歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。
今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。

佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のもと、公家・武家・寺社という3つの支配勢力が「対立をしながらもゆるく統合し、相互補完なども行っていた」とするわけです。それにしても「ゆるい統合」って、それって「分散」なんじゃないでしょうか?まあ権門体制論自体はかなり観念的な理論ですので、あまり深く研究されたようには思えないのですが「ゆるい国家的統合」「相互補完」という「結論」というか「言葉」が、特に京都大学方面の学者さんには好まれます。私は「権門体制論」ではなく「相互補完論」だと思っています。「はじめに相互補完ありき」という感じがします。なんでもかんでも「相互補完」。相互補完原理主義だと思えて仕方ないのです。それで黒田俊雄さんの「原文」を読んだのですが、やはり「相互補完」は権門体制論の「主題」ではないと思います。

とはいえ「統合か、それとも権力の分散か」は、中世や室町、戦国、江戸、そして現代を見る上で重要です。「権力の地方分散」「地方分権」は現代政治の問題でもあります。

日本史というのは律令国家ができた段階から、地方は国造に「まかせた」傾向が強く、その意味で、ずっと「権力が分散」している状態だったと考えられます。「室町幕府は中央集権がなっておらず、だらしない」と私はずっと考えてきました。でも「地方分権が常態」だったのですから、律令国家、王朝国家、鎌倉幕府、室町幕府における「権力の分散」は特にオカシイことでもないと思うようになっています。むしろ「天下統一」の方が異常であり、江戸幕府が「おかしい」のかも。まして近代・現代政府なんて「日本史の常態」からすると、異常過ぎる中央集権国家なのかも知れません。

律令国家は、大和政権が唐と戦って負けて、唐が攻めてくるという危機感のもと、各地の豪族が連合して作りました。近代国家ができたのは帝国主義の時代で、アヘン戦争を見た為政者たちが、このままでは日本は欧米の植民地になる、という危機感を持ち、その危機感を基礎として作られました。

しかし中世には、というか日本史には比較的「外圧」が少なく、結局「唐は攻めてこなかった」わけだし「欧米も日本を植民地にするうまみ」はあまり感じていなかったようです。でも「外国が攻めてくる」という危機感というか不安が、「国家的なもの」の建設の契機になるという法則はどうやら存在すると言っていいでしょう。しかし聖徳太子の時代から、鎌倉中期に至るまで、結局外圧らしい外圧は「ない」わけです。そして「モンゴル襲来」が起きます。それは「得宗専制」という中央集権の強化はもたらしましたが、そんなに大規模な戦闘を経ずに、形上は「勝って」しまいます。その後できた室町幕府などは「明」とせっせと勘合符貿易して仲良しです。結局、日本史には外圧らしい外圧がなかったわけで、そのせいで日本には「強い中央集権」が育ちませんでした。これは「幸福な歴史」だと思います。江戸幕府は秀吉の「唐入り」の後です。ただし、どこまで「外圧」(明が攻めてくる)意識があったかは、分かりません。

結論を書くと「日本史とは権力分散の歴史」が正しいと私は思います。しかしそれが「二つの国家」かというと、違います。「国家とは権力集中の総体」ですから、私の考えでは「二つの国家とも言えない、二つのゆるい権力体」があったのではないかと考えています。もちろん「奇説」であることは承知しています。

そこで「承久の乱」の問題となるのです。あれは「なんだった」のでしょうか。

京都の後鳥羽には「日本は一つ」「朝廷が正統国家」という天皇家家長としての自負はあったでしょう。しかし現実をちょっと見れば「ずっと地方は国司や在庁官人に丸投げ」の状態だったわけです。いまさら「強烈な中央集権国家」を作ろうと思うでしょうか。いや「作れる」と思うでしょうか。思うはずがない。もっとも「ゆるい中央集権国家」なら可能性はあるか。そこは今後考えます。

彼は非凡な才能を持っていたとされます。和歌や芸術に優れ、刀まで打てたという伝説があります。「おれはできる」と思ったでしょう。しかし「天下統一」的な夢想を抱くとは「優秀な人物なら」考えられないことです。優秀な人物なら、ちょっと現実分析すれば「不可能」とわかるはずです。そもそも権力の分散状態が「常態」だったわけですから。

とするなら「西国は朝廷を中心にゆるく連合し、東国は幕府を中心にゆるく統合していればいい」と考えたはずです。形式上は「幕府は、朝廷に従います」と言ってきているのだから、「面目」もすでに十分たっているわけです。「朝廷が日本の国家だ」と言っても嘘ではないのです。幕府が「私たちは朝廷の侍大将」と言っているのだから、実力が朝廷と匹敵していても、上回っていても、別にいいわけです。もちろん現実を完全に無視して「公家一統」のイデオロギーに完全に囚われた後醍醐のような人物なら話は違ってきます。でもあそこまで変わった人ではなかったように思われます。

そもそも「幕府あっての朝廷」です。「朝廷の根幹である荘園公領制の守護神」こそ幕府だからです。幕府も武士もいなくなったら、税金が入ってきません。

そのために「源実朝に箔をつける」ことが、後鳥羽にとって重要だったわけです。彼は実朝を可愛がり、せっせと官位を上げました。最終的には「右大臣」にまで昇進します。鎌倉御家人にとって大事なのは「鎌倉殿」であり、「右大臣」は「箔」でしょうが、「鎌倉殿は官職ではない」から授与できません。右大臣ならできます。

ところがその肝心の源頼朝が暗殺される。さて困った。幕府がなくなってしまう。荘園公領制が崩れてしまう。そこで彼は「幕府討伐」または「北条義時討伐」の命令を出します。

