なんか、むっちゃ引っかかった記事です。
何を要求されているのかわからない。
多分、『無神経に「大丈夫?」と聞くな』と言っているだけなのですが、何をもって無神経と主張しているのかわからない。
だって、私はあなたのことを知らない。あなたは私のことを知らない。そういう関係で、あなたが福島県の出身であれば、地震との関係をまず聞くでしょう。
それがあなたにとって、そもそもタブーなのか、そうでないのか。タブーだとしたら、どの程度なのか。今後、虎の尾を踏まないためにも知って置きたいというのは、ごくごく当たり前じゃないですか。
彼にとって、その質問が辛いのは、推測ですが、多くの福島県民が悲惨な被害を受けた中で、彼が奇跡的に無事で、その災害が彼の上を滑らかに通り過ぎたこと。そこに福島県民としてのアイデンティティを乱す何かが存在すること。
被害者面をしていいのは、必ずしも甚大な被害を受けた人だけではありません。
激甚災害や戦争は、自分は無関係だと言うスタンスを許さない圧力をかけることがあります。すると、本当に無関係で罪悪感を感じる必要のない人まで罪悪感に駆られることがある。
その気持ちをボランティアや義勇兵への参加で発散できればいいのですが、全ての人がそうするわけにもいかず、するとその罪悪感は、内向きの刃となって自分を傷つける。
そういう場合は、ヌケヌケと本当に関係ないと知らん顔しておくのがいいですよ。無神経に「大丈夫」と答えておけばいい。
それで、「私」の割り切れない気持ちは伝わらないと不満に思うかもしれませんが、相手が同じ程度の繊細さを持っていれば、大丈夫と言ったその表情や態度から意外と通じるものですよ。通じなければ、そこまでの人だったということで。
まあ、そう思うのは、私が厚かましいおじさんだからかもしれません。
あと、「大丈夫?」と聞いてくる人をみんな無神経と断罪するのは、あなたの思い上がりかもしれませんよ。
そういう処世とは別に自分の負った傷と向き合うことはちゃんとやっておいたほうがいいですが、人間には「物忘れ」という妙薬があって、時間と共に癒えて行きます。
すると、別の記事に書いた元社長のおじちゃんのように、30年経って、やっと自分の傷を泣きながら話せるようになる人もいますので。
ちょっと痛い曲ですが、でんぱ組inc で「WWDⅡ」。
えっと、児童虐待の記事を読むのは、好きです。勿論、読んで楽しいから読むのではありません。いつ、自分が加害者になるかもしれないという恐怖が読ませるのだと思います。
だから、知りたいのは、家族の為によかれと思ってやっているはずのことが、なぜ殺すまでエスカレートしてしまうのか。
‥という話は後回しにして、この記事を先に読んでください。
最初の福島の記事と違い、この人の言うことはとてもよく分かります。
でも実際に近所で虐待疑いの家族がいたとして、この人の要求通りできるかというと、おそらく多分無理。
よその子供に声をかけるだけで、変質者扱いされそうな風潮があります。実際、愛娘のために警察が発行する防犯状況メルマガを読んでますが、「子供の声掛け事案」というタイトルで、ほぼ毎日、大阪市の北区、西区、此花区、福島区のエリアのどこかで通報があります。
全ての小学校、保育園、幼稚園で、保護者以外の大人は、敷地に入ることも、カメラを向けることも禁止されています。
そんな中で虐待疑いがあるからと、近所の人が家族を差し置いて、子供を保護し、子供の話に耳を傾けるなんてできませんよ。できるのは、明らかに虐待されているという自信があって、警察に通報されても、犯罪者は親のほうだと自信を持って断罪できる時だけ。
だから、次の記事の‥
ラーメン店主の見事な対応は、拍手する価値があります。
そして、そういうファインプレーがあったにも関わらず、なぜ、歩夢君は殺されてしまったのか、今後の裁判で明らかにされることを期待します。
最後に、最初はちょっとした叱責からスタートしたのに、なぜ殺すところまでエスカレートするのかを解説した記事をリンクしておきます。
やはり叱ることが快感で、そこから抜け出せなくなる中毒性があるのですね。
私は、一見優等生なのですが、何か相手の嗜虐心を刺激するところがあるらしく、イジメのターゲットにされやすいだけでなく、問題教師からの叱責も引き出しやすいスイッチも持っているようで、なぜかよく職員室に呼び出されて叱られました。
