国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。
私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。
例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」もまた責任を問われるべき問題です。勝つに決まっていた以上、勝った後を考えるのは政治家として最も大切なことです。100年後を考えて政治家は行動すべきなのです。
個人責任が問われるという国際同意を形成する、それをもって戦争の抑止をはかる、、、私はそう言っているわけです。
日本において「昭和天皇の戦争責任」が問題となっていたのは、1945年から1980年代の半ばまででしょうか。昭和天皇が亡くなられてからは、ほとんど議論は起きなくなったと思います。あの戦争ではメディアも国民もこぞって戦争に向かいました。日露戦争の勝利後からのナショナリズムの高揚と世界恐慌が招いた深刻な社会矛盾が背景にありました。したがって「天皇一人の責任を問うことはできない」という理屈は成り立つとは思います。しかしもし「国民全員に責任がある」なら、「最高指導者としての天皇」、、「にも」、、当然責任があることになります。天皇自身は「私に責任がある」ともマッカーサーに言いました。
また日本にのみ責任があるわけはない、という理屈も十分に理解しています。だから「日本にも責任がある」と私個人としては考えます。当然「米国」「ドイツ」「イタリア」「フランス」「イギリス」「ソ連=ロシア」等にも責任があります。「日本にのみ責任があるわけではない」ということは「日本にも責任がある」ということを意味しています。もっと広げるなら「中国」「朝鮮」の責任だって考えていいと思うのです。ただこれはいかにも誤解を生む言い方です。中国・朝鮮・東南アジアに責任があると私は言いたいわけではなく、この国々が「どういう動きをしたのか」を深く知るべきだという意味で言っています。実際は私だって東南アジアの動きなどはよく知りません。
「昭和天皇に戦争責任はあるのか」、、、昭和天皇を責めるためでなく、どうすれば戦争を起こさないで済むかを考えるため、これは考え続ける必要のある問題です。例えばそれを高校生が考え、ある者は「ない」と考え、ある者は「ある」と考える。その思考過程そのものが「戦争を深く考えること」につながると思うのです。
例えば今、プーチンに戦争責任があることははっきりしています。では、ゼレンスキーはどうか。彼は自国民の「親ロシア独立派」にドローン攻撃をしかけていました。ヨーロッパもロシアも「戦争になるからやめろ」と警告したのにやめませんでした。だからゼレンスキーにも責任があることは私の中でははっきりしています。ゼレンスキーがプーチンを強く刺激したのです。このことは次のことを意味します。台湾が現状を維持し、極端な独立行動をとらない限り、習近平は戦争を起こすことない。または起こすことはできない。要は「きっかけ」を与えない、作らないことです。独立行動が過激化しない限り、台湾有事は永遠に起きません。起こせば中国だって深い傷を負うからです。ウクライナ問題と台湾問題は違う問題なのです。
しかしこれには異論もあるでしょう。ひたすらプーチンが悪いのだ。彼がかぎりなく悪で、ゼレンスキーはかぎりなく善なのだ、、こう考える人もいるでしょう。習近平は何もなくても戦争起こすのだという人もいるはずです。そういう人に私個人の(さして国際情勢に詳しいわけでもない私ごとき人間の)意見を押し付ける気はありません。
ただ「いかにすれば戦争を抑止できるか」ということを考える、いわば一つの教材として「ウクライナ戦争」を考えていく必要を感じているのです。今こそ「戦争責任論」が必要だと思います。
最後にぶっちゃけると、私自身は「昭和天皇の戦争責任を考える」というテーマのもとに大学時代、戦争についていろいろ本を読みました。平成になって就職してからは、ほぼ考えてきませんでした。
私はただ自分の体験を普遍化しているだけなのかも知れないな、とも思います。
私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。
例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」もまた責任を問われるべき問題です。勝つに決まっていた以上、勝った後を考えるのは政治家として最も大切なことです。100年後を考えて政治家は行動すべきなのです。
個人責任が問われるという国際同意を形成する、それをもって戦争の抑止をはかる、、、私はそう言っているわけです。
日本において「昭和天皇の戦争責任」が問題となっていたのは、1945年から1980年代の半ばまででしょうか。昭和天皇が亡くなられてからは、ほとんど議論は起きなくなったと思います。あの戦争ではメディアも国民もこぞって戦争に向かいました。日露戦争の勝利後からのナショナリズムの高揚と世界恐慌が招いた深刻な社会矛盾が背景にありました。したがって「天皇一人の責任を問うことはできない」という理屈は成り立つとは思います。しかしもし「国民全員に責任がある」なら、「最高指導者としての天皇」、、「にも」、、当然責任があることになります。天皇自身は「私に責任がある」ともマッカーサーに言いました。
また日本にのみ責任があるわけはない、という理屈も十分に理解しています。だから「日本にも責任がある」と私個人としては考えます。当然「米国」「ドイツ」「イタリア」「フランス」「イギリス」「ソ連=ロシア」等にも責任があります。「日本にのみ責任があるわけではない」ということは「日本にも責任がある」ということを意味しています。もっと広げるなら「中国」「朝鮮」の責任だって考えていいと思うのです。ただこれはいかにも誤解を生む言い方です。中国・朝鮮・東南アジアに責任があると私は言いたいわけではなく、この国々が「どういう動きをしたのか」を深く知るべきだという意味で言っています。実際は私だって東南アジアの動きなどはよく知りません。
「昭和天皇に戦争責任はあるのか」、、、昭和天皇を責めるためでなく、どうすれば戦争を起こさないで済むかを考えるため、これは考え続ける必要のある問題です。例えばそれを高校生が考え、ある者は「ない」と考え、ある者は「ある」と考える。その思考過程そのものが「戦争を深く考えること」につながると思うのです。
例えば今、プーチンに戦争責任があることははっきりしています。では、ゼレンスキーはどうか。彼は自国民の「親ロシア独立派」にドローン攻撃をしかけていました。ヨーロッパもロシアも「戦争になるからやめろ」と警告したのにやめませんでした。だからゼレンスキーにも責任があることは私の中でははっきりしています。ゼレンスキーがプーチンを強く刺激したのです。このことは次のことを意味します。台湾が現状を維持し、極端な独立行動をとらない限り、習近平は戦争を起こすことない。または起こすことはできない。要は「きっかけ」を与えない、作らないことです。独立行動が過激化しない限り、台湾有事は永遠に起きません。起こせば中国だって深い傷を負うからです。ウクライナ問題と台湾問題は違う問題なのです。
しかしこれには異論もあるでしょう。ひたすらプーチンが悪いのだ。彼がかぎりなく悪で、ゼレンスキーはかぎりなく善なのだ、、こう考える人もいるでしょう。習近平は何もなくても戦争起こすのだという人もいるはずです。そういう人に私個人の(さして国際情勢に詳しいわけでもない私ごとき人間の)意見を押し付ける気はありません。
ただ「いかにすれば戦争を抑止できるか」ということを考える、いわば一つの教材として「ウクライナ戦争」を考えていく必要を感じているのです。今こそ「戦争責任論」が必要だと思います。
最後にぶっちゃけると、私自身は「昭和天皇の戦争責任を考える」というテーマのもとに大学時代、戦争についていろいろ本を読みました。平成になって就職してからは、ほぼ考えてきませんでした。
私はただ自分の体験を普遍化しているだけなのかも知れないな、とも思います。
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