あの偉大なコンピューターの始まりも
いくら世界で指折りの天才だといえど一人のの力では作り出すことはできなかったけれど
現実問題 自分が急きょ入院しなければいけなくなった時でさえ
だれかかれか 身内の承諾が無ければ 救急病院へさえ搬送してもらえない現実を思い出しました。
だけれども 自分ではすでにしゃべる力も無くなっている人は?
路上で 意識不明になっているとか 認知で道端にばったり倒れているとか?
やっぱり どこかへは搬送していますよね・・・
病院側が厳しく言うには理由もあって
いざ入院となると それは お金を払わずに逃げ出す患者がいるからだと 誰かから聞きましたけれど
全くの一人ぼっちの人は 病院までは到着しても 長い時間 放置されるのかしら?
どちらにしても しっかりした家族がついている人と いない人では
待遇が違う事は目に見えるようです。
(母が認知になり肺炎で入院していた時もそうだった。
「めったにご家族の来ない患者は 後回しでいいのよ!」と言う
廊下を歩きながら後輩を指導している看護師の言葉を忘れることが出来ませんけれど
一人でも好きなように生きていけると思うのは 早合点で
どうも 命は お金より 軽い らしい・・・
どこから読めばいいのか迷いましたけれど
古い順からと思い 自分なりに並べてみました。
いまごろ のんちゃんは 空の上から 子供の成長を見守っていることでしょう。
ほんとに!よく頑張りました!!
・・・わたしは やっぱり もう手術とか入院とかは選択しないでおこうと思います・・・
70も過ぎて 苦しみたくない・・・
みんな 生まれて死ぬまで 自分で選べない運命の中を漂っているのよ
わたしは そう思います。
かかりつけの病院に連絡をとってもらうと、
同居人、つまり元夫か、あるいは実家の母の意思が確認できない限り、受け入れできませんとのことでした。
幸せのハードルを自ら高くしてしまう人は、一生不幸です。
たとえば、「両親の顔を見たことがある」というたったこれだけの幸せも、私にはありません。
両親の顔を知っているのなら、あなたは私よりも幸せです。
たとえば、「32歳の誕生日を、ガンにならずに迎える」という幸せも、私にはありません。
もしあなたが32歳の誕生日を健康に迎えたことがあるのなら、あなたは私よりも幸せです。
もし、この両方とも揃っているのなら、あなたは私よりずっとずっと幸せです。
それ以上の、何を望みますか?
お金が欲しいですか?
愛情が欲しいですか?
時間が欲しいですか?
何が不満ですか?
夫の給料が少ないことですか?
妻の体重が増えてきたことですか?
子供の好き嫌いが多いことですか?
満たされないものをひとつひとつ数え上げるよりも、今までに自分が手にしてきた幸せを、数え上げてみませんか。
人間は、生まれたときからすでにプラスかマイナスを背負っています。
生まれたときに沢山のマイナスを背負っている人は、ゼロを目指すだけでも大変な思いをしなくてはならないし、
沢山のプラスを持って生まれた人は、たいした努力をせずとも、何でも手に入りやすいことでしょう。
「人類みな平等」だなんて、幻想に過ぎません。
先生は、まずは鼻から出たチューブと、その先にぶらさがっているドレーンバックを見て、
「出血が減ればこのチューブは外れますからね、もうちょっと我慢して下さいね」
と言いました。
そして、続けてこう言いました。
「前にお話しましたけどね、やはり肝機能がとても落ちているんですよねえ。
なんというか、肝臓をフィルターに例えると、目が詰まっちゃってる状態なんですよね。
普段、身体の中の血から栄養を受け取ったり、身体の中の毒素を綺麗にしたりする役目を果たしてるんですがね、それがもう、間に合わない状態になっているんです。
内臓全体に癌が広がっていますから、かなり肝臓に負担がかかってますし、もちろん肝臓そのものも癌で傷んでいるんですよ。
