東大の教授で鎌倉時代が専門の本郷和人さんが、鎌倉幕府というのは「武士の武士による武士のための政治」が行われた時代なんだよと書いています。
本郷氏はおそらく子供の頃、大河「草燃える」を見てこの認識に触れたのではないかと思います。「草燃える」では、晩年の北条義時・松平健さんがこういうのです。
「おれは、今になって、おれの兄貴がやろうとしたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまでも源氏は借り物」
「草燃える」は1979年ですから、私もまだ子供でしたが、よく覚えています。「なるほどな」と思ったのです。源氏が三代で滅んだのに、鎌倉幕府は続いていく。子供心に「おかしいな」と思っていたのですが、主体がそもそも北条氏など関東武士で、源氏は「みこし」に過ぎないとすれば、すとんと得心できます。
鎌倉幕府の成立はいつか問題が存在します。もっとも当時は幕府なんて言葉使ってません。「鎌倉殿」が政権をも指します。頼朝も頼朝の政府も「鎌倉殿」だったようです。朝廷では「関東」と言ったのかな。室町時代になっても幕府なんて言いません。公儀です。幕府が一般用語となったは江戸も後期で、定着したのはたぶん明治時代です。幕府という言葉を使わないのに、幕府の成立というのは実は変な話で、だから「成立年」はよく分かりません。源頼朝が「幕府を開くよ」なんて言うわけないのです。幕府という言葉は存在しましたが、政権は指しません。徳川家康も「幕府を開くよ」と言ったことはありません。自らの政権を幕府と呼んだこともないはずです。
という事情もあって、成立年ははっきりしません。論理的には永遠にはっきりしないはずです。でもでもでも。それじゃあ「日本史を教えにくい」という先生もいるようです。だから昔は1192年になっていた。今は1185年と教科書に書いてあります。
鋭い子供がいたら「あれ、頼朝が征夷大将軍になったのは1192年なのに、なんで幕府の成立がその前なの」となると思います。「それを考えさせたら」面白いと思いますが、学校にそんな時間があるのかは分かりせん。「将軍がいなくても、幕府(武士政権)は成り立つ」というのはやや難しい問題です。ホント、学校では「将軍いなくても幕府は開ける説」をどう子供に教えているのかなと思います。説明が難しい。鎌倉期は将軍不在の時代があった。頼朝もどうやら将軍を辞任している。頼家もすぐには将軍になっていない。豊臣政権は武士政権だが、将軍に依存していない。武士政権にとって「将軍」は必須ではない。朝廷が将軍に任命しなくても、武士団が自分たちの長と認めればいいだけであり、政権政府を開くことが可能となってくる。子供はだいぶ混乱するような、、、いや子供は柔軟だから大丈夫なのかも知れません。
さて、鎌倉幕府または鎌倉殿の成立。1180年から1192年ごろのいつか。それでいいと私なんぞは考えます。朝廷の権威を重視して「〇〇に朝廷が任じた年」とすると1185年とか1192年という数字が出てきます。いや朝廷からはかなり独立性が強かったんだ。そうなると、頼朝が挙兵をして鎌倉に入った1180年をもって成立と言えるわけです。「歴史をどう考えるか」によって成立年は変化することになります。「こう考えると、こうなるというだけである」と歴史学者の近藤成一さんはTVでおっしゃっていました。氏自身は1180年説ですが、自説への過剰なこだわりはないようです。そういう寛容さを持つ歴史学者は「いい感じ」です。「正しさ」に過剰にこだわると、相手を否定することに無駄な力を使うことになってしまうからです。ちなみに1180説なのは鎌倉殿の独立性を高いものと考えるからでしょう。私も同じ考えですが、別に人にその考えを押し付ける気持ちはありません。
北条氏は何故将軍にならなかったのか、という問題設定なども鎌倉殿の独立性が考慮されないといけないでしょう。この問いの前提には「朝廷の権威を背負った将軍になったほうがいいのに」という考えが存在します。そういう歴史認識を前提に「無自覚に」問いを発してしまうと「ならないほうがいい」という考えが存在する「ゆとり」がなくなるのです。
