松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

自分が生まれる前に  キケロ

2013-03-06 | インポート

自分が生まれる前に起きたことを知らないでいれば、ずっと子どものままだ  キケロ

標題のことばは平成24年12月8日に掲示した言葉です。10月は『葉隠』でした。11月は中国明代の禅と淨土教を修めた雲棲袾宏(うんせい しゅこう)の言葉でした。
漢字が続いたから今月は洋ものにしjました。マルクス・トゥルリウス・キケロ(BC106~BC43)の言葉です。日本国語大辞典によれば、キケロはローマの政治家で雄弁家で文人だったとか。古代は雄弁家という職種があったのだろうか。
標題のことばは、恥ずかしげもなく白状すれば孫引きです。何からの孫引きかというと、平成24年12月7日付け日経新聞朝刊「春秋」欄で、12月8日の開戦に関連した記事で引用されたものです。女子高校生や大学生がよくテレビのインタビューなんかで言うじゃないですか。
「真珠湾攻撃。なにそれ。だって生まれてなかったもん」
という、あれですよ。歴史に学べというわけです。
私は「生まれてなかったもの」とは言わないけれど、少し前まで「それって修行道場にいた時で知らなかった」と逃げることがよくありました。禅の道場にいた時に、国鉄がJRになり、電話公社がNTTになり、知らない出来事は僧堂時代のせいにして無知を非難する眼から逃げていました。テレビもないし、ラジオすらもない。新聞は老師(住職)だけがとっていて、風呂を薪でたくから、焚き付けに古新聞があって、数日前の出来事をちらった見たりしていただけ。世の中の動きなどに惑わされていたら、坐禅修行の妨げになるということでしょうか。だから、知らないことは、道場時代の情報空白のせいにして、無知のそしりをかわしたわけです。
私なんか、学校出てすぐに道場に行ったから、世の中の動きにそう敏感ではなかったけれど、道場には色々な仕事を経由してくる者がいた。私の同期には代議士秘書なんてしていたのがいた。彼は風呂のたきつけ時に、古新聞を食い入るように盗み見みしていたな。
現在でも道場内の情報量というのは、大して変わっていないのではないだろうか。浮き世ばなれしているけれど、世の中の情報から少し遮斷された空間と時間もまた粋なものです。
3月の春彼岸法要後に電子楽器ウダーを演奏してくれる宇田道信さんは、テレビは見ないと言ってました。格好良い生き方です


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心の直きこと箭の如く  遂翁元盧

2013-03-03 | インポート

2013thumb270xauto376_270x308心の直きこと箭の如く 善を積み仁をほどこす 奢らず足るを知る 是れを名づけて福神と名づく 遂翁元盧

標題の言葉は平成25年1月元旦に掲示した言葉です。元旦の言葉を3月3日の桃の節句にコメントしているのは、某師から「たまにはブログを更新しなさい」と叱られたので、過去にさかのぼってまとめて書いているわけ。
平成25年元旦の言葉は、遂翁元盧(すいおう・げんろ)禅師の画賛です。どこから引用したかというと、平成25年の禅文化カレンダーが遂翁特集。その表紙が「恵比寿、大黒に酒を酌む図」で、「心の直きこと箭の如く 善を積み仁を施す奢らず足るを知る 是れを福神と名づく」と賛が添えられています。恵比寿さんと大黒さんが酒を酌み交わしている楽しそうな画で、二人の前には1本の真っ直ぐな箭が置いてあるります。
禅師の略歴禅風画風の解説は辞典と評論にお任せするとして、このほほえましい画をみていると、大黒さんと恵比寿さんの酒盛りは、足るを知って適当な酔い具合で終わるとは思えない。ちょっと一杯のつもりが、大黒さんも恵比寿さかもお酒が強そうだから、二日酔いにはならないだろうけれど、果てしない酒盛りが続きそうな絵柄です。
お酒に関する禅語は幾つかありますが、私がいちばん好きなのは「泉州白家酒三盞 喫了猶言未沾唇(せんしゅうはっかさけさんさん きっしおわってなおいういまだくちをうるおさずと)」です。
「大吟醸の銘酒を大茶碗に三杯ものみほしたけれど、呑んだ覚えもない」といった意味の禅語です。禅語の深意は機会を改めて書きたいけれど、3年前に亡くなった大酒飲みの坊さんの葬式で、某老師が引導の送別の一句にこの句を使ったのが忘れられない。私の葬儀も、この一句で送ってもらえたらと思うのですが。
遂翁の略歴については、一昨年(2011年)に花園大学歴史博物館で開かれた、遂翁の禅画墨跡展のパンフレットに次のようにあります。

