うちの奥さんが、ふと駅で見つけたポスターで出ていた劇団「維新派」の「ナツノトビラ」を見てきました。
芝居は、「CATS」「スプラッシュ」、それから新婚旅行のロンドンで見たタイトル不詳の英語のミュージカル(いや、うちの奥さんに聞けばきっとタイトルわかりますけど)の3作で、これが4作目。
どういう心構えで見るかもわからないまま、とりあえず、客席に着きました。
しょっぱなから、何の説明もなく、舞台の上で俳優たちが踊りまくります。時代も場所も何もわからなく、歌詞もほとんど聞き取れず、パワフルで意味不明な動きに圧倒されながら眺めているうちに、ふっと意識が飛んで寝込んでしまいました。
目が覚めてからも、しばらく同じような舞台が繰り広げられていたのですが、ようやく、彼らの動きが生理的に受け入れられるようになり、徐々に歌詞も聞こえるようになってきました。
その歌詞が微妙に関西弁のイントネーションだったので、「おや?」と不思議に思いました。
結局、テレビで放映されている殺人事件とか、高校野球とか、深夜のサッカーとか、そういうのと、日傘を差した女の人とか、旅行鞄を持ち山高帽をかぶった男の人とか、野球帽をかぶった子供たちとか、墓参りとか、虫採りとか、海水浴とか、そういう夏のステレオタイプを、光と影と音と踊りと舞台装置で表現しているようでした。
映画と違って、生身の人間が生身の人間に生理的にどうメッセージを伝えられるのかという実験に参加したような気分でした。
でも、伝えようとしているメッセージは、何だかよくあるステレオタイプなので、受け入れる側としては、特に印象に残らなかったです。
「何だったのだろう、これは?」という大きな疑問を抱いたまま、舞台が終わったのですが、僕等が見た会は、幸いにして、舞台後に監督による解題があり、結局自分たちの見方が大きく外れていないことをうちの奥さんと確認しあいました。
「こんなのはパトレイバーで10年前に押井監督がやっているわよ。」というのがうちの奥さんの意見だけど、「テーマをあまり難しくすると、こういうスタイルだと本当に何をしたいのか伝わらなくなるよ。」と反論しましたが、じゃあ、そういうメッセージを受け取って何かいいことがあるのかという部分は、中々に難しい。
内田樹はコミュニケーションで大切なことは、交換する情報ではなく、情報を交換し合う行為そのものだなどということを言ってましたが、それにしても、この舞台を見て何を得たのかと考えるとなかなかに難しいですなぁ。
ただ、あの限られた舞台装置の中で、夏の暑い日にテレビを点けたまま寝入ってしまい、宅配のチャイムに起こされて、寝ぼけながら気だるく何かを受け取る都会暮らしというのが、しっかり表現されていて、何だか懐かしい感じがしたのは、面白いことでした。
なお、監督が、「うちの劇団は地方出身者が多くて」と語る中に、京都や滋賀が入っていたのは、どうでしょうか。ただ、歌詞が関西弁イントネーションだったのは、監督がわざとやっていたのかもしれません。
次回公演は奈良の平城京祉でと言っていたのが面白かったです。大阪の人は生駒山から上る朝日を見るけど、奈良から生駒山に沈む夕陽を見てみたいということですが、それは奈良生まれで今は大阪に住んでいる僕にとって、意外な視点でした。
夜の平城京祉は、本当に何もなくて、結構怖いですよ。
僕が小さい頃は、奈良の田舎なんて、本当に何もなくて、一面の田んぼの青い稲穂が、風を受けて波打っていたものです。
都会の子達と、やはり持っている夏のイメージは違うものなのでしょうね。
なお、あとでうちの奥さんに聞いたのですが、うちの奥さんは維新派を吉本ばななの文章で知ったそうです。
芝居は、「CATS」「スプラッシュ」、それから新婚旅行のロンドンで見たタイトル不詳の英語のミュージカル(いや、うちの奥さんに聞けばきっとタイトルわかりますけど)の3作で、これが4作目。
どういう心構えで見るかもわからないまま、とりあえず、客席に着きました。
しょっぱなから、何の説明もなく、舞台の上で俳優たちが踊りまくります。時代も場所も何もわからなく、歌詞もほとんど聞き取れず、パワフルで意味不明な動きに圧倒されながら眺めているうちに、ふっと意識が飛んで寝込んでしまいました。
目が覚めてからも、しばらく同じような舞台が繰り広げられていたのですが、ようやく、彼らの動きが生理的に受け入れられるようになり、徐々に歌詞も聞こえるようになってきました。
その歌詞が微妙に関西弁のイントネーションだったので、「おや?」と不思議に思いました。
結局、テレビで放映されている殺人事件とか、高校野球とか、深夜のサッカーとか、そういうのと、日傘を差した女の人とか、旅行鞄を持ち山高帽をかぶった男の人とか、野球帽をかぶった子供たちとか、墓参りとか、虫採りとか、海水浴とか、そういう夏のステレオタイプを、光と影と音と踊りと舞台装置で表現しているようでした。
映画と違って、生身の人間が生身の人間に生理的にどうメッセージを伝えられるのかという実験に参加したような気分でした。
でも、伝えようとしているメッセージは、何だかよくあるステレオタイプなので、受け入れる側としては、特に印象に残らなかったです。
「何だったのだろう、これは?」という大きな疑問を抱いたまま、舞台が終わったのですが、僕等が見た会は、幸いにして、舞台後に監督による解題があり、結局自分たちの見方が大きく外れていないことをうちの奥さんと確認しあいました。
「こんなのはパトレイバーで10年前に押井監督がやっているわよ。」というのがうちの奥さんの意見だけど、「テーマをあまり難しくすると、こういうスタイルだと本当に何をしたいのか伝わらなくなるよ。」と反論しましたが、じゃあ、そういうメッセージを受け取って何かいいことがあるのかという部分は、中々に難しい。
内田樹はコミュニケーションで大切なことは、交換する情報ではなく、情報を交換し合う行為そのものだなどということを言ってましたが、それにしても、この舞台を見て何を得たのかと考えるとなかなかに難しいですなぁ。
ただ、あの限られた舞台装置の中で、夏の暑い日にテレビを点けたまま寝入ってしまい、宅配のチャイムに起こされて、寝ぼけながら気だるく何かを受け取る都会暮らしというのが、しっかり表現されていて、何だか懐かしい感じがしたのは、面白いことでした。
なお、監督が、「うちの劇団は地方出身者が多くて」と語る中に、京都や滋賀が入っていたのは、どうでしょうか。ただ、歌詞が関西弁イントネーションだったのは、監督がわざとやっていたのかもしれません。
次回公演は奈良の平城京祉でと言っていたのが面白かったです。大阪の人は生駒山から上る朝日を見るけど、奈良から生駒山に沈む夕陽を見てみたいということですが、それは奈良生まれで今は大阪に住んでいる僕にとって、意外な視点でした。
夜の平城京祉は、本当に何もなくて、結構怖いですよ。
僕が小さい頃は、奈良の田舎なんて、本当に何もなくて、一面の田んぼの青い稲穂が、風を受けて波打っていたものです。
都会の子達と、やはり持っている夏のイメージは違うものなのでしょうね。
なお、あとでうちの奥さんに聞いたのですが、うちの奥さんは維新派を吉本ばななの文章で知ったそうです。
7月24日PM→20日FAXでOK。無料だけど、時間がつらいかも。
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasen/kawajouhou/index.html