ここからは私の「暴論」となりますが、「ならないほうがいい」からならなかった。暴論というか、権門体制論ではなく二つの王権論にどっちかというと論的整合性があるように感じます。
「鎌倉殿」は「鎌倉殿」でした。何が言いたいかというと、朝廷から「鎌倉殿」と認定されたわけではないということです。「朝廷の許可」などいらないのです。関東の武士が「実質的な幕府の長」と認めれば「実質的な幕府の長」です。
北条氏も後期になると「鎌倉殿みたいに」になっていきます。「鎌倉殿」とは呼ばれず「得宗」と呼ばれました。北条義時の時代は「得宗」という言葉はなかったと思いますが、義時の「実質的な鎌倉殿化」は進んでいたと思います。将軍(名目上の鎌倉殿)はたしか藤原頼経です。
「将軍は任命できるけど、北条義時みたいな実質権力者は任命できない」わけです。後鳥羽上皇は「将軍追討令」は出しませんでしたが、「北条義時追討令」を出します。自らの権威から独立した存在である「北条執権」など認めないということかなと思います。そして承久の乱が起きるのです。
その後も北条氏は「幕府の運営者」であり続けましたが、それは「朝廷の許可を得て任命された地位」ではありません。朝廷に就任を邪魔されることもありません。北条得宗は鎌倉の宰相ですが、その世襲に朝廷が口を出すことはできません。だから「将軍になどならないほうがいい」のです。織田信長もそうでした。二位という位は返還しませんでしたが、官の方は辞任して、無官の二位です。朝廷が官に就いてくれと言っても、丁寧に断りました。私の「夢想」では、彼は朝廷に左右されない「安土殿」という存在を目指していたように思います。「安土殿」は「鎌倉殿」「得宗」の信長バージョンです。
ド素人の「思いつき」だと思ってお許しください。こう考えると、私的にはスッキリするのです。合理的に説明がついているような気になるのです。
本郷氏はおそらく子供の頃、大河「草燃える」を見てこの認識に触れたのではないかと思います。「草燃える」では、晩年の北条義時・松平健さんがこういうのです。
「おれは、今になって、おれの兄貴がやろうとしたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまでも源氏は借り物」
「草燃える」は1979年ですから、私もまだ子供でしたが、よく覚えています。「なるほどな」と思ったのです。源氏が三代で滅んだのに、鎌倉幕府は続いていく。子供心に「おかしいな」と思っていたのですが、主体がそもそも北条氏など関東武士で、源氏は「みこし」に過ぎないとすれば、すとんと得心できます。
鎌倉幕府の成立はいつか問題が存在します。もっとも当時は幕府なんて言葉使ってません。「鎌倉殿」が政権をも指します。頼朝も頼朝の政府も「鎌倉殿」だったようです。朝廷では「関東」と言ったのかな。室町時代になっても幕府なんて言いません。公儀です。幕府が一般用語となったは江戸も後期で、定着したのはたぶん明治時代です。幕府という言葉を使わないのに、幕府の成立というのは実は変な話で、だから「成立年」はよく分かりません。源頼朝が「幕府を開くよ」なんて言うわけないのです。幕府という言葉は存在しましたが、政権は指しません。徳川家康も「幕府を開くよ」と言ったことはありません。自らの政権を幕府と呼んだこともないはずです。
という事情もあって、成立年ははっきりしません。論理的には永遠にはっきりしないはずです。でもでもでも。それじゃあ「日本史を教えにくい」という先生もいるようです。だから昔は1192年になっていた。今は1185年と教科書に書いてあります。