これがいかにも分かりません。なんでそんな馬鹿なことをする必要があったのか。そしてこれが説明できないと、私の上記の「奇説」は根底からひっくり返ります。まあ「もともとひっくり返って」いるのでいいのですけれど、、、、。

実は、こういう仮説、珍説を考えることで私は自分の歴史理解を深めたいと考えているのです。私の奇妙な「仮説」「奇説」が成り立つか。そのこと自体は本当はどうでもいいのです。さて後鳥羽の意図が説明つくか。それは今後考えてみたいと思っています。

「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。

開発領主
奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。
北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開発領主」と言われました。上皇などの権力者も大規模な荘園開発を行っていました。開発領主が地方の小さな企業とすると、上皇などの荘園は大企業。開発領主は、上皇など大企業の傘下になることで生き残っていました。
北条時政は父の名すらきちんと伝わっていません。比較的新興の開発領主で、もともとは、つまり二代ぐらい前は富豪農民(土地開発人・管理人です。一般農民とは違います。)だったのでは私は思っています。(まだ自信はありません)

在庁官人
国の役所を国衙というのですが、この頃になると長官である受領は現地にいません。代わりに「目代」を派遣していました。国衙の役人を総称して国司と言います。国の役所として機能していたかは疑問です。で、現地勢力が国衙に「たむろ」して、いわば「国衙を乗っ取って」運営していました。国衙というのは開発領主にとっては、「土地をとりあげるいやな奴ら」なのですが、自分が「国衙に入りこめば」、土地の管理権は安定します。そういう人たちを在庁官人と言います。(鎌倉武士は字が読めたのかという疑問がここで生じますが)。名目だけの存在でも良かったのでしょう。
北条時政は開発領主であって在庁官人。らしいのですが、「在庁官人」の方は諸説ありです。もともと後年の護良親王(14世紀前半)などが、倒幕にあたり、「北条なんて在庁官人の子孫じゃねえか」と悪口を言ったのが、証拠の一つなんですが、誤った情報の可能性もあります。「在庁官人」と「下げた」つもりなんですが、北条時政がもっと低い階層だったとすると、「上げてしまった」可能性も残ります。

北条時政はよく「伊豆の豪族」と言われます。ドラマでもそうです。「豪族」というのは便利な言葉なんですが、曖昧です。「開発領主で在庁官人で、かつ武士」とか言ってもわけがわからないので、結局「豪族」ということになるのでしょう。

しかも「小豪族」です。ドラマ上、三浦とは刎頸の友らしいのですが、三浦や畠山は大豪族です。源頼朝と結びつくことによって、小豪族が大豪族と肩を並べるようになったわけです。


どうする家康?・大河の中の徳川家康

2022-07-14 | どうする家康
大河ドラマにおいて徳川家康が「単独で主人公」になったのは1983年の「徳川家康」のみです。「葵徳川三代」も「主人公」と言ってもいいでしょう。しかし「秀忠」も同じぐらい重要な主人公でした。「家光」はたいして描かれてはいません。

大河「徳川家康」は山岡荘八原作で「非の打ちどころがない家康」「聖人君子」です。これは無理な設定で、家康の「わが子殺し」や「妻殺し」を、「聖人君子と矛盾なく」描くのに苦労していました。「悩んで悩んで、逃がそうと思ったが、逃げてくれなくて、泣く泣く斬る」という感じです。その他矛盾だらけなのですが、その矛盾を楽しめば「偉人伝」としては、つまりウソを楽しむフィクションとしては成功していました。ちなみに山岡さん原作だと大河「春の坂道」にも山岡家康は登場します。この時は権力闘争の時代で、俳優も政治性があり、「こんな家康ウソだ」とストライキをしたことで有名です。

司馬遼太郎さんの「家康」(小説)は、おそらく山岡荘八への「反論」として描かれたもので、「我執が強いくせに、その我執がないように、虚を演じることができた」という点を評価しています。簡単に言えば「俗物のくせに芝居がうまかった」ということです。「城塞」では「ほとんど犯罪者」とまで書いています。司馬さんには「関ケ原」「城塞」「覇王の家」などの作品があります。

皇国史観では、源頼朝、足利尊氏に比して「悪人」とされていません。皇国史観のパンフレット「国体の本義」に書かれています。この本は江戸時代に水戸学が起こった、と江戸時代を評価しているのですね。山岡さんはこの皇国史観の考えを、バージョンアップして「聖人君子」にまでしたわけでしょう。山岡さんの家康は不自然なぐらいの「勤王家」です。

まあそういういささか政治的な人物評価対立も、最近では「ソフト」になり、今は「等身大の家康」を描くことが主流です。「真田丸」などがそうだと思います。

研究でいうと、柴裕之さんの「徳川家康、境界の領主から天下人へ 」などは去年書かれたのかな。これまた「等身大」です。いささか矮小化されている感じすらする。あまり知的好奇心は喚起されませんでした。まあ人によって評価は違うと思います。

大河「どうする家康」は、一国衆から身を起こして、ちまちまと「境界での争い」をしながら、信長の配下となって働く。やがて本能寺の変が起きて、たなぼたでそれなりの大名となる。が秀吉に圧迫される。その後も「天下なんて狙っていないのに、いろいろ偶然が重なって、気が付いた天下人になって、自分でも驚く」という感じになると思います。「忠義の三河武士の否定」も描かれるでしょう。

