自分が生まれる前に起きたことを知らないでいれば、ずっと子どものままだ キケロ
標題のことばは平成24年12月8日に掲示した言葉です。10月は『葉隠』でした。11月は中国明代の禅と淨土教を修めた雲棲袾宏(うんせい しゅこう)の言葉でした。
漢字が続いたから今月は洋ものにしjました。マルクス・トゥルリウス・キケロ(BC106~BC43)の言葉です。日本国語大辞典によれば、キケロはローマの政治家で雄弁家で文人だったとか。古代は雄弁家という職種があったのだろうか。
標題のことばは、恥ずかしげもなく白状すれば孫引きです。何からの孫引きかというと、平成24年12月7日付け日経新聞朝刊「春秋」欄で、12月8日の開戦に関連した記事で引用されたものです。女子高校生や大学生がよくテレビのインタビューなんかで言うじゃないですか。
「真珠湾攻撃。なにそれ。だって生まれてなかったもん」
という、あれですよ。歴史に学べというわけです。
私は「生まれてなかったもの」とは言わないけれど、少し前まで「それって修行道場にいた時で知らなかった」と逃げることがよくありました。禅の道場にいた時に、国鉄がJRになり、電話公社がNTTになり、知らない出来事は僧堂時代のせいにして無知を非難する眼から逃げていました。テレビもないし、ラジオすらもない。新聞は老師(住職)だけがとっていて、風呂を薪でたくから、焚き付けに古新聞があって、数日前の出来事をちらった見たりしていただけ。世の中の動きなどに惑わされていたら、坐禅修行の妨げになるということでしょうか。だから、知らないことは、道場時代の情報空白のせいにして、無知のそしりをかわしたわけです。
私なんか、学校出てすぐに道場に行ったから、世の中の動きにそう敏感ではなかったけれど、道場には色々な仕事を経由してくる者がいた。私の同期には代議士秘書なんてしていたのがいた。彼は風呂のたきつけ時に、古新聞を食い入るように盗み見みしていたな。
現在でも道場内の情報量というのは、大して変わっていないのではないだろうか。浮き世ばなれしているけれど、世の中の情報から少し遮斷された空間と時間もまた粋なものです。
3月の春彼岸法要後に電子楽器ウダーを演奏してくれる宇田道信さんは、テレビは見ないと言ってました。格好良い生き方です