でも、身体の血液は容赦なく肝臓に流れ込もうとするわけなんですよ。
それで、CT検査でも見えてるんですがね、血液はなんとかして肝臓に入ろうとして、迂回路を形成していました。おびただしい数の血管が、ふくれあがっている状態です。
でも、結局はそれらの血液は肝臓に入っていけないわけですから、どんどん膨れ上がっていくしかないわけです。
それで今回、何かほんのちょっとした刺激が加わって、内臓を走るそのふくれあがった状態の血管が、切れたんでしょうね。
全部が切れたわけではないと思いますし、今回かなりの量の出血があったせいで、たまってた血液がだいぶ外に出ましたから、今は鬱血も減って落ち着いてると思います。
ですが、いつまたこういう大出血があるかわかりませんし、この出血も、止まるかどうかわかりません。」
私は、うんうんとうなずきながら、先生の話を聞いていました。
もしかしたらずっとこのチューブが抜けないのかもしれないと思うと、涙が出そうにもなりました。
でも、先生の最後の言葉で、涙は出ずに済みました。
いえ、出ずに済んだというより、ショックで涙が出なくなってしまいました。
先生は私に、こう言ったのです。
「○○さん、私たちもこれまで色々治療して来ましたが、もうこれ以上打つ手はありません。それでは、失礼します」
もはや私は、余命2ヶ月を切りました。
今日はそういうお話でした。
静脈瘤もできて、いつ出血が起きてもおかしくない状態であること。
出血が起きたとしても、もう輸血を行う予定はないこと。
内視鏡や鼻からのチューブで、私に苦しい思いをさせることはしないということ。
調停だとか、裁判だとか、そんな長引きそうな話は、もうやめたほうがいいということ。
いかに、自分らしく最期を迎えるか、それを考えて下さい、ということ。
死にたくない
例えばね、私が小学生のときにこんなことがあったの。
私は、学校であったいやな出来事を、一生懸命ママに話してたんだけど、ママはちっともこっちを見ないで、ずっと雑誌を読んでるの。
だから、聞いてみたの。「ママ… 私の話聞いてくれてないの?」ってね。
そしたらママはこう言ったの。
「あんたの話なんか聞いてないよ、いつも」
ねえ神様。
そこにいるんでしょう?
出てきなさいよ。
私がいったい何をしたっていうの。
どうして、こんなにもひどいことしか、私には残っていないの。
答えて。
まともな答えがないなら、殺してやるから。
ほら、さっさと出てきなさいよ。
まだ、指先や胸、尿道、両腕に色々な管がついていますが
あのたったひとつのチューブが抜けただけで、もう何もかもから解放されたような気持ちでした。
看護師さんが3時半頃に定時の検温に来たとき、軽く目が覚めました。
母はソファに座って、病院が貸し出している文庫本を読んでいました。
血圧測定も終わって看護師さんが出て行くと、母は帰る準備をはじめました。
母は、こう言いました。
「あんたがすぐ死ぬかもしれないって、先生があんまり急かすせいで、
中国語の勉強道具忘れてきちゃったんだよね。
でもまだしぶとく生きてるし、小説読むだけしかできないなら時間もったいないし…
教科書とか取りに青森帰ろうかな、いったん」
あまりにも憎らしげに言うものだから、私は、静かに目を閉じて、またすぐに眠ってしまったフリをしなければなりませんでした。
「もう、続きを言っても聞こえていない」と思ってもらえなければ、さらに長々とイヤミを言われ続けるだろうと思ったからです。
母は軽くため息をついて、病室を出ていきました。
私は、閉じた目から涙が溢れるのを、止めることができませんでした。
33年にも渡って、一度も私とまともに接してきたことのない、戸籍上の母。
心底うんざりします。
彼女に利用されるのはいつもこんな時ばかりです。
曲がりなりにも看護師として働き続けていた彼女ですが、寝坊して遅刻したりすると、必ず私のせいにされました。
