よんたまな日々

サッカーとゲームと本とおいしい食べ物

1.17 何度も同じ話をします。

2022年01月15日 | 日々徒然

もうすぐ、1.17。
私にとっては、忘れられない日がまた来ます。
毎年、家族には同じ話をしており、ブログにも何度か書いているので、「聞き飽きたわ!」と言われるのですが、志村けん演じる呆け婆さんのように、何度も同じ話をしようと思う。

何度も同じ話をするのは、自分の周囲の人が変わり、他の人から聞いた話が加わり、話す意味が変わってくるから。新たな災害があり、家族も成長し、あるいは年をとり、話し手だけでなく、聞き手の状況も変わっているから。

ということで、唐突に一曲目。kiroroで「長い間」。


私がこの話をすると、家内が相槌代わりに聞かせてくれる。
「私は1.17は東京でまだ大学生なので、報道されたことしか知らない。また、3.11は、既に大阪に引っ越していたので同じく知らない。災害が私を避けているような気がする。それはとっても幸運なことなのだけど、当事者語りが出来ないのだけがつまらないわね。」

娘も負けずに語る。
「1995年って、ワタシ生まれていないですか?2011年は?ワタシ、台風も地震もあってない?」
「どちらも娘ちゃんの産まれる前の話よ。でも2018年の大阪の地震と台風は産まれていたわよ。地震はこのうちに引っ越す前で野田のうちで遭ったし、台風はこのおうちでしたよ。」
「ワタシ、覚えている!怖くてわーって泣いてた。」
両親が声を揃えて否定する。
「あなたは、台風の時も、もの凄い風で、このうちがグラグラ揺れている中で、とても気持ちよさそうに、ぐっすり寝ていました!」

このようにして記憶は作られていく。

そろそろ私の話をしたい。

しかしこれを書き始めた日の在宅勤務なのにトラブルの多さよ。業務の隙間を縫って、ブログを書くなんて暇がありゃしない。

「トラブルは友達」というタイトルの歌を見つけました。
Lenkaで「Trouble Is A Friend」。


さて、まだ実家暮らしだった1995年1月15日。私はniftyのFBOOKフォーラムに参加し、Y君を亡くした痛手を癒やして貰った上に、初めてのオフ会に参加しました。
オフ会は、FBOOKフォーラムのシスオペで、温かい会議室の主催者でもある風子さん(ハンドルネーム)が神戸から千葉へ転勤になるので、行ってらっしゃいオフ会でした。
彼女は、オフ会の飲み屋で「関東は地震が多いらしいから、あちらに引っ越したら、防災袋を作って家庭内で避難訓練やる。」と話していたのが印象的でした。

そしてそのわずか二日後に神戸と淡路島を未曾有の災害が襲いました。

その日の朝、猛烈な揺れで目を覚ました私は、自室の本棚から、本が床に散乱しているのを見ました。こんなひどい地震は初めてだと思いながら起き出し、普段はまだ寝ている両親が散らかっている居間を片付けている横で、朝ご飯を食べて、会社に向かいました。ニュースでは、第一報が京都を中心とした地震と言っており、京都で怪我をしたお婆さんの情報しか出ておりませんでした。神戸の震度計は、想定を超える揺れで破壊されており、第一報に神戸や淡路島の情報が一切含まれていませんでした。

法隆寺駅に到着するとホームに人が溢れており、始発から電車が動いていない様子。駅の外の列に並んで待っていると、
「本日、JR大和路線は復旧の目処立たず、終日運休です。」とのアナウンスが入りました。「近鉄線は動いているとの情報が入っており、お急ぎの方は近鉄線をご利用下さい。」とアナウンスがあった記憶があるのですが、後に振り返るとどう考えても誤報である。あるいは鶴橋、難波までだけ動いていたのかもしれない。
その時点で地震の規模に関する情報もなく、当時は携帯も全く普及していないので、一度自宅へ戻って会社に電話して、出社するかどうか相談しようと思い、自宅へ帰って来た。

自宅へ戻ると両親がテレビに釘付けになっており、見ると、NHKのヘリが変わり果てた神戸の街の映像を流していた。一面の瓦礫の山と、あちらこちらから上がる炎と黒煙。生田神社の社殿が倒壊しており、市内のいくつかのビルでは、一階二階だけが壊れて、怪我をして膝をついた巨人のように傾いて立っている映像が映っていた。