ユーモア溢れる禅画により、世界的に注目を集めている白隠慧鶴(はくいん・えかく/1685~1768)。近年、人々を魅了する禅画は白隠画だけにとどまらず、白隠の弟子たちによって受け継がれた禅画にも目が向けられています。
白隠下において、その筆頭にあったのが東嶺圓慈(とうれい・えんじ/1721~92)と遂翁元盧(すいおう・げんろ/1717~89)。東嶺と遂翁の禅画には、「微細東嶺、大器遂翁」と評される禅風とは相反する個性が見られます。東嶺は大胆な筆遣いによる豪放さが特徴であるのに対し、遂翁は白隠画を謹直に学ぼうとする姿勢があらわれています。


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法句経63

2013-03-03 | インポート

『ブッダ 真理のことば』 2012年3月 (NHK100分de名著) 『ブッダ 真理のことば』 2012年3月 (NHK100分de名著)
価格:¥ 550(税込)
発売日:2012-02-25

愚かな者が自分が愚かであると自覚するならば、彼はそのことによって賢者となる  法句経63

平成25年2月のことばは読んだだけで、なんとなくわかる言葉だと思います。なんとなくわかるのと理解して体得するのは別ですが、なんとなくで良いのではないでしょうか。原典は法句経です。法句経は佐々木閑教授がNHKテレビテキスト『真理のことば』で次ぎのように定義しています。

仏教の開祖であるブッダの言葉を短い詩の形にして四百二十三句集めたのが『ダンマパダ』です。漢訳は『法句経』と言い、日本では『真理のことば』という題名でも翻訳されています。数ある仏教の経典の中でも、とくに古い部類に属するものです。(途中略)「釈迦の仏教」は、念仏を称えれば救われるといったような、誰かに救いを求める宗教ではありません。自分の道は自分で開けという厳しい教えです。しかし、むしろそういう厳しい仏教のほうが、現代の人びとには受け入れやすいのかもしれません。アメリカでは、この「釈迦の仏教」にもとついて、普段の生活の中に羅を取り入れ、自律的な生き方を目指す「ナイトスタンド.ブディスト」と呼ばれる信者が急増していますし、私が受け持っている社会人学生の方々も百分の力で自分の人生をなんとかしようというブッダの考えに共感している人が多いようです。いわゆる「神頼み」でないブッダの教えは、拝んで助けてもらう救済の宗教よりも、合理的な現代人の志向に合っているということでしょう。

今は「教育テレビ」といわずにEテレというらしいけれど、Eテレ「100分de名著」シリーズのテキストから引用しました。最初の放送は2011年9月で、12年3月にも再放送された。続いて、今年2013年1月の「100分de名著」シリーズで佐々木教授が取り上げたのは、「般若心経」だった。このテキストがひとときベストセラーの一画を占めていたので、買って読んでみた。最初の数ページを見ただけで、売れている理由がわかります。切り口が、これまでの般若心経本と違うのです。なんで、これまでこの視点から心経を読んだものがなかったのか、と新鮮さに驚く本です。どういう視点かというと……、テキストかを買って読んでください。斬新さに驚くけれど、もし私が般若心経の執筆を頼めまれたら(誰も頼まないけれど)、心経の秘密として、不とか無という否定語の多さから解き明かそうとは思っていた。と書けば、「100分de名著」版般若心経の斬新さのヒントになるでしょうか。
佐々木閑教授の論文でない一般書は、超難しい仏教を平易に説いてくれるので、なんとなくわかる気になるところが凄い、と思うのです。


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亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ 寺山修司

2013-03-02 | インポート

影たちの棲む国 影たちの棲む国
価格:¥ 1,631(税込)
発売日:1996-12

標記のことばは平成24年8月10日に掲示した言葉です。それを半年以上経った25年3月3日にブログしている。お盆の句を数ヶ月後の桃の節句に書いているわけ。なんで、そんなことをしているかというと、あんまり更新しない我がブログを「たまには新しくしなさい」と某人物からお叱りを受けた。それで書きやすいものから書いて、提出期限のきれた宿題をやっているというのがいきさつです。
さて寺山修司の歌。お仏壇を掃除したのでしょう。手にした位牌の裏に指紋がついて、亡くなった母が紋様のように複雑に思い出される、というお盆にはまったくもってあつらえむきの歌なのです。
しかし、天才寺山修司が、坊さんの下手な説経にうってつけの歌などつくるわけはない。
寺山修司は1983年(昭和58年)に47歳で亡くなっている。母のはつはその後、91年12月に78歳で亡くなる。つじつまがあわない。虚構の歌であるが、寺山修司ファンにはよく知られた事実です。歌人佐伯裕子が『禅文化』誌に次のような文章を寄せている。