同居を始めてからのことですが、確かに私は学校に行く準備をしているというのに、「娘が熱を出して寝込んでいまして、少し遅れます」と、電話口で話す彼女を、幾度となく見ました。
「女手ひとつで育てているのだから」と、周りに必死に言い訳する姿が、憎くてたまりませんでした。
毎朝早く起きて私のために弁当を作り、朝食の準備をし、夕方には晩御飯を共にしてくれているのは、祖母でした。
それほど多くもない年金から、お小遣いをそっと渡してくれるのも、長かった私の髪を綺麗に編んでくれるのも、祖母でした。
少し曲がり始めた腰を、辛そうにしながらも家の隅々まで綺麗に掃除して、チラシを見ながら毎日の献立を考え、買い物に行くのにも、車はおろか自転車も乗れない祖母は、いつもしんどそうでした。
大雪の日には、私の制服の裾が汚れないようにと、庭先の雪かきを済ませてくれていたのも、やっぱり祖母でした。
「最後の娘だと思って育ててるから」と、何でも相談に乗ってくれて、時には厳しく叱ってくれるのも、当然祖母でした。
…それでも私は小学生のとき、「母の日」に、ためていた小遣いで祖母と同じようにカーネーションの小さな花束を買って彼女にプレゼントしたことがありました。
そのときに、花を受け取ろうともせずに彼女が言った言葉は、
「これ買ったお金、いつ誰からもらったの?」
でした。
・・・略・・・
私の場合、怒りや寂しさ、悲しみ、救いを求める気持ち、憎しみは、外に向くことなく内へ内へと向かっていきました。
その結果、初めて自分の手首を切ったのが、小学6年の7月のことでした。
人差し指が使えず、打ちづらかったキーボードも、楽に打てます。
少しずつ、「死を目前にした人間」から、元気になっているのを感じます。
先生が「もう助かりません」と言ったから、だから、なんだというのでしょう。
私は今こうして生きているではありませんか。
人間は誰しも、必ず死にます。
そうであるなら、私は、ほかの誰とも変わらない立場でしょう。
いつしか死ぬ。そうわかっていて、でも今生きているから、今を精一杯生きるのです。
私は今生きています。
生きていたいと思っています。
確かに、先は短いのかもしれません。
でも、ちゃんと生きようと思います。
私はまだ生きます。
まだ、死んでいるヒマなんかないんです。
先生が死ぬと言っても、
誰かが私を、助からないと決めつけても、
身近な誰かが、私の死を願っているとしても、
私は、生きていたいんです。
この一歩から、次の一歩へと踏み出す力がある限り。
みんなからの千羽鶴
虹色を描く 色とりどりの千羽鶴
もしもし?あ、のん?
うん、大丈夫だよ
あたしはいつでも大丈夫だから、もう気にしないでいつでも電話ちょうだいよ
今日調子どう?
うん、うん… そっかぁ 辛いねぇ
2000年、3月28日うまれ。
・・・略・・・
ママ、あなたに伝えたいことがたくさんあります。
たくさんたくさん、あなたに伝えておきたいことがあります。
誰よりも大切なあなたのために、遺しておきたいことがたくさんあります。
とっても長いけど、どうか、ゆっくりで良いからこれを読んでください。
しばらく日記をお休みするかもしれません。
2週間ほど。
理由は、無理がたたって体調の悪化したことと、
あと、ちょっとまだ日記が追いついてませんが転院することになりまして、
その転院先の病院がパソコン持ち込み禁止(いまどき)だからです。
さくです。
どうしても悲しいお知らせしか持ってくることができませんでした。
のん は20009年12月5日の深夜、2年半の闘病の末旅立ってゆきました。
静かな静かな最期でした。
私自身気持ちの整理が付かず、皆様への連絡が遅れましたことをお詫び申し上げます。
私がブログを読みながら これを書いていた4時間の間に
彼女のカウンターは 450回 上がり続けました。
生き続ける のんちゃんですよ
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