< 幼子の浴衣姿や放生会 花木柳太 >
布団を見に自転車で三号線を南下した
やたらと子供の浴衣姿が目立つと思ったら
放生会だった。ガードマンも出てかなりの人出だった。
とは言え博多の人以外は何のことだと思うかもしれない。
まあ、筥崎宮という神社の秋の祭りだという。
布団を買い換えて冬の眠りを一新しようかと
ニトリとヤマダ電機とゆめタウンに見に行った。
別に今ある布団でもいいのだがベッドも観てみようと思った。
その後、春のブログにも書いたが路上生活者を探しに行った。
昔、ホームレス支援のボランティアをしていたせいもあって
どうも私はそのような人のことが気にかかる。
あちこち移動するらしくて目的の人が見つからない。
だが、今日はまた別の人に巡り合った。
蛇の道は何とかで同じような路上生活者に聞いたほうが早い。
県庁近くの体育館で寝泊まりしているという情報をその人から聞いて
5時半ごろから9時半ごろまで話してきた。(夜の)
福岡空港近くの公園は涼しくていい風が吹いていた。
どこまでも続く芝生のような草むらが広々として不思議な空間だった。。
金星だろうか星が一つあるころからかなりの時間まで話した。
体育館での寝泊まりは夜の10時からだというのでその人が移動するまで
どちらも付き合った形になった。
私は一人の人を探しに行っているのだが春に情報をくれた人は
生活保護を受けたようだと今日の人が教えてくれた。
ついでと言っては何だがそうして路上生活をしている人がいたら
電話番号とテレカを渡して連絡を待つようにしている。
昨年の暮れに一人の路上生活者を生活保護に繋いだきりだが
保証人なしでアパートを借りられる不動産屋とか
色々コネととは言えないかも知れないが知っている。
生活保護については色々と批判もあろうが
今日の人でももう14年も路上生活をしているという。
憲法25条で保障された最低限の人間らしい生活をする権利は
誰にでもあると思う。
主な収入源は缶拾いだがマンションやアパートのそれは規制というか条例があるらしい。
公園も寝泊まりはできないらしい。
今日は深夜に任せて長い文章を書いているが
私はクリスチャンです。カトリックなのでキリスト者と自称します。
ブログはあくまで俳句のものにしようとあまり宗教の事は書いていません。
雑学的に言えばカトリックでは神父、正式には司祭といいます。
プロテスタント教会では牧師といいます。
何故、このようなことを書く気になったかと言いますと
今日の公園の月がとても綺麗だったからです。
良い風が吹いて涼しくていい時間が流れました。
今日のその人は鹿児島の(私も鹿児島ですが)隣の市の人でした。
私にははっきりと神の導きを感じることができました。
とても痩せて、現代人には見えない容姿でした。
昨日が十五夜の名月は今日もまだまあるくて。
月に何故かナマケモノの形をした雲が掛かっていました。
その人も不思議そうな顔をしていました。
あまり長くなってもなんですが帰りに寄った体育館に目的の人はいませんでした。
帰りも放生会の帰りの子供たちや老若男女で道路はいっぱいでした。
福岡は一時期は多かった路上生活者はぽつぽつとしか見かけなくなりました。
でも、まだそういう人はぽつぽつとはいます。
路上生活者は何故か田舎にはいません。都会に主にいます。
冬の寒さと、夏の暑さ、空腹、視線、その様なもろもろのことを抱えて彼らは生きています。
皆さんがもしそのような人に出会ったらお金の千円でも渡してください。
見返りはないかもしれません。恥ずかしいですか?
しかし、いいことをしたと思えたらその気分に僅か千円などはした金です。
聖書の言葉に・・・
「もし右の手で施しをするなら左の手に悟られないようにしなさい」とあります。
彼らも一年後には保護を受けて最低限の生活になれるかもしれません。
< 人は沈黙のうちに創り変えられる >