生ぜしも死するもひとり柚子湯かな 瀬戸内寂聴
師走のことばは、ご存じ寂聴尼(1922~2021)の句集『ひとり』(深夜叢書社)からとりました。この句集は寂聴さんが亡くなってから手に入れました。正直に白状すれば、寂聴さんの本ってあまり読んでないのですよ。 お話は実際にホールで聞いたことがあるし、テレビのドキュメンタリーでもたびたびお姿がみえたし、身近に感じていて知ったつもりになってしまい読んでない。だから、「きみという女は、からだじゆうのホックが外れている感じだ」。そんな書き出してはじまる『花芯』なんていう危ない小説は読んでないし、「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」とかいう小説も読んでない。
ただ、そのものずばりの小説、『釈迦』(新潮社)は読みました。「雨の中をアンババーリーの娼館から帰ったら、竹林の小舎の中で、世尊はまだ眠りつづれられていた」と書き出されるこの小説。漢訳仏典に「娼(あそびめ)」はときたま登場する文字だけれど、寂聴尼『釈尊』には、釈尊の弟子のアーナンダが自らの体の衰えを描写する次のような一節もある。
「陰毛の茂みにきらりと光るような白いものを見つける」。
こんな表現のある釈尊伝。面白いですよねー。面白いけれど、寂聴尼の著作は膨大で、なおかつ東奔西走のご活躍だったから、読んだ気になって、聴いた気になって、読みもしてないし聴いてもいない。という私のような怠け者が少なくはないのでしょうか。
さて、冒頭の俳句です。これには本歌(もとうた)があります。するどい方はおわかりでしょうが(私はわからなかった)、一遍上人(1239~89)が次のような言葉を遺しています。
「生ぜしもひとりなり/死せるもひとりなり/されば人とともに住すれども/ひとりなり/添いはつべき/なきゆえなり」
寂聴尼は、句集に『ひとり』と名付けたのは、一遍のこの言葉によると「あとがき」でタネ明かしをしています。また、
「(おのづからあひあふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり)という一遍の歌は、私の護符であった。ふりかえってみれば、私の書いてきたものは、はからずも、一遍のこの言葉やこの歌のこころを、ただ追い需(もと)め、なぞっていたのではあるまいか」(『瀬戸内寂聴全集 第17巻』新潮社)
とまで書いておられる。生前、北東北の古刹の境内に集まる何千人の聴衆を前に、愉快な法話をされていた尼僧の生涯のテーマは、「ひとり」だったのかもしれません。
瀬戸内寂聴『ひとり』。おすすめの句集です。おっととと、もうひとつ手に入れなければならない令和五年の句集がありました。梅沢富美男『句集 一人十色』(ヨシモトブックス)。まだ、手もとにありません。