赤ずきんのお散歩ブログ

参加したウォーキング、写真付きでご紹介します。よろしくお願いします。@^-^@ノ

三河を一望!西尾 八ツ面山散策と戦国の城郭寺院 本證寺を訪ねて③

2017年11月11日 00時00分01秒 | 名鉄ウォーキング

平成29年11月5日(日)

2017年 名鉄のハイキング 秋の歩け歩け大会

三河を一望!西尾 八ツ面山散策と戦国の城郭寺院 本證寺を訪ねて②」の続きです。

 

あの赤い鉄橋、志貴野橋を渡っていきます。

 

車道と歩道が分かれていました。

 

矢作川

浅そう。

 

あ!

あんなところに風車がありました。

展望台から見えていましたね。

 

南山園?

 

風車のお隣にあった建物に南山園と表示がありました。

お茶屋さんかな?

 

しばらく道路沿いを歩きます。

 

道路沿いはお茶畑が続いています。

 

コース途中で温室が見えたのですが、あのピンク色。

多分スイートピーだと思います。

 

(*'ω'*)......ん?

コース案内がありました。

 

藤井城址」です。

お城らしいものは全く残っていないようでした。

 

ちょこっと歩いてここ「安正寺」に来ました。

お参りします。。

 

本堂です。

入ってみます。

 

本堂内です。

 

阿弥陀如来さま。

 

  

ご本尊さまの左右にあるもの。

本堂内を見て回ってみます^-^

 

いろいろなお言葉がありました。。

 

桜井凧

 

象さん

 

可愛い^-^

 

お経かな?

 

  

恩徳讃?

お経だと思いますw

皆さんが集まってお経をあげる様子が伺えますね。。

 

次の目的地へ向かいます。。

 

道沿いにあった石碑。。

この井戸が地名の由来になっているとか。。。

 

あと3キロw

 

(*'ω'*)......ん?

次の目的地かな?

 

本證寺」にやってきました。

行ってみます。

 

なかなか広い境内ですよ。

 

周りは蓮の植わっている池がありました。

 

皆さん休憩していますね。

本堂へ入ってみます。

 

皆さんお参りしていました。

 

ご本尊様はちょっと恐めな感じ。

 

なんかちょっと違和感を感じます、ここ。

閑散としすぎな感じですよ。

 

外に出て境内を歩いていると、本證寺についての説明がありました。

この地図を見て思いました。

お堀に囲まれたお寺。

しかも二重にw

まるでお城のような構造ですよね、このお寺さん。

三河一向一揆の拠点となったところでした。

 

三河に一向宗が広まったのは古く、鎌倉時代に関東より京への帰途に親鸞が、矢作の地で布教をしたことに始まるという。

戦国期に入ると、本願寺 8代蓮如自らが三河まで布教のために足を運び、教団拡大作戦を展開し、

蓮如の巧みな布教活動により有力寺院を一向宗本願寺派へ転向させることに成功した。

この時に本願寺派に転向した有力な 3つの寺、「上宮寺」「本證寺」「勝鬘寺」を、「三河三ヶ寺」という。

三ヶ寺は、それぞれ200近い末寺を持ち、武士・農民などの門徒は三ヶ寺あわせて数千人にも及び、外敵の侵入を防ぐために堀・土塁を築き、

その伽藍は城のような配置であったといわれている。

又、三ヶ寺を中心とする三河の一向衆徒は相次ぐ当主の死による松平氏の一時的な凋落に付け入り、西三河一帯に勢力を誇ることになった。

家康公は岡崎城に帰ると、織田信長との同盟を結び、内政の充実を計ることになり、今川氏の支配下に置かれていた三河武士たちの多くは家康公に忠誠を誓ったが、

今川支配の癒着から脱しきれない者、松平氏の勢力拡大を喜ばない者などの反対派も多かった。

その中で最大の勢力を誇っていたのが、三河三ヶ寺を中心とする一向衆徒であった。家康公は不輸不入の権(寺領に対する免税権・治外法権)を楯にとって、

納税の命令を無視し、反抗的な態度を続ける一向衆徒に対して対決姿勢をとった。

永禄 6年(1563) 9月、家康公の家臣(菅沼定顕とも、又は家康公自身ともいわれている)が、上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたため、上宮寺の門徒たちは怒り、

実力で糧米を奪い返した。

又、三河国内の全門徒に檄文を送り、松平氏の狼藉・無法を糾弾するために蜂起することを要請し、これを受けた本證寺などの門徒衆は、松平氏・家康公打倒のために蜂起し、

三河一国は内乱状態に陥ったのである。

これに対して家康公は自ら陣頭に立ち討伐にあたった。

一揆側には、吉良氏や荒川氏のように松平氏の支配を嫌った武士たちに加えて、信仰のために主君である家康公に刃向った者も多く、戦いは長期化し、

両軍は一進一退の攻防を繰り返した。

永禄7年(1564) 1月の上和田の戦いでは、家康公自身、銃弾を 2発受けるほどの危機に直面したばかりか、山中八幡宮にある、洞窟「鳩ヶ窟」(「山中八幡宮」参照)に身を隠し

一揆勢の探索を逃れるという一幕もあったという。

しかし、戦いが長引くにつれて一揆勢に厭戦気分が充満し、家康公に投降する者が続出した。

一揆勢の衰退を見た松平氏の老臣たちは、和議を門徒衆と家康公に提案し、両者ともこれに同意して内乱に終止符が打たれた。

和議の誓書では、一向宗の存続が認められていたのにも関らず、家康公は転宗を強要、寺側は拒否の姿勢をとったため、三ヶ寺を始めとする有力寺院をことごとく破壊し、

僧を国外に追放した。

若き家康公は、一向一揆と全面対決し、これを打ち破ったことにより、次には東三河へと侵入し、念願の三河統一を完成させることとなるのである。

 

この地に、こんな歴史があったのですね。

 

広いけど閑散とした境内。

 

もしかして櫓かしら?

まるでお城の構えをしたお寺さんでした。

 

後はゴールに向かって歩いていきます。

 

あ!

見えてきましたゴールの駅です。。

 

ゴール、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪

 

今回のコースでは、見晴らしの良い展望台から良い景色を見て、三河の歴史にもふれました。

いろいろ繋がるものがあり、勉強になりました。

なかなか良いコースだったと思います。

 

長々とご覧頂き、ありがとございました。

 

コメント
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