これは予想で、なんの資料も持ってはいません。「どうなる家康」というところです。

「鎌倉殿の13人」・6月から12月までの人々の運命・後半のネタばれ

2022-06-11 | 鎌倉殿の13人
このブログは一応ツイッターと連動しているというか、たまにツイッターにアドレスを載せることがあります。ツイッターでは「今後のこと」について滅多なことは言えません。「ネタバレ」になるからです。もちろん、ネタバレさせても犯罪ではないのですが、「故意に人を不快にする必要はない」ので、私はネタバレに気をつけています。ということで、逆にこのブログではネタバレ一切気にしません。もっとも、本当のストーリーはまだ公開されていないようです。ですからここでは「史実のネタバレ」となります。この大河は「史実と極端に離れたことはしない」ので、史実を知っていれば、ストーリーの大筋は分かります。ネタバレですので、ご注意ください。
ということでまず、

いつまでのことが描かれるのか

物語は6月初旬で1192年です。頼朝が征夷大将軍になったところ。来週が「曽我兄弟の仇討ち」ですから1193年です。そしてこのドラマは1225年までは間違いなく描かれます。あと30年が後半の内容となります。

では、思いつくままに、人々の運命について

北条家関連
北条義時・・1224年まで生きます。
北条政子・・1225年まで生きます。

源頼朝・・あと6年で死にます。1199年。まさに世紀末になくなります。覚えやすい没年です。
大姫・・あと数年でかわいそうに亡くなります。ちなみに彼女の「妹」も後を追うようになくなります。
北条時政・・このあと源頼家の時代が来ます。その後源実朝の時代が来ます。そこまでは調子いいのですが、実朝時代に畠山重忠をだまし討ちします。まあ「りく」の策謀とされるのか。そう単純ではないのか。牧氏事件です。それで失脚しますが、殺されはしません。伊豆に引退です。
北条りく・・牧氏事件で失脚します。が、京都に戻って贅沢しながら楽しく暮らします。
北条実衣・・夫の全成は頼家時代に殺されてしまいます。彼女自身は長生きするはずです。
全成・・頼家時代にたぶん八田、市原隼人さんによって殺されます。命じたのは頼家です。
北条金剛・・北条泰時になります。名執権となります。
北条時房(義時弟)・・結構長生きします。泰時のよき相談役となります。
義時の二番目の妻・・おじさんの比企が時政に殺され、義時とは離縁しますが、殺されはしません。
義時の三番目の妻・・義時が亡くなった時、息子を執権にしようとして流されます。

源頼家・・鎌倉殿になりますが、数年で死亡します。
源実朝・・鎌倉殿になりますが、頼家の子供に殺されます。公暁という子供です。

北条の親戚
畠山重忠・・上記のように実朝時代に殺されます。
稲毛重成・・畠山事件の冤罪をかけられて、かわいそうな死に方をします。ほとんど死ぬために登場した人物です。

目立っている御家人
三浦義村・・平六です。長寿を全うします。が、三浦家自体は北条泰時の孫の代で滅びます。
仁田忠常・・頼家時代に、御家人の抗争に巻き込まれて亡くなります。
安達盛長とその子・・長生きします。金剛に殴られた子は色々事件に巻き込まれます。三浦を滅ぼす合戦を起こすのもこの子です。安達家は鎌倉御家人ナンバー2として権勢を誇ります。
大江広元・・長生きします。執権泰時誕生に力を尽くして亡くなります。
三好康信・・承久の乱時点、1221年では生きており、主戦論を主張します。
和田義盛・・実朝時代に和田合戦で死亡します。
比企能員とその妻・・頼家時代は羽振りも良かったのですが、頼家が危篤となり、その間、北条によってだまし討ちにあって殺されます。

その他
後鳥羽上皇・・承久の乱に負け、遠流です。その後20年ぐらい島で生きます。

それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風

2022-05-29 | 鎌倉殿の13人
途中で「小説風」になります。あと史実のネタバレがありますが、「ごく少ししか史実のネタバレさせない。誰でも知っていること。」なので、多分読んでも大丈夫だとは思います。ガイドブックとか見ていないので、どんな情報にも基づいていません。

「草燃える」でも八重さん相当の娘(大庭の娘、松坂慶子さん)は金剛を生んでのち、壇ノ浦で死に、「そっくりさん」(一人二役)として復活するのです。でも新垣さんはもう「クランクアップした」という情報もあります。しかしながら、復活するのは最終回前の2話ぐらい、というのが私の予想なので「もう撮っている」かも知れません。

史実という視点から
北条義時の死の詳細は書きませんが、それなりに急なことでした。義時には他に「正妻の子」とかいまして、金剛ちゃん(北条頼時のちに泰時)が北条を「継げる」という保証はなかったのです。で、私はその時に、政子と「京都から戻った阿波局こと八重」が「北条泰時」を「誕生させる」と思っていました。ちょっと目算が狂いましたが、「そっくりさん復活」も上記の理由で、あり得ると思っていました。

ということで、急に「あらすじ風」になります。時間がないので「あらすじ風」にします。時間があれば「小説風」にしてアップするつもりです。

奥州合戦、義経の死から30年近くがたとうとしていた。義時は幕府の執権である。金剛こと泰時は侍所の長官である。そんな時、義時たちは京都の公家から女性を紹介される。その女性は京都の情勢にも通じ、商売もでき、鎌倉のことも知っており、とにかく「何かと役に立つ女」だと言う。会った義時親子は、驚く。「八重にそっくり」だったのである。
「名、名はなんと申す」
「本名は椿ですが、まあ色々。商売をするときは八重とか」
「や、八重。それで生まれたののいつだ。えっ、奥州合戦のころではないか。これは生まれ変わりとしか思えない」

八重のそっくりさん、は、義時、泰時のそばで仕えることになります。

やがて義時の死
「ああ、椿殿か、、、」
「義時殿、義時殿、わたしです」
「なんだ本物の八重ではないか。迎えにきてくれたのか。おれはなー。随分と人を殺してきた。極楽には行けそうもない。お前とはあの世でも会えない」
「自分を善人だと思っている者でも往生はできるものです。まして悪人だと思う心があれば、なんで成仏できないことがありましょうや。あなたは極楽に行けますよ」
「ああ、そうか。ありがたい。あっ、椿殿ではないか。泰時を、泰時を頼みます」

