死を忘れると生がぼやけてくる
七月下旬に夕立があって、一輪の蓮の花ビラが全部落ちてしまい、風もあったので吹き飛ばされてしまいました。翌朝、あちこちへ散らばった花びらを集めて、鉢の周囲にそれらしくまいたのですが、どうも綺麗にいかない。センスがないからだと言われてしまえば、それまでですが、作意があると美しくならないものです。冒頭に掲げた写真は、その数日後、作意なしに自然に落ちるところに落ちた花びらです。
落ちるところにおちるといえば、�輾(ホウ)居士の「好雪片片、別所におちず」を思い出します。この禅語の由来を書けば良いのですが、その気力を熊谷の暑さが奪ってしまう今日です。
さて、今月のことばは曹洞宗の青山俊董師のことばです。よく講演などで口にされることばのようです。著作にもあるのかもしれませんが、筆者はあまり熱心な読者ではないので不明です。
7月末から8月初旬にかけて衝撃的な事件と痛惜な自死が報道されて、このことばの重要性が増したのか、あるいは「ぼやけてきた」のか。その両方だと思うけれど、まったくなんとも言いようのない、炎暑の出来事です。