵戦闘機が頻繁に爆撃に来ていた知覧の
飛行場で、少しでも状態のいい飛行機で出撃できるように、少しでも最後の
ひと時を心安らかに過ごせるように、彼ら、彼女らも、命を懸けて隊員と共に
最後の時間を共有したそうです。

そしてそんな時はあっと言う間に過ぎ去り、出撃の朝が。
そして知覧を飛び立つと、すぐに開聞岳が目に飛び込んできたそうです。



もう二度と見ることができない祖国。その象徴がこの開聞岳でした。
きっと、何度も何度もこの山を振り返り、家族の生きる、そして守るべき
祖国の地を自分の目に焼き付けたことでしょう。

いったん飛び立てば、たった2時間でアメリカ艦隊が待機する沖縄の上空へ。
その間も至るところにアメリカ機が待ち構えています。それをくぐり抜け
やっとたどり着いても、そこは死地。

目標となる敵艦を見つけ、最後の2km、たった10秒の突入だったそうです。
その10秒間に何千発もの銃撃が。それをかい潜るために彼らは訓練に、訓練を
重ねて来た。でもその訓練の成果を発揮できた者も、発揮できなかった者も、
待っているのは死だけ・・・

愛する家族のために、アメリカ軍の日本本土侵攻を阻止しようと、爆弾を抱え、
整備もまともにできないような飛行機に乗って、片道だけの燃料を積んで、
敵艦に突入していった10代、20代の若者たち。

平和会館も、ホタル館も、死地に赴く隊員たちの心のさけびが溢れていました。
その彼らの遺書を目にして、私は思った。

  「彼らの犠牲の元に、今の日本の平和がある」

そういう話じゃない。

志願した隊員たちは、当時の俊英ばかりだった。彼らが生きていたら、日本は
もっと良くなったと確信しました。

その彼らは死ななくても良かった。生きて、戦後の日本の復興に活躍して欲し
かった。活躍できた人ばかりだ。

何より残念なことは、彼らを死地に赴かせたこと。当時の日本の戦争指導者が
憎い。前途ある若者の命を奪った人たちが憎い。

日本のために、生きて欲しかった人たち。
母のために、父のために、親孝行したかった人たち。

命を落とす必要の無かった若者を体当たりさせてしまう吐き気のするような
恐ろしい作戦を考えた軍の指導者の責任は、どう言い訳しても、逃れられない。
重い。

ギリギリの極限状態で、死と向き合った特攻隊員も戦争犠牲者なんだ。

  「日本は、これからもっと生きたかった我々を、そんな風に追い
   込んでしまったことを忘れず、同じ過ちは絶対に繰り返さないで
   ほしい」

特攻隊員の魂はそう叫んでいた。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
貴重な人財が・・・ (磯輪)
2008-10-23 22:25:45
 D社のH様

日本にとってとても貴重な人財が消えてしまったことは
返す返す残念ですね。
60年経った今でも、彼らの冥福を祈らずにはいられ
ません。
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同感 (D社のH)
2008-10-23 13:35:25
私も9月初旬、指宿、長崎鼻、知覧に行ってきました。平和記念館を訪れた際、貴記事とまったく同じ
想いを抱きました。達筆な素晴らしい内容の遺書を
読んだとき、貴重な日本の財産が失われてしまった
と感じました。
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海軍 (磯輪)
2008-10-22 23:17:23
 Kevinさん

長谷川さんは海軍士官学校卒でしたよね。
知覧は、私も知らなかったのですが、陸軍の管轄だ
そうです。
海軍の特攻は、もう一方の大隈半島の鹿屋が基地
だったそうです。
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最長記録でした (磯輪)
2008-10-22 23:15:24
 あやさん

この日のブログは3時間以上かけて書くという、
これまでの最長記録を更新したブログでした。

その割りにうまくかけなかったのですが、それでも
自分の心と向き合いながら、精一杯書きました。

ぜひ出かけて下さい。
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思い出 (Kevin)
2008-10-21 17:33:16
 特攻隊の生き残りで、厳しくて、ダンディで、しかし優しかった長谷川薫さんを思い出しました。
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Unknown (あや)
2008-10-20 23:40:57
私は少し前に『俺は君のためにこそ死にに行く』という映画を見に行きました。
石原都知事総合指揮で作られた映画でした。
毎年終戦記念日前になると、丸善などに特攻で飛んでいった少年たちの遺書や遺詠をまとめた物が平積みされています。
この時代のこと、ちゃんと知ってなければなりませんね。
この時代に、自分の尊い命を掛けて守ろうとした少年たちがたくさんいた事をちゃんと知ってなければなりまねんね。
ますます知覧に行きたくなりました。
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