よんたまな日々

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中田の引退について

2006年07月09日 | サッカー
中田の引退表明が教科書に載るそうで。

「自分探し」というキーワードについては、内田樹も批判的にとりあげていたし、うちの奥さんのブログにも、僕の意見が一言で実に適切にまとめてあったので、それ以上まあ書くことはないんですけど。中田英寿が、いや中田じゃなくても、自分の甲斐性においてやる分には特に問題ないのではないかと。
趣味でやるには楽しいと思うけど、本気で人生をかけて「自分探し」をやるのは不毛だという話です。今、そこにいる自分が、いくら嫌でも、自分なのだからね。

中田のような困った状態を避けるために、小野は実にうまくやっていると感じました。自分のステージをあまり上げ過ぎると、余計なプレッシャーがいろいろとかかってきて、もともとやりたかったことがわからなくなるんだよね。
(この辺、全然他人事じゃなかったりする。)

ところで、中田英寿の引退文のオリジナルを読むことがようやくできて、読んでみたら、これを読んで「自分探し」の旅に出るなんて読んだのは、どこのどいつだという気がしました。ネット記事のいくつかでは、はっきりと「自分探し」って書いてあるけど、本文にはどこにもそうは書いてないぞ。

教科書に載せるのはいいけど、子供たちに「自分探し」を勧めるのはやめて欲しい....って書こうとして、学校教育って「自分探し」だったことに今更ながら思い当たりました。
でも、探すべき自分を理想化して、ずっと答えを探し続けるのはやめましょうね。童話「青い鳥」が子供心にどうしてあんなに印象的だったのかというと、きっと答えは既に手元にあるということをきちんと教えてくれたからでしょう。

青い鳥みたいな綺麗な話じゃないけれどこういう話もあります。

追記その1
この記事を読んだうちの奥さんから、中田の文章の中に「新たな自分探し」という言葉があるよとの指摘。自分の新たな可能性を探すというのと、自分を探すというのは、微妙に言葉の使い方が違うんだけど、それを自分探しとしてとらえるというのも確かにありかもしれませんね。

追記その2
中田語録とかそういうのは昔から人気がありましたが、僕は、中田の言葉よりも、中田もスーパープレイ集がDVDで出れば、それを買っておいて、自分の中の中田という選手についてはおしまいとしたいと思います。
すごい選手であることは確かだけど、サッカー選手は言葉じゃなくて、プレーで自分を語れと思ってしまうので。

追記その3
中田と小野の違いは、プレーを楽しんでいるかどうかの違いだと思ったのですが、それは、実は中田本人も引退表明の中で書いてますね。
楽しく仕事ができれば一番いいのですが、周囲の事情がそれを許さないという状況もあるのでしょう。周囲の雑音に耳をかさず、常にマイペースで行ける人は、それができるのかもしれませんが、責任感とかプライドとかそういうのに縛られてしまうのでしょうね。


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