泰時、急を知って京から鎌倉へ
泰時「義母が毒を盛ったとか、政村を次の執権に担いでいるとか、正確なことが分からないのです。椿殿」
椿こと八重「それはみんな嘘です。義時殿の死を利用して、裏でうわさを流しているのはあの一族」

てな感じで、椿こと八重こと「新垣結衣」は、政子とともに、「名執権北条泰時の誕生」に深くかかわるのでした。さらに八重が救った鶴丸は、成長して、、、、。

とにかく「このドラマの最後の希望、北条泰時が誕生」して、「つらいことが多いこのドラマも、一応はハッピーエンド」です。ただ全部予想です。

「#後白河院のスマホ」・保元の乱まで3話・鎌倉殿の13人スピンオフ

2022-05-29 | 鎌倉殿の13人
1,中継ぎで帝になった男

後白「舞え、舞え、かたつむり♪、やりだせ、つのだせー」
鳥羽「後半歌詞違わないか。雅仁、相談あるんだけど」
後白「あっ父さん。大丈夫すか」
鳥羽「いつまでも死んだ近衛のことで、泣いていてもしょうがない」
後白「まあ、そうすね。世は無常ですからね。諸行無常の響ありってね」
鳥羽「それ平家物語だろ。時代考証的におかしくないか。まあとにかく、それでさ、美福が育てているお前の子、守仁を帝にしようと思ってな」
後白「ああ、そうすか」
鳥羽「リアクション薄っ!もっと驚けよ」
後白「政治興味ないんすよ。面倒くさそうだし。武士とか怖いし」
鳥羽「じゃあそれでいくから、ヨロシク。あっ、電話だ。ああ忠通っちゃん。えっ。何。親より先はおかしいから、とりあえず雅仁を中継ぎで帝にする!」
後白「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ。ぴえん超えてぱおん、なんすけどー」 注 ぴえん超えてぱおん・・少し涙が出るどころではなく、大声で泣きそうだの意味

2,基本的に人まかせな男

後白「われらもついには仏なりー、あなたも仏になれますよー、死体って意味じゃないからねー♪」
信西「よっ。相変わらずいいお声だ。あのー荘園整理令のことなんですけど」
後白「いいよ。いいよ。信西ちゃんなら間違いないから。あれ好きだなー、信西ちゃんの名言、今一度日本を洗濯いたし申しそうろう、だっけ。カッコいいー」
信西「いやそれは。あっ、言ったかな。うん、言ってるな。言った気がする。ありがとうございます。じゃあ印を押してください。こことここね。シャチハタはダメですよ」
後白「いいよいいよ。ポチッとな」
信西「清盛さんも協力してくれてますしね。これで日本は安心だってとこですよ。儒教っていいな、礼の思想っていいな♪。じゃあバイバイきん」

後白「忙しい男だな。我をたのめて来た男ー。その名は信西。ジーニアス。ほんとは儒教の学者だよ。仏教じゃなくて儒教だよ。あっ、電話だ。あっ清盛ちゃん。えっ、何。信西ちゃんが兄ちゃんを攻撃しろと言ったけどいいかって。聞いてないよー」

3,勝ってしまった男

後白「仏は常にいませどもー。なんだかはっきり見えないなー。そういう時こそクリンビュー♪」
信西「保元の乱の後始末。だいたい終わりました」
後白「だからさー。やり過ぎなんだよ。都で死刑とか。やだなー。祟られるよ。お前死ぬよ。オレも危ないな。寺作ろうよ。怨霊対策。何はなくとも怨霊対策」
信西「もとより地獄行きは覚悟の上、仏に逢たら仏を殺し。」
後白「冥府魔道か!柳生一族の陰謀の徳川家光か!ぜってー違うからな。親に逢うたら挨拶し、仏に逢うたらニッコリ笑い、、、だ」
信西「それでー、新院(崇徳)にも、ちょっとばかり長期旅行に行っていただこうかと。どこかがいいかなー、、なんて」
後白「遠流じゃん。それって遠流じゃん。もう本当やだ。あっ、兄貴はうどんが好きなんだ。讃岐だよ。讃岐しかない。すぐ呼び戻せよ。」
信西「うどんってなんすか。じゃあ、讃岐ってことでいきますね」

後白「讃岐に電話しよ。あっ、兄ちゃん。ごめん。本当にごめんね。全部信西のせいだからね。これは逃げ口上じゃなくて本当だからね。えっ、元気。うどんが美味しい。そりゃ良かった。調べたら盆栽なんかも名物らしいよ。あっ、送ってくれたお経ね。ちゃんと納経するから。安心して。まあさー、今まで人任せだったけどさー。やってみるわ。10年、10年ガマンして。必ず呼び戻すから」

後白「兄ちゃん元気で良かったな。にしても信西、やりすぎだよな。命惜しくないかね。えっ、えっ、あっ、源義朝。痛い痛い、どこへ行く。清盛ー、清盛ー。ヘルプミー、プリーズ!」

第4話につづく予定。

上総介広常の「大疑問」・一つの仮説・鎌倉殿の13人関連

2022-05-27 | 鎌倉殿の13人
上総介広常は「草燃える」では、小松方正さんが演じて、とにかくガラの悪いおっさんでした。「おい武衛ふざけんじゃねえぞ。佐竹が先だろ」とか言ってました。「おい武衛、パン買ってこい」とか言いそうな勢いだったのを覚えています。