相手が自分が叱ることに熱中してしまい、開放されてから、結局、何が問題だったのかわからないことがありました。その割り切れない思いを共有してくれる友人がいたので、心の傷になることもなく、
「やっぱり、あいつは変な教師だ。」で終わりました。
今並べた三つの記事を読んで思ったのは、家庭や学校が密室になり、孤独化がやはり進んでいるなと。その背景には、やはりリベラル思想が推し進めて来た、多様性尊重と自己責任論がありそうな感じがします。
この問題は、また、今後いつかどこかで。
一曲どうぞ。とんぼちゃんで「ひと足遅れの春」。
私がまさに今50代ど真ん中。
家族、親戚と会社関係以外で飲みに誘えそうな人はいませんね。
友達0人。
友達0人は今に始まったわけではなく、修学旅行や遠足の班分けは、いつも「どのチームにも入れなかった」チームに入ってました。
今風に言えばスクールカースト最底辺かな。ただ、ずっとそれを苦にせずやってきたので、
「リア充、何それ?美味しいの?」人生もまた楽しいですよ。
そう言えるのは、きっと家内と娘が手の届く範囲にいるおかげですね。心の底から感謝しています。
奈良のおばあちゃんが、話をするときに、キチンと毎回名前を呼ぶ人です。それは世間一般にはいいことなのですが、これが、呼ばれると、蜘蛛の糸に絡みとられるようで、実はゾッとします。この違和感、家内には伝わったみたいで、最初の挨拶の後すぐに、
「不思議ね。」
と言いながら、その話をしてました。
そして
これも、奈良のおばあちゃんのエピソードなのですが、私が大学合格した後、「悪友のNが、受験失敗して落ち込んでるんだ」と話したところ、私の母(つまり、奈良のおばあちゃん)が、「最大の親友であるあんたが、励ましの電話かけないでどうする」と焚きつけました。
いや、そこまでの仲じゃないし、こちらは無理と言われた第一志望校に逆転合格した直後で、この明暗の差、残酷じゃね?
と思ったのですが、奈良のおばあちゃんに説得され、電話しました。
相手が電話に出た第一声が、
「お前、よう俺に電話できたな!」
「ほんま、その通りや」
と冷や汗掻きながら、勿論自慢目的じゃなく、お前のことが心配なんだと一生懸命説明し、相手の浴びせる毒にひたすら耐え続けて40分。電話を切ることができた時は、床に倒れ込むほど疲れていました。
奈良のおばあちゃんに「ほら、大変だったやろ。」と言おうと、リビングに戻ったら、あちらはテレビを見ながら高笑い。
「相変わらず長い電話やったな。」と言う無神経に、この人のアドバイスは、今後、絶対聞かないと思いました。
なお、この後、Nとの腐れ縁は途轍もなく強化され、彼の伊東傷心旅行にも付き合いましたとも。
この記事の精神科医の先生には、奈良のおばあちゃんに通じる、天然の無神経な悪意を感じます。
佐藤竹善と夏川りみのカバーで「僕の胸でおやすみ」。
最後にちょっとお気楽な記事を。
この二つ、買っても使いこなせないし、置く場所もないですが、欲しいです。
この椅子に座って一日ゲーム三昧とか、ミクちゃんとライブ気分で合唱とか、やってみたい。
最後に二曲。
「春先小紅」
acid black cherry で、異邦人
こんばんは🌃
コメント失礼いたします。
いろいろ考えさせられる記事でした。
虐待の話は
胸が締め付けられるように
痛みます。
友達もいろいろですね。
私の友達のご主人は
お友達がひとりもいない人みたいで、
奥さんが
「寂しくないの?」と聞いたら
君(奥さん)と子供達がいるから
大丈夫と
答えたそうです😊
幸せは自分の心が決めているんですね✨
愛娘が本気で嫌がっている時のキックをまともに喰らうと、息が詰まります。
蹴られないように足を強く押さえていると、ここで冷静さを無くすと、虐待だぞと、冷や汗が出てくることがあります。
虐待とそうでないラインがどこにあるのか、いつも意識しています。
だからこそ、虐待記事は目が離せません。なぜ一線を越えてしまうのか。まだ答えは見つかっていません。
一方、「友達いません」はお気楽です。小学校の頃から友達少なかったので。
自立とは誰にも依存しないということではなく、なるべく多くの人に分散して依存することだという言葉があって、納得しているのですが、精神面で家内に依存し過ぎているかなと、ちょっと心配です。
その点でブログはいいですね。一言貰えると、また、頑張れる。
家族のおかげで、「今幸せですか?」と聞かれると、自信を持って「はい」と答えられます。