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二日間の東京での仕事を終えて、夜、大学時代の米川ゼミの同期の
仲間で集まりました。
我々のゼミの先生だった米川先生は、専門が経営史で、我々がゼミ
を取る前数年間は、イギリスで研究していたため、ゼミはなく、
先輩のゼミテン(ゼミ生のことをドイツ語で『ゼミナーリステン』
というようで、これを略して一橋では『ゼミテン』と言っていました)
が大学には存在しませんでした。
で、我々がゼミを選択する時、米川ゼミの情報はさっぱりなく、
唯一の情報は、大学が発行する「ゼミ紹介」の新聞だけでした。
その中で米川先生は、ご自分のゼミについて、
「自由闊達な雰囲気」
というように形容されていて、これしか情報がない我々学生に
とって、それは、いかにも「チョンボ」な、楽勝のゼミに見えた
ものです。
それが証拠に、この甘い言葉に惹かれた「チョンボ」狙いの学生が
たくさん米川ゼミを希望して、定員15名に対して、記憶が定か
ではないけれど、25名か、ひょっとしたら30名くらいが集まる
という超人気ゼミになってしまいました。
私がこの米川ゼミを選択したもう一つの大きな理由は、実は私
数学が大の苦手で、「経営史」であれば、歴史であって、数学を
使わないだろうと踏んだからです。
私は商学部だったんですが、商学部の中にもとても難しい数式を
駆使するゼミがたくさんあり、とてもそんなゼミでは勤まらない
からです。
定員が15名なので、面接による試験が行われることになり、
最終的に18名が残りました。つまり私も、そしてこの写真に
写っている同期の仲間も、2倍近い難関を乗り越えた学生だった
のです。中には「チョンボ」を求めて、商学部以外の社会学部
などからわざわざ越境して希望した奴もいました。おそらく
我々の代では、最も入るのに難しいゼミだったと思います。
しかし所詮「チョンボ」狙いの学生の中から選ばれただけのこと。
最も入るのに難しかったゼミ、イコール、最も優秀なゼミと先生は
思ったんでしょうが、その実態はまるで違っていて、先生もすぐ
そのことに気付かれたようでしたが、時すでに遅し。
先生ゴメンなさい。
まあ、こんな経緯でスタートした我々米川ゼミでした。
3年生の時には、百科事典くらい分厚い、アメリカの化学会社
デュポン社の歴史を記した英文の原書を読みました。
そして4年になると、各自が卒論のテーマを決め、それに
ついて勉強したことを、順番に報告する形式になりました。
当然経営史のゼミですから、卒論はどこかの会社の社史を
研究します。通常自分が就職を希望する業界や特定の企業の
歴史を調べることが多かったですね。
私は、どうせ将来ISOWAの社長になるなら、ISOWAの
歴史を自分で調べたいと思い、
「先生、私の父が会社を経営しているので、その会社の
歴史を卒論のテーマにしてもいいでしょうか?」
とたずねたら、先生は、
「磯輪君、それは君オリジナルの研究ですね。すばらしい。
ぜひ取り組みなさい」
とお墨付きを頂き、ISOWAの歴史を調べ、原稿用紙
500枚近い卒論となりました。これは学生時代の私の宝
のひとつで、きちんと製本して、今でも会社の私の部屋の
本棚に大切に保管しています。
そんなゼミ生活でしたが、我々昭和53年卒の米川ゼミは
(実は私は4年生終了後大学を休学し、アメリカで働いた
ので、昭和55年卒なんです)とっても仲がいいんです。
これも毎回幹事を務めてくれる商社マンの古久保のおかげ。
今回、彼以外に参加したのは、
・初めて経理から営業支援に回った住宅マンの池谷
・Mr.ビーンにそっくりの石油マンの苗加
・もっとも恰幅のいいエアライン・マンの寺澤
・マラソンにチャレンジし続ける建材マンの中村
・松本幸四郎似の銀行マンの西村
・京都のボンボンで生保マンの奥野
・4人の子持ちの損保マンの横川
・NHKの受信料を払えと言う家電マンの溝越
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合計10名。海外勤務や遠方赴任のメンバーも含めて
18名中10名の参加は立派だね。
参加できなかったメンバーもこのブログで楽しんでくれ。
また会おうね。
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