私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、

1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。
2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。
3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何なの?子分なの。協力者なの。友達なの。「おい、義朝親分、パン買ってこい」って感じだったの。
「義朝をまとめ役として紛争を仲裁してもらった」の。それとも「仲裁させていた」の。あっ。義朝は国司しかも守だったっけ。国司に郎党がいるわけだ。
4、本当にたくさんの兵を持っていたの。平治の乱に参加して負けてるけど、兵は連れていかなかったの。なにより暗殺後、その兵なり家人なりにはどうしたの?梶原景時に「あだうち」しないの?
5,在庁官人なの?在庁官人って具体的に何をしていたの。たとえ在庁官人じゃなくても、「親分」として政治をしていたの。じゃあ「字の読み書き」できるよね。「上総介」なら国司なんだから、字は当然読めるし書けるよね。
とかまー色々です。

頼朝に2万騎で駆け付けたとか言われてますが、当時の生産力からして2万騎なんて絶対ありえません。かなりの大勢力でも「数百騎がいいところ」と言われます。とにかく「兵の数」は盛りに盛られています。

仮説
上総を「実効支配」していたのかなと思います。「上総介」も「金で買った」か「勝手に名乗った」のかなと(仮説です)。つまり都ともまあうまく(年貢を少し上納)やりながら、大部分の年貢は自分の家のものにしていたのかと。

別に「源氏の恩」とかなかったでしょう。源義朝を「利用はしただろうけど」、子分に収まるとかそんな殊勝なおっさんとは思えません。平治の乱も、とりあえず参加したけど、源義朝、義平が不利と見るや、さっさと引き上げたのでしょう。ロマン的武士像という色眼鏡をはずせば、ドライで利にさとい地元の親分の顔が見えてきます。義朝に仲裁してもらったのではなく、仲裁させていた。そこはドライに互いに利用しあっていた。「恩だ、忠だ、義だ」というのは、江戸時代の話で、江戸時代さえ本当にそういう雰囲気だったかは疑問です。

ここは全く自信がない仮説ですが、どうも私には恩義的武士集団が理解できない。だから当面この仮説で考えてみて、「だめだ」と思ったら放棄します。

平家や平清盛と戦っています。途中までは、平家の力を利用してましたが、最後は仲たがいです。本質的に上総を実力で支配したおっさんで、年貢なども「みやこに送る分」は自分たちの裁量で「これぐらいでいいだろう」と決めていたのでしょう。ところが平家が力をつけて、中央集権化してきた。生意気にもきちんと年貢を取ろうとした。それで「仲たがい」だと思います。

関東独立の志向が強かったことは頼朝が言っていて、それはその通りでしょう。でも特別強いわけじゃなく、他の御家人も同じだった。暗殺の理由は、ちょっと分かりません。

以上は仮説です。間違っていることも多いでしょう。でもこういう仮説を組み立てて、自分の頭で考えることが楽しいのです。自分の仮説を自分で潰す。結構勉強になります。

「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題

2022-05-25 | 鎌倉殿の13人
貴族から武士の世へという構図は間違っている、という本が多くあります。ふと「そうかな」と思いかけたのですが、色々考えて「貴族から武士へ」は間違っていないと思うようになっています。

大河ドラマのOPでも「武士が貴族に挑んでいる兵馬俑」みたいのが描かれます。「日本史への間違ったイメージを増長する」という方もいるでしょうが、いや「合っている」と思うのです。個人的には。

どうして「貴族から武士の世へ」が「成立しない」可能性があるのか。もっとも重要なのは「荘園という同じシステムに乗っかった収奪者である」という点です。荘園には公家寺社本家とか下司とか武士地頭とか、複数の人が利権を持っていて年貢(コメとか労役とか)を「ぶったくって」います。だから「武士が新時代のヒーローなんて図式は成立しない。同じ穴のむじなだ。」というわけです。

「誰がヒーローだなんて言ったのだ」ということです。だから「ヒーロー、英雄視」を否定しても意味はない。ただ「政治というか、ぶったくりの実権が貴族から武家に移った」というお話です。価値判断はないわけです。「ぶったくり」は価値判断かも知れませんが、、、。

武士も貴族も権力者です。その点では同じです。だから貴族という権力者から武士という権力者に実権が移ったということになります。「虐げられてきた武士の怒りが爆発して貴族を倒した」なんて言ってないわけです。ただ「権力が移行」したというだけでしょう。変な「想定」をしてその「想定」を否定しても、そんな「想定」してないから、困ってしまうということになります。清盛が「王家の犬になりたくない」と叫ぶ。あれは物語の話です。

昨日吾妻鏡の1185年以降の部分を現代語訳で読んでいました。頼朝はもう後白河と和解してますから、非常に丁重です。いやその前から丁重です。で、後白河が「地頭が本家に年貢を上納しない、なんとかしてくれ」と言うわけです。すると頼朝は「ちっとも知らなかった。驚いた。よくよく叱ってなんとかします」と応じます。知らなかった?

「地頭を置けば、ちゃんと貴族にも分け前入れるって言ったよな。全然年貢上がってこないんですど。子分をちゃんと指導してんのか」という院の怒りに対して、「ごもっとも。院の意向に全面的に従います」と応じるのですが、その後も「同じことの繰り返し」です。ちっとも改善しない。その上、都の治安も良くない。すると「武士が守るって言ったじゃないか。もっとましな警備員を派遣しろ」となります。

頼朝、口だけなわけです。そりゃ、少しはやるだろうし、やったふりもするけど、本格的に地頭を取り締まろうとしていない。していたら「同じことの繰り返し」は起きません。ついには「本家だって地頭に恨みをもって、いい加減なこと言ってませんか」と少し逆切れしてみせます。また「都の治安なら貴族にも立派な検非違使がいるじゃないですか」とも言う。院側は「あれはさー。見てくれなんだよ。警備能力がないわけ。とりあえず検非違使という職を与えているだけ。わかってよ」と応じます。頼朝はやっと「じゃあ仕方ない。〇〇を派遣しますよ」となる。「京都のことぐらい自分たちでやれよ」という不満が見えるようです。でも結局は幕府が色々やるのです。

