歴史とドラマをめぐる冒険

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どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

2023-09-25 | どうする家康
徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。

山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実だとも主張しました。

司馬さんという人はイデオロギーが嫌いで、要するにバランスのいい人でした。司馬さんにとって山岡が描いた家康は「戦前の皇国史観の亡霊」のようなものでした。そこで司馬さんは山岡家康に対する批判として「司馬流家康像」を作りあげました。神君は人間となり、聖人はたぬき親父となりました。ただしそれが史実というわけでもなさそうです。
司馬さんには家康自身を主人公とした「覇王の家」という作品もあります。主人公なので「美化」するのですが、不思議な美化の仕方をします。それは「凡人のくせに自分を空、解脱した人間とみせかけることができる芸当を持っていた」というもの。ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「どうする家康」はいうまでもなく「山岡荘八系」です。私は「徳川史観を打破するのか」「山岡史観を超えるのか」と期待していたのですが、結局は「山岡家康の現代バージョン」というべき作品です。一見すると「神の君」という言い方で、家康を馬鹿にしているようにも見えるのですが、最後は神の君となる。本質は「山岡家康と全く同じ」と言っていいでしょう。最初から聖人君子であるわけではない、というのが唯一の違いと思われます。

ただし、徳川家康を「いい人」にするには、いくつか乗り越えなくてはいけないハードルがあります。史実としての家康は正妻と嫡男を殺しています。これはかつて信長の命令とされてきましたが、今は嫡男とその家臣によるクーデーターに起因するという説も出ています。「妻殺し、子殺し」をいかにクリアして「いい人にみせかけるか」。これがまず第一番のハードルでしょう。

1,第一のハードル、築山殿殺し

山岡荘八の場合、築山殿を悪女とし、武田と通じさせ、浮気も行わせ「こういう悪い女だったから殺さざる得なかった。逃がさなかったのは信長の命令もあったからだ、嫡男は逃がそうとしたが、信康があえて死を選んだ」という「作戦」を取りました。

しかし「ど家」の場合、本当は離婚状態だった築山殿と「夫婦円満にしないといけないという現代のオキテ」があります。夫婦仲が悪く側室ばかり作ったのでは「現代のお茶の間的価値観」に合わないからです。「夫婦仲はよく、嫡男とも良好ないい家庭の主だったのに、家康がその二人を殺した」という「大きな矛盾」を乗り越えなくてはならないのです。そこで「あれこれ無理な嘘」を重ねることになります。
築山殿は聡明な女性で、浮気もせず、武田とも通じない。側室は築山殿が推薦(コントロール)する。武田と「通じたように見える」のは「築山殿には武田との共同による、関東独立連合平和国家という壮大なビジョンがあったからだ。そして家康は生涯を通じて愛する築山殿、瀬名のためにその平和ビジョンを実現していく」、、、このように山岡より「さらに、いりくんだ嘘」になったのは、築山殿を「悪女、浮気女」にできないという条件があったからです。しかしその結果。約半年をかけて「築山殿物語」を繰り広げるはめになりました。なお嫡男は山岡と同じで、自ら死を選びます。

2.第二のハードル・側室が多い

大河「葵徳川三代」では、60を超えて側室を何人も持ち「ウハウハ」の家康が描かれました。御三家の初代は3人とも関ヶ原後、アラ還暦にできた子ですから、実態はこれに近い。しかし今回はコンプライアンスの問題?なのか、不倫を極端に嫌う価値観の産物なのか、そういう家康はNGのようです。最初の側室のお万は家康を誘惑する妖女として描かれます。まだ二代目秀忠の母である西郷の方、於愛、広瀬アリスは、最初の夫に殉死しようとするような女性、古典的な良妻賢母、ただし近視でしばしば家康を他人と間違える愛すべき失敗をする女性として描かれます。於愛は家康を敬ってはいるが、慕ってはいないという設定です。「家康が生涯愛したのは瀬名だけ」という妙な「縛り」が、作品を変な感じで歪めています。今度も側室は幾人もできますが、おそらく登場すらしないでしょう。

3,第三のハードル・秀吉の妹、旭を不幸にしたらいけない

旭というのは、秀吉の妹で、無理やり離縁させられ、家康の正妻とされました。人質でもあります。大河「功名が辻」では松本明子さんが演じて「けっこう不幸な感じ」でした。でも「いい人家康」は、旭を不幸にしてはなりません。山岡大河「徳川家康」では、秀忠と「実の親子ではないが、大変深い愛情を結んだ」とされました。だから「不幸ではない」という設定です。「どうする家康」では、表面上明るいキャラとして設定されました。最初は嫌がった家康も優しく接し、正妻のまま京都の豊臣家に戻すという設定です。実際はこの頃、既に病で寝たきりに近い状態だったはずです。