寺山は、青森高校1年生の時に、『東奧日報』に「母逝く」という一連を作っている。驚くべきことに、母がまだ健在なのに、すでに亡きものとしてうたった高校生だったのである。
 母もつひに土となりたり丘の墓さりがたくして木の実を拾ふ
(途中略)ひとたび生まれたとたん、人は時間からも、血縁の愛憎からも逃れられない。一連の歌からは、虚構とか事実とかを越えた人間存在の深い闇かが浮きあがってくるのである。(2012年223号137頁)

寺山修司の歌論は各種あるので、そちらにおまかせするとして、少し前から佐伯裕子という歌人が気になっている。なぜかというと、佐伯氏に「恋歌 与謝野晶子と古川大航」(『影たちの棲む国』所収)という歌論がある。大筋を書けば、与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれもせでさびしからずや道を説く君」の君は、妙心寺派の管長を長くつとめた古川大航師だというのです。推理小説のようなこの歌論。おもしろいのですが、そのことは機会を改めて。


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私は梅 あなたは桃

2013-03-02 | インポート

Img_4708私は梅/あなたは桃/どこかで一つに融け合っている/融け合いながら/私は梅に咲き/あなたは桃に咲く

博多のB和尚さまから「たまにはブログを更新しなさい」とお叱りをうけたのは昨日でした。
B和尚さまだけではなくて、横浜のY.Tさんからも、「最近、新しくならないわね」と言われていたのですが、やはりB和尚様の一言が身にしみて恐いので、さっそく書いているという次第です。いずれにしても、読んでくださる方がいるのは有り難くうれしてことです。
2月末日から昨日まで、1泊2日で寺を留守にしていました。今朝、暁鐘(=ぎょうしょう=朝の鐘)をついて朝課(=ちょうか=朝のお勤め)をすませて、山門を開けるために庭に出ると、梅の花が5輪ほど開花していました。つぼみもずいぶんと大きくなっています。わずか、2日留守にしていただけなのに、すごい変化です。いや、大きな行事を前にしていて、緊張で梅の変化など見過ごしていたのでしょう。
鐘をつくにも、門を開けるにも、その梅の前を通過しなくてはならないので、明けきらない早朝に気がつきました。「夜の梅」という羊羹があるくらいだから、梅には夜のイメージがあります。梅を歌った名句に、林ポの「暗香 浮動 月 黄昏=あんこうふどうつきこうこん=ほのかに漂う香りは、おぼろな月影に揺れ動く」もある。でも、明けきらぬ早朝の梅もよいものです。
街中の狭い境内に咲く梅の木です。昭和20年8月14日の空襲ですべてを焼失して一つひとつ建てて壊して、壊してつくった寺だから、鉄筋コンクートあり、木造あり。瓦屋根あり、銅板ありでまったく統一性のない寺です。でも、樹木が大きくなり、建物を隠し、目に慣れてくるとどうにか融け合ってくる。しかし、建物の目的も違うし作り方が同一になることはない。
なんて書いて、どうにか強引に今月のことばと結びつけてきたのが、おわかりでしょうか。
今月の言葉は榎本栄一さんの詩です。榎本さんは、明治36年10月兵庫県淡路島生まれ。六十歳頃より「詩」を発表。平成3年、「心の時代」に出演。平成6年仏教伝道賞を受賞。平成十年に九十四歳で亡くなられた浄土真宗の教義をもとに多くの詩を作った詩人です。
この詩を読んで最初に思い起こしたのは、淨土真宗大谷派が蓮如上人500年遠忌の時にテーマにした「バラバラでいっしょ」のキャッチフレーズでした。その頃、わが妙心寺派のキャッチフレーズは何だったかしら。思い出せないくらいだから、たいしたものではないのですが、京都駅の新幹線ホームからよく見える大看板に書いてあった、「バラバラで一緒」の文字を見たときの斬新さへの憧れは今も忘れられません。他宗派の教義にかかわることだから、その心はは真宗大谷派にお聴きください。
禅で同じような言葉を探せば……。いくつかの禅語が思い出されますが、それはまた機会を改めて。

                        


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