結び
武蔵野大学、桃崎有一郎教授の「武士の起源を解き明かす」という本があります。こう書いてある。

「ところで、四世紀近い中世の大部分で、京都の形式的な主人は天皇と朝廷だったが、日本の実質的な支配者は武士だった。京都で最も重要なこと、たとえば大規模なインフラ工事に(中略)決定権を持っていたのは間違いなく武士であって朝廷ではなかった。」

ならば

「中世京都を形成したのは、一般に漠然と信じられている天皇や朝廷や町人ではなく、武士ではないか、という疑いが生まれる」

桃崎氏は「京都の歴史の専門家」であり「礼思想の専門家」でもあります。

「京都は武士の都市である」「天皇は時々京都を破壊するが、そのたびに武士が京都を再生した」、、言われてみれば目からウロコ、その通りです。すでに平清盛の段階から、大きな事業は武家が行っています。昨日読んでいた「吾妻鏡」所収の「手紙」からも感じるのですが、公家側は基本的には「なんとかしてくれ」というだけです。実際に建物を修理したり、荘園から年貢をとったり、都市のインフラを整えたり、治安を守ったりするのは幕府です。

公家の都と思われていた京都さえ「武士の都なのではないか」、、、これがどれだけ検討されているかは、学会のことは全く知らない私には分かりません。ただ個人的には、考え、検討すべき重要な提言だと思います。

短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです

2022-05-24 | 鎌倉殿の13人
小説「九郎義経のハッピーエンド」 鎌倉殿の13人 「史実のネタバレ」を含みます。九郎義経と足利義氏のこと、鎌倉殿禅譲のこと、以外は「少しだけ史実に近い感じ」で書いていますが、完全なフィクションです。「承久の乱の大筋」を知らない方は、史実ネタバレするので読まないことをお勧めします。

健保6年、1219年、頼朝の挙兵から既に39年がたっていた。多くの人々が鬼籍に入った。名前を挙げればきりがないだろう。そして源頼朝も、もうこの世にない。頼家、実朝と「鎌倉殿」は移り変わった。

その実朝が甥の鎌倉八幡宮別当(長官)公暁によって殺された。公暁は頼家の忘れ形見である。ほんの二年前、京から鎌倉に舞い戻り、北条政子のはからいで別当職についた。政子にとっては公暁は孫であり、実朝は次男である。

その日、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日、北条小四郎義時は、実朝に近侍していた。しかし本宮には近侍は連れていけない。実朝の死はあっけなかった。

実朝は義時にとって、決して好ましい「鎌倉殿」ではないと民は思っていた。資質は十分だった。しかしあまりに京に寄り過ぎた。和歌においては後鳥羽院の弟子というべき存在であった。そのため暗殺の背後に義時がいる、または三浦の義村がいる。うわさは色々だった。しかしつまるところ、公暁の単独犯行であった。その公暁もすぐに追手に誅せられた。

源頼朝の血統は絶えた。

鎌倉殿は源氏でなくともよい。実は実朝自身がこの考えを持っていた。実朝は鎌倉幕府の本質が坂東武者の連合政権であることをよく理解していた。無駄に源氏の血が流れてきた歴史に自分が終止符を打とうと思っていた。実朝は数回、鎌倉殿の地位を義時に禅譲したいと密かに申し出た。しかし義時は固辞した。御家人が納得しないというのがその理由だった。すでに多くの一族を北条氏は討ってきた。鎌倉には北条に対する不満が山積していた。とてものこと鎌倉殿になどなれない。
実朝は政子や義時と図って、京から摂家子息、できれば幼い親王を呼んで、鎌倉殿の地位につけたいと計画していた。「お飾り」で良かった。いや「お飾り」こそ必要だった。坂東武者の血縁がいない高貴な血筋。成長して政治力を持とうする前に京に送り返す。それを繰り返していけばいい。実朝はそう計画していた。政子も義時もそれを支持した。
「公暁とともに、頼朝殿の血を自ら絶とうとしたのかも知れない」と政子は泣きながら言った。新しい鎌倉殿には、かねてからの計画通り、京から摂家の子息が迎えられた。

小町亭の義時宅に、半ば公然と奈良の寺の一角で暮らしていた九郎判官義経が現れたのはその頃だった。義経が静と奈良で百姓暮らしをしていることは、御家人なら皆知っていた。むろん頼朝も知っていた。
「九郎は鎌倉第一の功労者ではないか」と頼朝は言った。
これは「平家打倒」を指すものではない。九郎が「逃げ回って」くれたおかげで、頼朝は朝廷から多くの権利を獲得した。九郎追討の名のもとに、税をとる権利、地頭を置く権利を獲得した。さらに奥州出兵の大義も得た。九郎の「功績」はむしろ「平家打倒」のあとの方が大きかった。
「それに免じて」と頼朝は言った。そもそも九郎への同情心が強い御家人たちに、反対するものはいなかった。あの梶原景時さえ一言も言わなかった。