ここまでは女性関係ですが、実はもっと大きな障害もあります。「あの織田信長の協力者」だったことです。史実はともかく、ドラマや小説では織田信長は戦好きです。「平和構築」とはほど遠い印象がある(実際は信長にも平和志向は存在します)。そういう魔王みたいな男の協力者であること。これをいかに乗り換えるか。

4、第四のハードル、織田信長の協力者だった

協力者どころか、武田問題では「信長よりずっと好戦的」だったのが家康です。家康は平和主義者などではありません。これはまずい。

織田信長への協力について山岡大河「徳川家康」はこんな感じでした。「自分は必ずしも信長のやり方を支持しない。しかし今乱世をおさめられる可能性があるのは信長殿しかいない。従って多少の問題には目をつむり、天下泰平という大目標の為、自分は信長に協力する。しかし言うべきことは言う」、、なにかというと家康はこう言っていました。

「どうする家康」はそれを踏襲しました。信長を変な感じで描いて、家康は必ずしも信長に好意を持っていなかったことにする。しかし信長が「愛ゆえに」家康を離さない。家康はいつも信長と喧嘩。築山事件をめぐって最後はとうとう「本能寺で信長を殺そう」とする。

つまり家康は信長に鍛えられたものの、基本的には敵対していたと描いたのです。これで「一向一揆虐殺の信長の協力者だった史実」をごまかせます。一向一揆の虐殺は作品に登場しないと思います。

あとは石川数正とか豊臣秀吉の朝鮮侵略の問題とか色々ありますが、とにかく家康をいい人にする為には、嘘が絶対に必要です。その典型が山岡荘八であり、一見山岡を継承していないように見える「どうする家康」は確実に継承しており、同じように嘘を重ねて重ねて、家康を造形しています。

「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

2023-09-05 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。

朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。

ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。

鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「儀礼や祈りや文章創作とは違う、現実に根差した政治」を行うように「ちょっとだけ」なっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。

律令制国家は、天智天武の時代に、つまり700年前後に、白村江の戦いの敗北を受けて成立しました。「唐」が攻めてくるという緊張感が豪族連合としての「日本」を生み出すわけです。「日本」という国号もその時誕生します。

ところが唐との関係はあっという間に改善します。そして同時に日本国の統合も徐々に緩んでいきます。桓武天皇の時代、794年の平安遷都以降、桓武天皇は東北に敵を作ることで、新しい国家統合を模索しますが、そうした軍事的な動きも次代の嵯峨天皇の時代にはなくなっていきます。

10世紀になると、気候が変動したり、地方が無政府状態に陥ったりします。こうした中、朝廷は「日本をこうしよう」という高い政治意識を失っており、つまりは地方から税収が入ってくればいい。現地の支配者や親分に税の取り立てを任せ、その税収を確保できればいいという態度に終始します。「政治」と言えば主に「祈ること」を意味していたわけです。さらに文章経国と言って、芸術的文(漢詩、和歌)を作ることで「天を動かす」という政治?を本気でやっていました。桓武天皇の孫である仁明天皇などは文章経国に熱中し、国家財政を傾けました。文章経国は宴会(歌会)を通して行うので、べらぼうな「むだ金」が必要だったのです。文章経国は儒教政治の重要事項です。本気で儒教政治をやろうとすると、現実はほぼ見えなくなっていくようです。日本は中国にかつて存在したと言われる幻の儒教理想国家「周」を手本としたので、朝廷の政治は、やることなすこと現実からは乖離していました。

こうした中でも京都政権に一定の税収があったというのは不思議なことです。こういう政府にどうして人々は税金を納入したのか。ほとんど奇跡なのですが、それは今は考えません。

やがて律令制は形骸化し、律令制に代わって荘園公領制という形に移行していきます。12世紀のことと考えられています。公領と言っても実態は荘園で、要するに上皇天皇や中央貴族が地方の有力者や国司とタッグを組んで地方からの税収を確保しようとしたわけです。単に荘園制でもいいように思えます。公領は「公共の土地」ではないので、まぎらわしくなります。