鋭い子供がいたら「あれ、頼朝が征夷大将軍になったのは1192年なのに、なんで幕府の成立がその前なの」となると思います。「それを考えさせたら」面白いと思いますが、学校にそんな時間があるのかは分かりせん。「将軍がいなくても、幕府(武士政権)は成り立つ」というのはやや難しい問題です。ホント、学校では「将軍いなくても幕府は開ける説」をどう子供に教えているのかなと思います。説明が難しい。鎌倉期は将軍不在の時代があった。頼朝もどうやら将軍を辞任している。頼家もすぐには将軍になっていない。豊臣政権は武士政権だが、将軍に依存していない。武士政権にとって「将軍」は必須ではない。朝廷が将軍に任命しなくても、武士団が自分たちの長と認めればいいだけであり、政権政府を開くことが可能となってくる。子供はだいぶ混乱するような、、、いや子供は柔軟だから大丈夫なのかも知れません。
さて、鎌倉幕府または鎌倉殿の成立。1180年から1192年ごろのいつか。それでいいと私なんぞは考えます。朝廷の権威を重視して「〇〇に朝廷が任じた年」とすると1185年とか1192年という数字が出てきます。いや朝廷からはかなり独立性が強かったんだ。そうなると、頼朝が挙兵をして鎌倉に入った1180年をもって成立と言えるわけです。「歴史をどう考えるか」によって成立年は変化することになります。「こう考えると、こうなるというだけである」と歴史学者の近藤成一さんはTVでおっしゃっていました。氏自身は1180年説ですが、自説への過剰なこだわりはないようです。そういう寛容さを持つ歴史学者は「いい感じ」です。「正しさ」に過剰にこだわると、相手を否定することに無駄な力を使うことになってしまうからです。ちなみに1180説なのは鎌倉殿の独立性を高いものと考えるからでしょう。私も同じ考えですが、別に人にその考えを押し付ける気持ちはありません。
北条氏は何故将軍にならなかったのか、という問題設定なども鎌倉殿の独立性が考慮されないといけないでしょう。この問いの前提には「朝廷の権威を背負った将軍になったほうがいいのに」という考えが存在します。そういう歴史認識を前提に「無自覚に」問いを発してしまうと「ならないほうがいい」という考えが存在する「ゆとり」がなくなるのです。
ここからは私の「暴論」となりますが、「ならないほうがいい」からならなかった。暴論というか、権門体制論ではなく二つの王権論にどっちかというと論的整合性があるように感じます。
「鎌倉殿」は「鎌倉殿」でした。何が言いたいかというと、朝廷から「鎌倉殿」と認定されたわけではないということです。「朝廷の許可」などいらないのです。関東の武士が「実質的な幕府の長」と認めれば「実質的な幕府の長」です。
北条氏も後期になると「鎌倉殿みたいに」になっていきます。「鎌倉殿」とは呼ばれず「得宗」と呼ばれました。北条義時の時代は「得宗」という言葉はなかったと思いますが、義時の「実質的な鎌倉殿化」は進んでいたと思います。将軍(名目上の鎌倉殿)はたしか藤原頼経です。
「将軍は任命できるけど、北条義時みたいな実質権力者は任命できない」わけです。後鳥羽上皇は「将軍追討令」は出しませんでしたが、「北条義時追討令」を出します。自らの権威から独立した存在である「北条執権」など認めないということかなと思います。そして承久の乱が起きるのです。
その後も北条氏は「幕府の運営者」であり続けましたが、それは「朝廷の許可を得て任命された地位」ではありません。朝廷に就任を邪魔されることもありません。北条得宗は鎌倉の宰相ですが、その世襲に朝廷が口を出すことはできません。だから「将軍になどならないほうがいい」のです。織田信長もそうでした。二位という位は返還しませんでしたが、官の方は辞任して、無官の二位です。朝廷が官に就いてくれと言っても、丁寧に断りました。私の「夢想」では、彼は朝廷に左右されない「安土殿」という存在を目指していたように思います。「安土殿」は「鎌倉殿」「得宗」の信長バージョンです。
ド素人の「思いつき」だと思ってお許しください。こう考えると、私的にはスッキリするのです。合理的に説明がついているような気になるのです。