よんたまな日々

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ローマ法王のニュース

2005年04月19日 | 日々徒然

コンクラーベ、ローマ法王選出会議始まる (読売新聞) - goo ニュース

最初の投票では決まらなかったようで、しばらく再投票が続きそうな感じです。
「根比べ?」と思ったのは、僕だけではなかったみたいで、そういうブログ記事がいっぱいあがっていました。

少し前に、前法王が亡くなったことを悼む黙祷が、愛地球博で行われ、黙祷中に流れたアナウンスで、「心からの悲しみを感じます。」みたいな文句を言っていて、反射的に「嘘つけ!」って思ってしまいました。建前論を話すときに、わざわざ『心から』という言葉を使うことに対して反発を感じたのです。

でもその後の法王の葬儀のニュースで、法王の遺体を取り囲んで嘆く人々の様子を見ていて、本当に心から悲しんでいる人がいるんだということに気が付きました。
多分、アマラオが東京を離れる時に、心から悲しんだサポーター達に負けないくらいの強い悲しみに打ちひしがれた人が世界中にいたのだと思います。
それに思い至らなかったのは、僕の想像力が不足していたし、傲慢でもあったと反省しました。

誰がその言葉を語るかによって、本当か嘘か変わってくるのですね。

サッカーの試合では、ときどき、試合前の黙祷があり、喪章を巻いて戦う選手というのも見かけます。試合前に、黙祷を捧げる対象の方について簡単な説明がアナウンスされ、観客の起立をうながし、黙祷開始の合図とともに黙って黙祷し、終わったあと、すぐに試合が始まるというのが、通常の流れです。
ときどき、「誰?その人?」という人に対する黙祷が行われる場合もあるのですが、とりあえず、起立し黙祷します(場合によっては単なる礼儀として)。アナウンスがないので、自分の悲しみに応じた気持ちで参加できるのです。
そこで、「心からの悲しみ」とかなんとか言われると、特に悲しみを感じていない場合、黙祷に参加していることに気後れや場違いの感を感じます。
一方、本当に悲しいときに、変なアナウンスをされると、「お前にこの悲しみがわかってたまるか!」という気持ちにきっとなると思います。

サッカーというのは、もともと言語化が困難なスポーツなので、言語の限界についてとても謙虚だと思います。悲しみなどの感情についても、無理に言語化すると、かえって自分の気持ちを見失うことになるので、黙って黙祷しましょうよ。

と思ったことを今朝のニュースで思い出しました。

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