この荘園において実際に荘園を経営したり、税収を確保していたのが「武士」らです。つまりそれまでの日本政府は長きにわたって地方政治を全部「丸投げ」して、京都で祈り、税金だけを収奪していたわけですが、ここに中央政治(主に鎌倉,そして鎌倉を通す形で京、または直接的に京)とつながった(タッグを組んだ)地方政治というべきものが発生します。それはライバルである朝廷の意識改革を促し(といっても少しですが)、地方に「金の源泉」以外の興味を持ったようです。いや金の源泉なんだが、どうやれば源泉であり続けてくれるのか、ということかも知れません。そして長い時間はかかるものの、江戸時代も後半になって武家政治の結晶として撫民政治と言われるものの発生してきます。ただし初期段階では、武士地頭は撫民など頭にもなく、むしろ朝廷よりひどい収奪者として登場します。泰時の撫民と言っても、そんなたいしたもんではありません。

源頼朝は朝廷に対しては遠慮がちであり、地頭の暴走を抑制する側に回ります。同時に朝廷改革を促します。要するに「ちゃんと政治をしようよ」と朝廷に働きかけるのです。この場合「政治」というのはそんな大したことではなく「祈ったり、和歌や漢詩を作って天を動かそうとか馬鹿なこと言ってないで、現実を見ようよ。少しは地方の秩序の構築、うまい税金の取り方を考えてみようよ。ほんの少しだけでいいから」ということです。そしてこれが「天下草創」の中身ではないか。何もしていなかった0の状態から1ぐらいはやろうということ。この点からも「朝廷が政治を担い」「武士はその治安活動を行った」という歴史観は、史実と矛盾していると思われます。「朝廷に権威があったから」などというのは観念論で、頼朝がそういう態度をとったのは「朝廷天皇が同じ荘園制というシステムに依存した共同経営者(収奪者)だったから」です。また「幕府とは何か」と同時に「王権とは何か」を考える必要も感じます。「王」という言葉は多義的でなかなか議論が成立しません。少なくとも「幕府は王権の守護者に過ぎない」の「過ぎない」の部分は間違っているでしょう。王権と幕府を上下関係で考えること自体、非科学的なのかも知れません。

架空小説「豊臣秀吉の遺言」

2023-08-29 | 戦争ドラマ
架空の世界の、架空のお話。

慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。
「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。
「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」
「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」
「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」
「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」
「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わしでは豊臣を統率できねえ。うるせえ奴らがたんといる。秀頼がもうちっと大きくなるまで、這ってでも生きろや」
「秀頼か」と、秀吉はつぶやいた。そして続ける。
「あんな赤子に天下様がつとまるかよ。無理に無理をして明日関白にしても、誰もついてこねえわ」
「といってどうする。秀次もお前の考えに反して死んでしまった。お前は許す気でいたんだろ。なにも切腹するこたぁなかったよな。あれでお前の計画も狂ったわけだ」
「まあ天下なんてものは回り持ちよ。わしゃ、わがまま放題に生きた。でっけいこともやった。正直死んだ後のことはどうでもいい。新八幡様にでもしてくれ。それでいいわ」
「といって、天下様をお前に譲ると言われても、なかなか難しいぞ。もう秀頼には派閥がついとる。茶々もあの通り気位が高い。お前が何を遺言しようが、徳川の天下なんて許せねえ。そういうやつらがたんといる」
「おめえもわしも、人望がねえの。誰がお前になんぞ譲るか。おめえももうじじいではないか。譲るとしたら秀康じゃ」
「あのわしの息子に。オギイに。織田信雄と同じぐらいのぼんくらだぞ」
「秀康はぼんくらなんぞじゃねえ。そもそもおめえは息子に対して厳しすぎるのよ。人の情がねえのは信長様だけじゃあねえ。いや信長様は息子に甘かった」
「そうじゃったの。信長殿は家族には妙に優しかった」
「家康よ、わしゃほんにわがままでな。正直、死んだ後、わしの偉業が世に伝わればそれでいいのよ。わしが作った天下じゃ。わしの名が上がればそれでいい。それには天下を崩さんことよ。秀頼は生きて暮らせればそれでいい。それにしても朝鮮のことは余計じゃったな」
「今頃気が付いたか。あれは異国だと言っただろ。日本じゃねえ。」
「わしが死んだら、すぐ引き上げだ。家康、朝鮮にはお前から詫びを入れてくれ」
「損な役回りは全部わしじゃの。それは分かった。早速引き上げ計画を立てるわ。しかし天下をオギイにというのは、誰も納得しねえぜ」
「オギイはお前の息子じゃねえ。長い間ほったらかしにしやがって、おめえは父親じゃないわ。人でなしが。オギイは羽柴の子じゃ。わしを継いでも大義名分は立とうが」
「無理だとは思うがな。まあやってみる価値はあるか。いずれにせよわしが後見じゃ。そうなると宇喜多、石田、小西あたりが黙っていまい」
「いや毛利よ、毛利には小早川秀秋がいる。一応わしの縁者じゃ。毛利が黙っていまい」
「いろいろ難しいが、結局はなるようになるだけだ。わしも頑張ってみるわ。秀吉よ。わしのわがままが分かるか。」
「分からん」
「わしゃ、のちの世に立派な人だったと言われてえ。その為には秀頼を殺すわけにいかんし、死なすわけにはいかん。そこは何とか頑張ってみるわ。信長殿、筑前、それにわしの3人で築いた天下じゃ。乱世に戻してなるものかよ」
「まあ、頼むわ」秀吉は初めて微笑んだ。

