蒔かぬ種は生えぬ 井原西鶴『世間胸算用』より
写真 千田完治
旧年の晩秋、ベランダのプランターに小松菜の種をまきました。数年前に購入した古い種だったからでしょうか。3週間たっても芽をだしません。あきらめてプランターをかたづけようとした朝、小さな双葉が顔をだしていました。有効期限が過ぎたお古だって、芽が出るんだ!蒔いてみなければ芽は生えない!!
さて、正月のことばは井原西鶴(1649~93)の『世間胸算用』にあるせりふです。この物語は副題が「大晦日(おおつごもり)は一日千金」とあることからもわかるように、大晦日の話です。それを正月のことばにするのは、ちょっとねー……ではあるのですが、種まきは新春にふさわしい。西鶴晩年の作品からよく知られた名言を取りだしました。
そういえば、これによく似たことばが禅の書物にもあります。『臨済録』という語録に次のようなエピソードが紹介されています。登場人物は臨済義玄(?~866=りんざい・ぎげん)と黄檗希運(?~856ほおうばく・きうん)の二人、会話の場所はというと現在の地名でいえば、中国は江西省の黄檗山。現代語訳を『沖本克己仏教学論集』(山喜坊)から、丸借りします。
師(臨済)が松を植えていると、黄檗が尋ねた、「こんな山奥にそんなものを植えてどうするつもりなんだ」。師、「まあこの寺の境内の飾りになり、ついでに後人の目印になるかと」。
これは臨済栽松(りんざいさいしょう)と呼ばれる有名な会話です。我が寺名、松岩寺の由来は、この問答にあると思われます。「景観をよくするためと目印にするために松を植えている」という、説明する必要のない光景です。でも、緑化運動のスローガンじゃあるまいし、こんな会話が千年以上も生命を持ち続けたのは、何かあるはずだ。怪しい。現代語訳してくれた、沖本克己先生は次のように謎解きをしてくれます。
「本当に松を植えていたのか、植木屋があるわけでもないから松の苗はどこから手に入れたのか、もともと深山には松は幾らも自生している。とすれば、単に苗を植え換えていたのか、あるいははびこる苗を間引いていたのか、そんなところだということになる。そして、どちらにしてもそれは境内の彩りにも目印にもならぬ、ほんとんど無駄な作業でしかあるまい。バカバカしいことをしておる、(途中略)敢えて無駄なことに精を出し続ける姿に将来を託し得る資質を見た」
コスパ(費用対効果)とかタイパ(時間対効果)などと、せちがらい言葉がのさばる今だけど、無駄と思われることに熱中する時空にはすがすがすがしい風がながれているだろうか。
もう一つ、現代版「栽松」の話があります。舞台は岐阜県伊深にある正眼寺、登場人物は今春から妙心寺派管長に就任する山川宗玄老師。凄い松の話なんだけど、紙幅が尽きた。近いうちに、書きましょう。