ピンネリシの麓に広がる石狩平野の田園風景。
石狩川々上に建設中の徳富(トップ)ダム・25年竣工予定。
石狩当別駅から新十津川駅の学園都市線を走る気動車両
昨年(2011年)は、東日本大震災(3/15)や台風12号(9/8)による豪雨災害など天変地異が各地に甚大な被害をもたらした。
太平洋戦争で、母の生誕地・疎開先・奈良県十津川村(県の6分の1を占める日本一の村)で中学卒業まで過ごす。そんな訳で、十津川は私の縁(ゆかり)の地である。
明治22年(1889年)8月,奈良県吉野郡十津川を集中豪雨が襲った。
集落は豪雨により大崩壊をもたらし、死者が168名。生活の場所を失った生存者を含む600戸2489人は、新天地北海道 へ移住することになった。
※ロシアの南下を危惧して、明治7年に北海道屯田兵制度を布く。石狩地域の農地開拓が急務であった。
永山武四郎北海道長官の尽力で、被災2ヶ月後に神戸港から小樽港 へ3班に分かれて船で移動。小樽(宮手)からは幌内鉄道で札幌を経由して現在の三笠市(幌内炭鉱)、そして、現在の滝川市 (屯田兵舎)まで移動し、非常に狭い場所で11月以降ひと冬を過す。
1890年6月、彼らが入地したのはトック原野(抽選で開拓地を決定)。現在の徳富(とっぷ)川流域。十津川移民は「新十津川」村落を形成した。これをもって、1890(明治23)年に新十津川が開村となった。
住民は稲作に力を注ぎ、大正時代には寒さに強い水稲品種「玉置坊主」 が開発され、道内に稲作が根付き、現在の石狩平野が「ゆめぴかり」・「ふっくりこん」・「ななつぼし」など米の生産地として名を成した由来となる。
その後、互いの交流の場として、関東地区(東京)に「関東十津川卿友会」が誕生。100年以上も続くこの会の「歴史と絆」をまもりながら、毎年、総会をはじめ、親睦会・各種見学・カラオケなどを通じて、十津川村(母村)と新十津川町(北海道)出身者の交流を深めている。
今回の豪雨災害時にも、母村(十津川村)に対して新十津川町役場は5000万円の義捐金と職員3名の派遣を即決いただいた。
この機会に、我々卿友会(ごうゆうかい)・有志10余名は夫々「開町122年記念式典」(毎年6/20に開催)に出席を兼ねて、新十津川町を訪問することになった。
私は、少しでも先人の足跡を辿りたく思い、新千歳空港から札幌経由・学園都市線(JR)で新十津川駅へ向った。
札幌駅から3時間(一日に3本)近く要した(参考:新千歳から室蘭線経由・特急で1時間30分・滝川駅下車・バス10分)。
石狩当別駅からは愈々石狩平野へと気動車は進む。車内はマニアらしき乗客が盛んにシャッターを切っている。まもなく車窓には、広々とした田園風景が飛び込んできた。少し進むと反対側は楢や白樺、白い花をつけたアカシアの木々がトック原野をなし、極寒の地で、先人達が開拓に辛酸を極めただろうと痛感した。
終点の新十津川駅(無人)からタクシーで、町営の天然温泉ホテル「グリーンパークとつかわ」へ向った。
同ホテルは、ふるさと公園のなかにあって、ピンネ・スタジアム(日ハム2軍ホームグランドの1つ)・パークゴルフ・テニス・サッカーコート・青少年交流キャンプ村・新十津川物語記念館などが広々とした敷地の中に併設・点在している。
翌朝、ホテルのバスで記念式典会場に向う。式典の後、懇親パーティーで、更谷村長や植田町長と記念写真を撮る。
更谷村長と私
植田町長と私
翌日は、平成25年竣工予定の徳富(トップ)ダムの現場を視察と、100年の歴史をもつ「金滴酒造」の見学。
果実トマト(高級)の栽培、プチトマト、じゃが芋、玉葱などの農作物の生産・販売に力を入れている。
北海道はTTP対策も進んでいるようで、大型機械導入でコスト・ダウンを図るため、農地区画整理が日常的行われているようである。
離農地には、白樺を植樹して原野に戻すなど、緑地や水源そして環境保全にも努めている。
肥沃で広大な農地を持つ北海道は将来、日本の台所となろう。
日々品質改良を奨め、気候の北限化も後押ししている。
6月19日から3泊4日の私の旅は、誠に有意義で元気を頂戴した。
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