「九郎か、久しぶりだ。死ぬ前に一度会いたいと思っていた」九郎殿とは言わなかった。義時は今は鎌倉の主とも言える執権である。武家の棟梁と並ぶ立場だった。そしていささかの「愛着」も込めていた。今でも義時は、三浦義村を「平六」と呼ぶ。そうした友情を込めて「九郎」と呼んだ。
その思いは義経にも伝わった。義経が激することはなかった。
「小四郎、偉くなった。よく頑張ったな。誉めてやる。」義経の態度は相変わらず尊大である。
「九郎、命が危ないと思わなかったのか」
「兄上の遺言があるだろう。奈良から出ない限り、九郎には手を出すな」
「奈良から出ているではないか」
「なにもかも昔のことだ。忘れろ。いまさら俺を殺してなんになる。それより実朝のことだ。兄上の血筋はこれで絶えた。他の源氏はどうしている。」
「今のところ動こうという一族はいないようだ」
「そりゃ、そうだな。鎌倉殿の地位なんぞ、呪われた地位だ。すこしも幸福じゃない。おれは頼まれてもお断りだ。」
「だれがお主に頼むか。それよりなぜ危険を冒して鎌倉に来た」
九郎は声を落とした。
「静が病だ。もういかん。もってひと月だろう。里が看病してくれている。息子に会いたいと言っている。」
「足利義氏殿か」
「そうだ。死んだことになっている俺と静の息子だ。義兼が兄上の命で養子にした。義氏は知っているのか」
「知っている。何もかも知っている。あの男はいいぞ。お前と違って身の程を知っている。控えめで真面目で、欲がない。清和源氏を鼻にかけることもない。いい武者に育った」
「それなら話は早い。静は動けない。奈良に来いと伝えてくれ」
「あい分かった。早く去れ。お前が鎌倉殿の地位を狙ってここに来たと思う輩が出てくる。おれにしても黒幕扱いされたのではたまらん」
「わかったよ。邪魔者は去るのみだ。小四郎、ありがたく思うぞ」
去り際
「小四郎、弁慶が京で妙なうわさを聞きつけてきた。後鳥羽の院が騒がしくなっているそうだ。気をつけろ」
「それは俺もつかんでいる。大丈夫だ。まさか院から戦を起こすことはあるまい」
「いや、わからんぞ。院はなんでもできるそうだ。和歌も蹴鞠も、刀まで自分で作る。腕っぷしも強いらしい。それに若い。昔の俺のように、自分を過信する男かも知れない」
「腕っぷしか。しかし坂東武者とは気持ちが違う。自分の死を考えたことはないだろう。いくら腕っぷしが強くても、刀が打てても、京の御所の中にいたのでは、武士とは何か。どういう人間か。そこが分からん」
「要するに武士とはちょっと頭がおかしいやつら、ということが分からないということか。分からないから余計に危うい。せいぜい気をつけることだ」
そう言って九郎は去った。足利義氏は奈良に出向いた。この義氏の子孫が足利尊氏であるが、彼が室町幕府を開くのは、100年以上後のことである。