会社に電話しようと受話器を上げても、上げた途端に電話が切れた音が鳴り、ダイアルにも反応しない。
会社への連絡は諦めて終日テレビに見入っていた。
奈良でも時々余震が発生し、テレビの恐ろしい映像もあって、普段バラバラに過ごしている家族がこの日ばかりは、みんなでリビングに集まって、一日テレビを見ていた。

翌日には電話が復旧し、会社の連絡網で連絡が来た。現在、工場内の被害状況確認中で、安全が確認でき、交通網が復旧したら順次出社ということであった。

また、nifty FBOOKフォーラムでは、風子さんの安全を心配する書き込みが殺到していたが、返答がなかった。
同じく、大学の卒業生のメーリングリストでも、神戸大学に転勤になった先生の安否を心配する声が集まっていた。

幸いなことに一週間ほどして、二人とも無事を知らせる書き込みがあった。
風子さんは自宅被災し、避難所に行っていたので、書き込みできなかったとのこと。
大学の先生は、本人は全く大丈夫だったらしいが、メールサーバーが崩れた機材の中に埋もれてしまい、片付けて、起動できる状態にするまで、一週間かかったとのことだった。

私の職場、大阪の工場も無事で、多少荷物が散乱していたが、すぐに復旧することができた。出荷予定で、工場の出荷ラインに乗っける予定で、台車の上に積んで置いたサーバー一式が、台車の上から崩れたり倒れたりせず、そのまま、実験室の遠い場所に移動していたのは笑ってしまった。念のため中身を出して稼働確認したが、問題なく稼働したので、上司と品管に確認してそのまま出荷した。

伊丹や西宮の寮から通う同僚達が、ライフラインや交通網が止まっていて、不自由な暮らしをしながら通勤していた。大阪で、夕飯食べて、銭湯で風呂入ってから、寮に徒歩で帰る生活。神崎川の橋を境に、大阪は日常生活が続いていて、兵庫・神戸側は震災後の非日常の中にいる不思議。帰宅時に橋の先は真っ暗で、ブロック塀が崩れ、道路はひびが入っているのに、後ろを振り返ると、ネオンが輝いていて、いつも通りに、食事し談笑し、暖かい家で暮らす人達がいる。この橋一つの大きな格差。

時間をかけて、神戸の街は復興しましたが、例えば異人館街の歩道のヒビ割れは翌年の冬に訪れた時もまだ残っていました。観光客が来る表通りですら、そういう状況なので、刻まれた傷跡の深さは推して知るべし。

風子さんの千葉転勤は被災により、無期延期となり、予想外の私が、その年の四月に東京転勤となりました。日吉寮で初めての一人暮らしを始めます。

夏川りみのカバーでkiroroの「未来へ」。


会社の知り合いで元社長達とか、引退した偉いさんが集まる飲み会が年一回開かれていて、現役メンバーもお呼びがかかるのですが、被災体験を持つ元社長の一人が、その場で震災から20年以上経って初めて自分の被災体験を語りました。涙なしで聴けないその体験を語るのに、それだけの時間が必要だったのかと改めて印象に残りました。単にそのおっちゃんが人前で簡単に泣けるようになったくらい年老いたのかもしれませんが。

とにかく、この日を境に日本は災害列島となってしまいました。自分の意識の中では大きなターニングポイントでした。

それ以前も、地震や台風がなかったわけではありませんが、日常生活を破壊する威力を持った災害や、終末に突き進むオームや無差別殺人が起き始めたのもこの時期。日本経済は傾き空白の10年、20年が続き、就職氷河期となり、私の給料は上がらなくなり、職場に新人が来なくなって、永遠の若手ホープとして下積み生活を送りました。振り返ると滑稽な人生ですが、私は滑稽で済んでよかったと思えるくらい、日本全体が貧しくなりました。
(竹中平蔵め!💢💢😡🥲😓)。

Tommy heavenly6 で「pray」


シシド・カフカで山口百恵の「ロックンロール・ウイドウ」


満島ひかりが教授と組んで何かやるそうな。「ラビリンス」


本日、最後の曲です。JUJUのカバーで「last smile」




最新の画像もっと見る

コメントを投稿