戦争抑止のため、今こそ「戦争責任論」が必要だ。

2023-08-16 | 歴史と政治
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。

私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。

例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」もまた責任を問われるべき問題です。勝つに決まっていた以上、勝った後を考えるのは政治家として最も大切なことです。100年後を考えて政治家は行動すべきなのです。

個人責任が問われるという国際同意を形成する、それをもって戦争の抑止をはかる、、、私はそう言っているわけです。

日本において「昭和天皇の戦争責任」が問題となっていたのは、1945年から1980年代の半ばまででしょうか。昭和天皇が亡くなられてからは、ほとんど議論は起きなくなったと思います。あの戦争ではメディアも国民もこぞって戦争に向かいました。日露戦争の勝利後からのナショナリズムの高揚と世界恐慌が招いた深刻な社会矛盾が背景にありました。したがって「天皇一人の責任を問うことはできない」という理屈は成り立つとは思います。しかしもし「国民全員に責任がある」なら、「最高指導者としての天皇」、、「にも」、、当然責任があることになります。天皇自身は「私に責任がある」ともマッカーサーに言いました。

また日本にのみ責任があるわけはない、という理屈も十分に理解しています。だから「日本にも責任がある」と私個人としては考えます。当然「米国」「ドイツ」「イタリア」「フランス」「イギリス」「ソ連=ロシア」等にも責任があります。「日本にのみ責任があるわけではない」ということは「日本にも責任がある」ということを意味しています。もっと広げるなら「中国」「朝鮮」の責任だって考えていいと思うのです。ただこれはいかにも誤解を生む言い方です。中国・朝鮮・東南アジアに責任があると私は言いたいわけではなく、この国々が「どういう動きをしたのか」を深く知るべきだという意味で言っています。実際は私だって東南アジアの動きなどはよく知りません。

「昭和天皇に戦争責任はあるのか」、、、昭和天皇を責めるためでなく、どうすれば戦争を起こさないで済むかを考えるため、これは考え続ける必要のある問題です。例えばそれを高校生が考え、ある者は「ない」と考え、ある者は「ある」と考える。その思考過程そのものが「戦争を深く考えること」につながると思うのです。

例えば今、プーチンに戦争責任があることははっきりしています。では、ゼレンスキーはどうか。彼は自国民の「親ロシア独立派」にドローン攻撃をしかけていました。ヨーロッパもロシアも「戦争になるからやめろ」と警告したのにやめませんでした。だからゼレンスキーにも責任があることは私の中でははっきりしています。ゼレンスキーがプーチンを強く刺激したのです。このことは次のことを意味します。台湾が現状を維持し、極端な独立行動をとらない限り、習近平は戦争を起こすことない。または起こすことはできない。要は「きっかけ」を与えない、作らないことです。独立行動が過激化しない限り、台湾有事は永遠に起きません。起こせば中国だって深い傷を負うからです。ウクライナ問題と台湾問題は違う問題なのです。

しかしこれには異論もあるでしょう。ひたすらプーチンが悪いのだ。彼がかぎりなく悪で、ゼレンスキーはかぎりなく善なのだ、、こう考える人もいるでしょう。習近平は何もなくても戦争起こすのだという人もいるはずです。そういう人に私個人の(さして国際情勢に詳しいわけでもない私ごとき人間の)意見を押し付ける気はありません。

ただ「いかにすれば戦争を抑止できるか」ということを考える、いわば一つの教材として「ウクライナ戦争」を考えていく必要を感じているのです。今こそ「戦争責任論」が必要だと思います。
最後にぶっちゃけると、私自身は「昭和天皇の戦争責任を考える」というテーマのもとに大学時代、戦争についていろいろ本を読みました。平成になって就職してからは、ほぼ考えてきませんでした。
私はただ自分の体験を普遍化しているだけなのかも知れないな、とも思います。

黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

2023-08-15 | 権門体制論
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。

中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。

これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。

戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)

天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。

黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。

私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。