承久3年、1221年になった。後鳥羽院による「北条義時追討の宣旨」が下った。承久の乱の始まりである。
義時の子、金剛は見事な武者に育っていた。はじめ「頼時」と名乗った。頼朝の一字をもらったのである。実朝がそれを嫌った。「父のようになってほしくない」というのがその理由だった。天下の安泰を願って「泰時」と名乗るよう言われた。後世、鎌倉随一の政治家と言われた北条泰時である。
政子や義時、義時の弟の時房、大江広元、三善康信、泰時、三浦義村といった幕府首脳は、「義時追討の宣旨」を幕府つまり関東追討の宣旨と捉えた。京では鎌倉政権を関東と呼んだ。当時、「追討宣旨」を幕府のような「機関」に出す先例はない。「追討宣旨」には朝敵の個人名が必要だった。そして義時が名指しされた。北条義時が倒れれば、幕府が鎌倉という場所に残るはずもない。新たな坂東武者の主(三浦が最有力だが)は京に召されるだろう。地頭職は残っても、鎌倉に幕府は残らない。有力御家人もみなそう受け取った。
しかし宣旨の力は大きかった。頭では、みな分かっていた。頼朝追討の宣旨など数回出された。朝令暮改のようにそれが義経追討の宣旨に変わった。宣旨は坂東武者にとってそういうものだった。
しかし中世は宗教と迷信の時代だった。宣旨は軽くとも、後鳥羽院には何か人を呪い殺すような特殊な力があるようにも思った。それも迷信だと頭では分かっていた。しかし心のどこかに恐怖があった。
そんな義時たちの前に、九郎がふらりと現れた。
「私が呼んだのです」と泰時が言った。
「これで勝てる」、義時たちは瞬時にそう思った。しかし心が華やぐということはない。上皇に勝つということが何をもたらすか分からなかった。
「何を暗い顔をしている。小四郎、いろんな借りを返してやる。」
九郎は会議の主役となった。
「大江広元、京都育ちだったよな。宣旨が恐いか。どうだ」
「宣旨などというものは、勝てばたちどころに撤回されるもの。上皇も人の子。人を呪い殺す力などありません。しかし御家人にそれが分かるか。ともかくも、すぐに動くことです。でなければ御家人たちに動揺が広がります」
「よく言った。そうだすぐに動くことだ。ああ、そこで寝ている三善の爺さん。病なのにご苦労だな。どうだ」
「大江殿と同じ意見です。そもそも我らが京を捨てたのは、こうなることを見通してのこと。すでに今日があることは分かっておりました。戦のことはともかく、京のことは我々がよーく知っています」
「そうだ、いずれこうなったのよ。金剛、いや泰時だっけ。金剛の方が強そうでいいと思うけどな。これは金剛推しだぜ。お前どう思う。」
「少し様子を見て」
「バーカ、慎重もいい加減にしろ。様子なんて見てたら、どんどんどんどん相手が有利になるのさ。御家人に考える時間を与えないことだ。やつらは動き出したら止まらない。動いているうちに、上皇への恐怖などなくなって、死に物狂いになるもんさ。泰時、お前は大将だってな。一人でいけ。これが終わったらすぐ馬に乗って京へ走れ。どうせお前は慎重居士なんだろ。そのお前が飛び出せば、御家人たちは我先へと追いかけるさ」
「相分かった」泰時の顔が紅潮した。
「さて、姉上、姉上は御家人に話かけるのです。やつらは恩義に弱い。恩とはつまりは利。やつらは利にさとい。恩という言葉で、利を刺激するのです。」
「わかりました。すぐに盛時と文章を考えます」
「思いっきり感動的なので頼みますよ。さて最後、小四郎お前だ」
「俺は何をすればいい」
「何もするな。話すな。動くな。山のようにどんと構えてろ。間違っても心配事や弱気を口にするな。お前が動揺すれば、みなが動揺する。」
「よし分かった。で九郎はどうする」
「馬鹿だな。金剛が飛び出せば、そこで勝負ありだよ。まあ大体の作戦はここに書いてきた。この通りやれば勝つ。俺は金剛の勝利の舞を見に行く。金剛、面白く踊ってくれよ。」
「分かりました。出ます。しかし上皇様ご自身が先頭にたって向かってこられたらどうすれば」
「来ないけどね。まあ来たら、一旦は馬を降りて、礼をしろ。丁重に礼をしろ。そして丁重にとっつかまえろ。それで勝負ありじゃねえか。来てくれたらありがたいな。ありがたく、捕まえて差し上げろ」
「おい、平六(三浦義村)、これでいいか。大丈夫か。弟は京都側の大将なんだろ。馬鹿な弟を持つと苦労するよな」
「ああ、馬鹿な弟ほど始末におえないものはない。武衛(頼朝)の気持ちがよく分かったよ。小四郎、俺も京に行くぜ。せめて胤義を俺の手で立派に死なせてやりてえじゃねえか」
九郎はつぶやいた。
「後鳥羽の院もかわいそうな男だ。年は30の半ばか。才能があったのがいけなかった。凡庸なら、可もなく不可もなくで生きていられただろう。小四郎、殺すな。殺せばのちが怖い。お前の名が悪名として残る。これだけのことをやったのだ。これで本当の武士の世がくる。歴史に美名を残せ。まあ美名は無理でも、極悪人扱いはお前も嫌だろう。まあ朝廷をなくしてしまうというなら、そこまで徹底してやる気なら、話は違うけどな」
「そこまでやる気はないし、できはしないさ。分かっている。院は丁重に扱うよ。ただし遠流だ。あの才気は、正直怖い。」
「怖いと言うなと言っただろう。雷が鳴っても、大風か吹いても、何も恐れるな。祟りなんてものはない。小四郎、お前は怯えてはならんのだ。死ぬのなんて怖くないだろう。どうせお前の地獄行きは決まっているのだ。死んだら地獄で会おう。兄上も地獄で待っていることだろうよ。」
九郎は微笑んだ。
「そうだ、泰時。お前が次の執権だ。俺は今百姓だ。だから言うが、民を思え。まあ飢えないほどコメか粟があればそれでいい。それと頭が悪いくせに威張っている、残忍な地頭を取り締まれ。あんな奴らをのさばらせたのでは、滅ぼした平家に申し訳がたたん。しっかりやれよ。」
泰時は頷いた。これで会議は終わった。泰時は発った。結果は九郎の言う通り、幕府側の勝利に終わった。

九郎は御家人になる誘いを断り、多くの金銀を貰って西へ去った。非御家人ながら奈良に豊かな荘園を一つ手に入れた。九郎は里や子供たちとともに畑仕事をして暮らした。時々、京に出向いては白拍子を呼んで遊んだ。鎌倉の御家人たちの子弟は、九郎のもとに出向いて合戦の話を聞くことをせがんだ。九郎は喜々として手柄話を話した。義経は余生を「おもしろく」生きた。 了。

鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。

2022-05-23 | 鎌倉殿の13人
変な題名ですが、「ジンギスカンは義経にあらず」という大正13年に出た本の題名のパクリです。大正13年に義経ジンギスカン説がブームとなり、それを「いさめる」ために書かれた本です。

まあ新田義貞の作戦に似ているし、「新田義貞のもの」でもいいのです。ただし難癖をつければ「新田義貞は船を持っていなかった」はずです。刀を持って海に祈ったら、海の水が奇跡的に引き、海岸を馬で渡って鎌倉に乱入した、、とまあこれも「伝説のたぐい」ですが、そうなっていたと思います。

陸上に敵を引き付けて、船を使って長距離移動し、敵拠点を攻める。「これをやられていたら、とても勝てない。」「鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」。

それで私が思いつくのは幕末の幕府対官軍の戦いです。「花神」という作品でおなじみです。「花神」は三谷さんが好きな大河の筆頭として挙げている作品です。

結論から言うと、新田義貞の作戦とは船を使う点で違っている。これは江戸幕府の京都攻略計画である、ということです。

官軍は東海道を主力部隊として江戸に攻めてきました。それを「箱根の関」で足止めする。さらに海軍を回して官軍に艦砲射撃を加える。

そして海軍主力は、船に幕府歩兵を積んで、大阪湾に向かう。官軍の兵は関東に出払っている。上陸を阻めない。そこから京都を攻めて、官軍政府をせん滅する。これが幻の「京都攻略計画」です。

実際に計画されたようです。しかし軍事的に一回は勝てても、政略的、政治的に勝てないと時局を洞察した徳川慶喜によって退けられています。

これを知った長州の天才的軍略家(花神の主人公)、村田蔵六はこう言ったといわれています。

「これをやられていたら、官軍はとても勝てなかった。京都は陥落しただろう。」

このセリフは今回の梶原景時のセリフとそっくりです。いろいろ書きたいこともあるのですが、とりあえず以上です。